老いの一徹:『経済にとって通貨など副次的な存在に過ぎない』 | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

本日は、有閑爺い様の寄稿コラムです!

本日は大変面白い寄稿を頂いております。MMTとはなにか?そしてそれに対する反論とはなにか?実によくまとめられていると思います。

ぜひじっくりお読みいただき、ご議論くださいませ!

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老いの一徹:『経済にとって通貨など副次的な存在に過ぎない』 ~有閑爺い様

 私は、MMTで述べられていることは全て詭弁であるとの立場に立っています。従って私はMMTは単なる「弁舌」つまり高座で落語家や漫才師が語る「しゃべくり」と全く変わらないものと思っています。
 がしかし、多くの人がMMTで述べられていることは正しいことだ、と信じており、その信仰は非常に強固であることも承知をしております。

 しかし、私からすればその信仰は淫祠邪教に奉ずるがごとき感覚でしか捉えられないのです。なぜそうした感覚になるかということを本日は述べてみたいと思います。

 本日は、日本で使用された貨幣あるいは通貨の歴史に触れて、通貨の果たした役割について述べるとともに、通貨とその発行管理システムを非常に上手に使った歴史上の人物の行ったことを述べてみたいと思います。
 それらの歴史的事実とMMTの述べていることの差異を皆様で吟味していただければ、反ネオリベ・反グローバリズムの立場から経世済民を志す方々にも役に立つと思います。

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 日本で貨幣の使用が定着したのは鎌倉時代であるとされています。その貨幣は中国で使われていた銅貨で、日本の産品を中国で売りさばき、代金として受け取った銅貨をそのまま日本に持ち帰り、使っていました。当時すでに、遠隔地への貨幣の支払いのため為替が使われていました。書面が貨幣の代わりになり得ることが、当時から知られていたわけです。

 この状態は室町時代・戦国時代から江戸時代の初めころまで基本的には変わっていませんでした。室町時代以降は私鋳の銅貨も出回り始めるなど、雑多な貨幣が混然として統一の取れたものでもありませんでした。つまり、約400年の長きにわたって、武士や一般庶民の使う銅貨は雑然としたものでしたが、だからといってそれが経済に悪影響を及ぼさなかったようで、日本の経済は順調に拡大していました。

 なお、戦国時代は有力大名が銀貨や金貨をほぼ秤量貨幣に近い形で作り、それを色々な用途に使うようになっていたようですが、武士や一般庶民は銅貨を使い続けていました。

 江戸時代になると少し状態が変わり、幕府が銅貨の鋳造発行を行うようになりました。しかし、その鋳造が始まったのが幕府開設後30年以上後のことです。それまでは雑然とした銅貨が使い続けられていました。
 実は、約400年にわたって多くの中国製の銅貨を使用していたのに、何故幕府の鋳造する貨幣が使われるようになったのか、腑に落ちる説明は無いようです。幕府が最初に鋳造した「寛永通宝」は当時優良貨幣とされた「永楽通宝」とほぼ同じ重量であり、旧貨を鋳つぶしても銅の目方の差によるシニョリッジは得られなかったはずなので、何に利を見出したのかよくわからないのです。
 幕府の財政とは基本的に徳川家の「家計」でありますので、銅貨鋳造が「家計」の足しにならないならやるはずもないだろうし、不思議と言えば不思議です。幕府は徳川家の家計を支えるため金貨や銀貨を鋳造し使いましたが、当時経済の中心地であった上方では銀地金が秤量貨幣として使われておりました。幕府の発行した高額金貨は上方では使われていなかったようです。
 江戸時代中頃までは金貨・銀貨・銅貨の3貨ともに秤量貨幣の名残をとどめていたのですが、徳川家の家計支出に比べ税収が不足していたため、貨幣改鋳によるシニョリッジ獲得が度々行われ、貨幣に額面表示がなされる表記貨幣に移る状態となったのです。

