本日は、有閑爺い様の寄稿コラムです!
こちらの手違いで有閑爺い様の寄稿コラム更新が遅れましたことを、有閑爺い様にここでお詫び申し上げます。
申し訳ございませんでした。
本日は進撃界隈で人気の中野剛志氏に対する批判ということで様々な議論が巻き起こるかも知れません。
それにしましても、三橋・藤井陰謀論者の妄想とは違って、有閑爺い様の中野剛志批判はそれこそ「批判」と呼べるものでしょう。
それでは有閑爺い様のコラムをどうぞ!
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老いの一徹:『人物「中野剛志」考』 ~有閑爺い様
この稿は、みぬささんから頂いた「因に私は確信するのですが、貨幣負債論を批判する輩の100%は中野剛志さんの富国と強兵を読んでいないと思います。」というコメントを、私なりの受け止めをして、それなりの考えを示す必要があると考え、それをまとめたものであります。
私は「貨幣負債論を批判する輩」の一人であるし、みぬささんの診断通り「富国と強兵」という中野剛志さんの著書は読んでいません。
ただ、中野剛志さんは注目すべき言論人であるし、「その著書は読むべきである」と思い、「日本思想史新論」という著書は読みました。
この著書は「プラグマティズムからナショナリズムへ」という副題を持っており、「あとがき」に平成23年10月とありますので7年前に書かれたものです。第1刷は2012年2月、私の手元にあるのは第4刷で2012年4月ですので、約6年半前に読んだことになります。
この当時の私は、経済のことにはまったく関心がなく、知識はまったく0でした。しかし、三橋ブログに出会い、そこで原子力関連の話題を主にコメントを投稿していたのですが、経済系のブログですので、ちょくちょくと経済ネタにもコメントを投稿するようになったのです。
その時、三橋ブログに現れるコメントが「貨幣」と「金融」に異様に偏重していることに大きな違和感を感じたのです。高度成長期を経験した者の感覚からすれば、『「金貸し風情」が何をぐじゃぐじゃ能書き垂れて』という思いです。
ですので私は、「貨幣負債論を批判する輩」としては筋金入りです。
で、こうした私の感覚からすると「金貸し風情の下劣な考え」には、機会をとらえて論駁すべきと思い、自身のブログを2014年1月に開設しました。そこでの発表内容をご紹介することで、「通貨は借用書である」「通貨は負債でない」という2点は、当初からの私の主張だということがお分かりいただけると思います。
経済ネタの最初はその年(2014年)の2月にアップした「内需拡大」で、内容は「グローバル化批判」です。
しかし、金融の重要性を否定したわけでなく、3月には「借りた金」を需要に換えろという主張を「経済成長の源泉」としてアップしました。この時はまだ私の使う言葉に混乱があり、今読み返すとやや問題ありです。
4月には「新自由主義と雇用(失業)」と題して、新自由主義経済学の思考の異常性について指摘をしました。
9月に「日銀券と国債」と題して、「通貨の本質は借用書である」と今も一貫して主張していることを発表しました。
その後色々と論説を発表しましたが、内容的には「経済成長のメカニズム」と「市中銀行の貸し出しの本質」といったものが主なものでした。
今年の2月に「負債の本質とは」と題して、「通貨は負債でない」ということを述べました。このことは私としては自明のことだったのですが、「貨幣負債論」というものが存在していることを知り、対立する考え方(反論)として発表したものです。
反論は対立仮説に対する批判的記述を含む場合がありますので、その批判的記述のみを捉えて物申される方が出てくることは想定の範囲内でしたが、反ネオリベ・反グローバリズムの立ち位置にあると思っていた方から、そうした非難が寄せられたことに、やや意外な思いがしました。
なぜ、意外に感じたかというと、「貨幣は負債である」ということを主張することで利が得られるのは、ネオリベ・グローバリストだからだ、と私は考えているからです。
もちろん言い分はそれぞれなので、「貨幣負債論」は正しいと感じ、そう信じ、そのことを述べられることに異議はないのですが。
=====
少し、横道にそれましたが、改めて中野剛志さんの著書「日本思想史新論」についてです。
みぬささんの「因に私は確信するのですが、貨幣負債論を批判する輩の100%は中野剛志さんの富国と強兵を読んでいないと思います。」に対してお返事した「あなたの推奨が貨幣負債論に由来すると知ったので、中野剛志氏の書かれた「日本思想史新論」という著書を、その視点から今読み直しているところです。この書はしっかりした内容だと読んだときはそう思ったのですが、眉に唾つけながら読み直すことになろうとは、世も末だと思いました。」ことの実行結果です。
「江戸の経済問題」という項に「商品流通の発達により貨幣需要が増加したが、金銀の産出が追い付かず、貨幣不足となったことである。貨幣不足は、貨幣価値の上昇=物価の下落をもたらす。いわゆるデフレ不況である」という文がありました。
新自由経済学が主張する「デフレは貨幣現象」そのものであります。この文をそのまま捉えれば、中野剛志さんは「頭のてっぺんから足の爪先まで」、新自由主義経済学にどっぷり浸かった人物だといえます。
ですが、中野剛志さんの述べたことを好意的に解釈することは来ます。すなわち、この世代の人は経済を語るのに「新自由主義経済学」が用いる言葉しか使えない(あるいは使わない)からそう表現するのだ、と言えなくはありません。
しかし、言論人が「言葉を奪われた状態」でものを書くなど、ふざけた話ですので、やはりそう信じたからそう書いたのでしょう。
さらに、「朱子学と合理主義」という項目に「主流派(新古典)経済学の経済学者に代表される経済自由主義者もまた、数学的抽象論理が導き出した市場の公理系を根拠として、個人主義的な人間規範を唱道し、民営化や規制緩和などの改革を提言し、実行を促してきた。」という記述があります。
この記述は、非常に意味の取り辛いもので、普通の人からすると、「何のことやねん」だろうと思います。
「数学的抽象論理」が一体何を指しているのか、全く不明です。同じように「市場の公理系」も意味不明であり、それがなぜ「個人主義的な人間規範」につながるかもわかりません。
そのことが突如として具体策である「民営化や規制緩和」にどうすれば結びつくのか、もはや支離滅裂といえるものです。しかも「民営化や規制緩和」を「改革」と考えている節があり、もしそう考えているなら全くのネオリベ・グローバリストです。
全体的には、難しいことなのだから難しい言葉を使って難しく言えば用足れり、という「上から目線」の印象しか残らない文だと思います。これはいびつな発達の仕方をした頭脳を持つ人たちに共通した特徴で、難解なことを平易な言葉で表現をするという努力をしたことのない、一人よがり体質を示すものです。
ただ、私がピックアップした文は「合理主義」ということを説明するために「共産主義」との対比で書かれたものであり、「中国流の合理主義である朱子学と西欧流の合理主義は同根と言える」という結論に導くための記述のパートではあるのですが。
結局、中野剛志さんが「経済」をどう捉えているか、それを自分の言論にどう結び付けているのか、という肝心のことが見えてこないのです。
中野剛志さんの経済に対する認識が自身に明確にあるなら、説明文のどこかに自身の考えが具体的な表現として現れるはずです。私はそのような表現を探したのですが、見つけることができませんでした。
その上、中野剛志さんが「公理とは仮説である」と明確に認識できているか、非常に疑問の残る記述なのです。つまり「理論」とは仮説の上に構築されたものである、という認識がないのではという根源的な疑問が湧いたのです。
中野剛志さんの著書を読み直した結果得た感想は、上記の2点に集約されるのですが、こと経済に関する中野剛志さんの思考の基盤は新自由主義経済・グローバリズムであり、そのことに対して中野剛志さん自身が掘り下げて考えた形跡は見受けられない、といういささか残念な結果になりました。
=====
私は、「殖産興業富国強兵」は今も日本にとって正しいスローガンであると思っています。
そのことを思い、今の現状に目を向ければ「悲憤慷慨」の情にかられるのは当然であります。がしかし、「悲憤慷慨」したからといって世が変わるわけでもなければ、世の人が自分についてくるわけではありません。
また、思考の基盤を新自由主義経済・グローバリズムに置いても「悲憤慷慨」はできます。「悲憤慷慨」の情が同一であるからといって、反ネオリベ・反グローバリズムの立場を崩すことは望ましいことではないと思います。
何が、「殖産興業富国強兵」を妨げているのか、それを正確に分析し、その対策を過去の事例から綿密に立案し、そのことの賛同を広範囲に得る必要があります。しかも、実施に当たっては出来得る限り摩擦を避け、場合により方法に変更を加えるなど柔軟な行動が必要でしょう。