 しかし、当時の決裁が金貨・銀貨・銅貨の3貨のみで行われていたなら、当時の経済状況も把握しやすいのですが、実はこの時代の決済は様々なものが利用されました。
 江戸時代の貨幣は煎じ詰めると徳川家の家計を支えるために発行されたに過ぎないもので、当時の日本経済に対しては圧倒的に通貨不足の状態であったのです。従って、上方では銀の目方(例えば銀百貫目)を書いた銀目手形という書面ですべての決済を行っていました。また藩は藩札と言われる紙幣を発行したり、全くの民間が私刷の紙幣を発行したりして、利用していました。また、基本的には商品券である米切手なども通貨代わりに利用されていましたので、通貨制度は混乱の極みと言える状態だったのです。

 で、こうした混乱した通貨状態であっても江戸時代の経済は一貫して成長を続けていたのであり、貨幣が経済に対して支配的な力を持っていたわけではありません。無ければ困るが、使えるなら紙切れで十分という状態だったと思われます。

 こうした混乱した通貨はそっくり明治政府が引き継ぎだのですが、戊辰戦争の戦費調達のため「太政官札」と言われる紙幣を発行したりして、混乱をさらに強めたともいえる状態だったのです。
 国内だけなら、こうした混乱があっても大きな問題とはならなかったでしょうが、明治から始まった外国貿易の決済には問題だらけ(計数も1両が4分、1分が4朱、すなわち1両が16朱という10進法からかけ離れた方法でしたし、金と銀の交換比率も国際水準と離れていた)でしたので、新たに「円」を採用し10進法の貨幣制度が採用され、その円と江戸時代の通貨との交換が進められ、途中に「明治通宝」という紙幣が流通したりしました。西南戦争の戦費はこの紙幣で賄われたのです。

 日本で貨幣制度が整い始めたのは明治10年代中頃で、もう貨幣制度が完全に機能していたにもかかわらず、日本の紙幣では日清日露の戦争の戦費の全部は賄えなかったのです。戊辰・西南の両戦争は貨幣制度はガタガタでしたが政府発行の紙幣で戦費は賄えました。しかし日清日露の戦争の戦費のうちかなりの部分を外国からの借金が占めていたのです。
 つまり、貨幣制度を整えても、そのことだけでは役に立たなかったわけで自国の貨幣など枝葉の話だったのです。
 何が支配的要因だったのか、それは生産力です。日清日露の戦争では国産の兵器も多く使われましたが外国産の兵器も使われました。軍艦などはほとんどは外国から買ったものでした。今は日本の紙幣を外国で使うことが出来ますが、当時は日本の紙幣など外国では紙屑です。外国産の兵器購入には外国の貨幣が必要だったので、借金するしかなかったのです。これもすべて兵器を生産する生産力が無かったからです。

 このように外国の紙幣が決定的役割を果たしたことが敗戦後、昭和25年から27年頃にかけて起きました。
 敗戦後、戦時国債(戦費を賄ったものです)の償還が始まり、民間に多額の紙幣がわたりました。当時は生活用品のすべてが欠乏していたので、換物の動きが出て物価の異常な高騰がありました。実は戦中も民間に多額の紙幣がわたっていたのですが、戦時国債でその多くを吸い上げ、かつ生活物資は配給制度のもとで自由な購入ができない状態だったので、物価の上昇はあまり目立たなかったのです。ですが、「闇値」と称してアンダーグラウンドでの物資は既に大きく高騰していたのです。
 で、この「戦後悪性インフレ」を米国占領軍経済顧問のドッジが超緊縮予算を執行させて終息させたのです。その結果、基本的には圧倒的に物不足であったにもかかわらず、表面的に物余りのデフレ状態になりました。
 このデフレを打破したのが、米軍の特殊需要[特需]と言われるもので、朝鮮戦争の戦線で使用する軍需物資の供給や前線で被弾した車両・航空機・船舶の修理などが「ドル紙幣」で支払われたのです。「ドル」は日本政府が一括管理して固定相場で民間には「円」で支払われたのですが、支払われた「円」が膨大であったにもかかわらず「悪性インフレ」にはなりませんでした。民間が得た「円」は直ちに需要に換えられたのですが、生産を支える「原材料・エネルギー」が十分に海外から入手できたため、需要が全うされたのです。
 当時の日本の「円」紙幣など外国では紙屑でしたが、「ドル」は抜群の力があり、「原材料・エネルギー」など苦も無く入手できたのです。
 つまり、米軍のもたらした「ドル紙幣」が当時の日本の救世主であったわけで、日本に独自の通貨「円」があるから救われたわけではありません。