つまり、保守の立場から「殖産興業富国強兵」を進めるしかないし、そのことのみを今の時期に取り上げることも真に正しいかどうかも議論する必要があると思います。
私としては経済成長3%を3~4年続ければ、人の考え方も大きく変わる可能性があると考えており、その時点で「殖産興業富国強兵」を持ち出しても遅くはないと考えます。
私は「貨幣負債論を批判する輩」の一人であるし、みぬささんの診断通り「富国と強兵」という中野剛志さんの著書は読んでいません。
ただ、中野剛志さんは注目すべき言論人であるし、「その著書は読むべきである」と思い、「日本思想史新論」という著書は読みました。
この著書は「プラグマティズムからナショナリズムへ」という副題を持っており、「あとがき」に平成23年10月とありますので7年前に書かれたものです。第1刷は2012年2月、私の手元にあるのは第4刷で2012年4月ですので、約6年半前に読んだことになります。
この当時の私は、経済のことにはまったく関心がなく、知識はまったく0でした。しかし、三橋ブログに出会い、そこで原子力関連の話題を主にコメントを投稿していたのですが、経済系のブログですので、ちょくちょくと経済ネタにもコメントを投稿するようになったのです。
その時、三橋ブログに現れるコメントが「貨幣」と「金融」に異様に偏重していることに大きな違和感を感じたのです。高度成長期を経験した者の感覚からすれば、『「金貸し風情」が何をぐじゃぐじゃ能書き垂れて』という思いです。
ですので私は、「貨幣負債論を批判する輩」としては筋金入りです。
で、こうした私の感覚からすると「金貸し風情の下劣な考え」には、機会をとらえて論駁すべきと思い、自身のブログを2014年1月に開設しました。そこでの発表内容をご紹介することで、「通貨は借用書である」「通貨は負債でない」という2点は、当初からの私の主張だということがお分かりいただけると思います。
経済ネタの最初はその年(2014年)の2月にアップした「内需拡大」で、内容は「グローバル化批判」です。
しかし、金融の重要性を否定したわけでなく、3月には「借りた金」を需要に換えろという主張を「経済成長の源泉」としてアップしました。この時はまだ私の使う言葉に混乱があり、今読み返すとやや問題ありです。
4月には「新自由主義と雇用(失業)」と題して、新自由主義経済学の思考の異常性について指摘をしました。
9月に「日銀券と国債」と題して、「通貨の本質は借用書である」と今も一貫して主張していることを発表しました。
その後色々と論説を発表しましたが、内容的には「経済成長のメカニズム」と「市中銀行の貸し出しの本質」といったものが主なものでした。
今年の2月に「負債の本質とは」と題して、「通貨は負債でない」ということを述べました。このことは私としては自明のことだったのですが、「貨幣負債論」というものが存在していることを知り、対立する考え方(反論)として発表したものです。
反論は対立仮説に対する批判的記述を含む場合がありますので、その批判的記述のみを捉えて物申される方が出てくることは想定の範囲内でしたが、反ネオリベ・反グローバリズムの立ち位置にあると思っていた方から、そうした非難が寄せられたことに、やや意外な思いがしました。
なぜ、意外に感じたかというと、「貨幣は負債である」ということを主張することで利が得られるのは、ネオリベ・グローバリストだからだ、と私は考えているからです。
もちろん言い分はそれぞれなので、「貨幣負債論」は正しいと感じ、そう信じ、そのことを述べられることに異議はないのですが。
=====
少し、横道にそれましたが、改めて中野剛志さんの著書「日本思想史新論」についてです。
みぬささんの「因に私は確信するのですが、貨幣負債論を批判する輩の100%は中野剛志さんの富国と強兵を読んでいないと思います。」に対してお返事した「あなたの推奨が貨幣負債論に由来すると知ったので、中野剛志氏の書かれた「日本思想史新論」という著書を、その視点から今読み直しているところです。この書はしっかりした内容だと読んだときはそう思ったのですが、眉に唾つけながら読み直すことになろうとは、世も末だと思いました。」ことの実行結果です。
「江戸の経済問題」という項に「商品流通の発達により貨幣需要が増加したが、金銀の産出が追い付かず、貨幣不足となったことである。貨幣不足は、貨幣価値の上昇=物価の下落をもたらす。いわゆるデフレ不況である」という文がありました。
新自由経済学が主張する「デフレは貨幣現象」そのものであります。この文をそのまま捉えれば、中野剛志さんは「頭のてっぺんから足の爪先まで」、新自由主義経済学にどっぷり浸かった人物だといえます。
ですが、中野剛志さんの述べたことを好意的に解釈することは来ます。すなわち、この世代の人は経済を語るのに「新自由主義経済学」が用いる言葉しか使えない(あるいは使わない)からそう表現するのだ、と言えなくはありません。
しかし、言論人が「言葉を奪われた状態」でものを書くなど、ふざけた話ですので、やはりそう信じたからそう書いたのでしょう。
さらに、「朱子学と合理主義」という項目に「主流派(新古典)経済学の経済学者に代表される経済自由主義者もまた、数学的抽象論理が導き出した市場の公理系を根拠として、個人主義的な人間規範を唱道し、民営化や規制緩和などの改革を提言し、実行を促してきた。」という記述があります。
この記述は、非常に意味の取り辛いもので、普通の人からすると、「何のことやねん」だろうと思います。
「数学的抽象論理」が一体何を指しているのか、全く不明です。同じように「市場の公理系」も意味不明であり、それがなぜ「個人主義的な人間規範」につながるかもわかりません。
そのことが突如として具体策である「民営化や規制緩和」にどうすれば結びつくのか、もはや支離滅裂といえるものです。しかも「民営化や規制緩和」を「改革」と考えている節があり、もしそう考えているなら全くのネオリベ・グローバリストです。
全体的には、難しいことなのだから難しい言葉を使って難しく言えば用足れり、という「上から目線」の印象しか残らない文だと思います。これはいびつな発達の仕方をした頭脳を持つ人たちに共通した特徴で、難解なことを平易な言葉で表現をするという努力をしたことのない、一人よがり体質を示すものです。
ただ、私がピックアップした文は「合理主義」ということを説明するために「共産主義」との対比で書かれたものであり、「中国流の合理主義である朱子学と西欧流の合理主義は同根と言える」という結論に導くための記述のパートではあるのですが。
結局、中野剛志さんが「経済」をどう捉えているか、それを自分の言論にどう結び付けているのか、という肝心のことが見えてこないのです。
中野剛志さんの経済に対する認識が自身に明確にあるなら、説明文のどこかに自身の考えが具体的な表現として現れるはずです。私はそのような表現を探したのですが、見つけることができませんでした。
その上、中野剛志さんが「公理とは仮説である」と明確に認識できているか、非常に疑問の残る記述なのです。つまり「理論」とは仮説の上に構築されたものである、という認識がないのではという根源的な疑問が湧いたのです。
中野剛志さんの著書を読み直した結果得た感想は、上記の2点に集約されるのですが、こと経済に関する中野剛志さんの思考の基盤は新自由主義経済・グローバリズムであり、そのことに対して中野剛志さん自身が掘り下げて考えた形跡は見受けられない、といういささか残念な結果になりました。
=====
私は、「殖産興業富国強兵」は今も日本にとって正しいスローガンであると思っています。
そのことを思い、今の現状に目を向ければ「悲憤慷慨」の情にかられるのは当然であります。がしかし、「悲憤慷慨」したからといって世が変わるわけでもなければ、世の人が自分についてくるわけではありません。
また、思考の基盤を新自由主義経済・グローバリズムに置いても「悲憤慷慨」はできます。「悲憤慷慨」の情が同一であるからといって、反ネオリベ・反グローバリズムの立場を崩すことは望ましいことではないと思います。
何が、「殖産興業富国強兵」を妨げているのか、それを正確に分析し、その対策を過去の事例から綿密に立案し、そのことの賛同を広範囲に得る必要があります。しかも、実施に当たっては出来得る限り摩擦を避け、場合により方法に変更を加えるなど柔軟な行動が必要でしょう。
つまり、保守の立場から「殖産興業富国強兵」を進めるしかないし、そのことのみを今の時期に取り上げることも真に正しいかどうかも議論する必要があると思います。
私としては経済成長3%を3~4年続ければ、人の考え方も大きく変わる可能性があると考えており、その時点で「殖産興業富国強兵」を持ち出しても遅くはないと考えます。
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