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 以上、長々と通貨の使われ方に触れたのは、本ブログのエントリー『現代貨幣論を根源的観点から解説してみる-文明・道具・使い方という政治【ヤンの字雷】』(注)において、下記のようなコメント(問いかけ)があり、少し違和感があったので、実情を述べるのがよいだろうとの思いからです。

>>実際に世界ではEUやジンバブエ、エクアドル等々といった「金融主権の存在しない国家」が存在する時代ですから、「日本の金融主権を守る」という意味でも、通貨を通貨たらしめているものを確かめておかないと、そもそも守れないんじゃないでしょうか?

 で、日本の実情をかいつまんで言うと、

 貨幣を使い始めて約400年は「外国の貨幣」を使っていた。でもその間順調に経済は拡大した。
 江戸時代に貨幣の鋳造を自国で始めたが、決済には多くの「私製の書面」が用いられた。どれだけの種類のものがどれだけ使われたかは、全くわかっていない。でもその間順調に経済は拡大した。
 明治初年は江戸時代からの通貨に加え、新政府の紙幣も加わり、混乱状態は続いたが、戊辰・西南の両戦争は政府発行の紙幣で戦費は賄えた。
 近代的な通貨制度になってから戦った日清日露の戦争は「外国の通貨」を戦費としなければならなかった。
 大東亜戦争は「日本の通貨」を戦費として戦ったが、負けた。そのため戦後「悪性インフレ」が起きた。
 戦後、日本の復興の足掛かりとなったのは米軍のもたらした「外国の通貨・ドル紙幣」で、それが日本経済の救世主となった。
 
 結局は根源的な国力が基礎にない限り、貨幣制度のみを取り上げて「独自性」など議論しても詮無いことだと思います。
 通貨そのものは使えればそれでよいし、それ以上のものは必要ないでしょう。何に使えるかは、国力次第であり、有用なものに使えないなら「主権」が存在しても、お役立ちにはならないと思います。

(注)https://ameblo.jp/shingekinosyomin/entry-12419856397.html

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 とは言うものの、通貨とその発行管理システムを非常に上手に使った人の話をしたいと思います。

 その人の名は「高橋是清」です。
 高橋是清は世界大恐慌の余波を受けてデフレに落ち込んだ日本経済を立て直し、その後景気の過熱によるインフレを抑え込むという、需要制御という意味では完璧に近い業績を残した人です。
 
 やった政策は極めて簡単で、デフレ脱却のため政府公債を発行しそれを日銀に引き受けさせて通貨を得て、それを需要に換えたのです。需要として時局匡救事業という公共事業と軍需が挙げられます。3年間の対策でしたが顕著な効果を発揮し、デフレからの脱却に成功しました。
 彼は負債が経済を拡大させる、ということをここで改めて確認したと思います。

 デフレ脱却後、民間投資が拡大しインフレの昂進が認められたため、景気抑制策を採りました。
 その政策も極めて簡単なもので、政府公債の売却です。日銀が保有している政府公債を安値で市中銀行に売却したのです。市中銀行は高利のリターンが得られるためこれを購入しました。その結果、貸し出しに回せる現金がなくなり、一般企業は市中銀行からの借入が出来なくなったのです。
 負債の拡大を止めれれば、経済拡大を止められる、つまり景気抑制が出来ると知っていたのです。
 策は見事に当たり、インフレは抑制されました。

 このインフレ抑制策は、煎じ詰めると「政府の借金」を「日銀」から「市中銀行」に転嫁する「借金転がし」なのです。政府公債という形で通貨を日銀から調達しておけば、その後、その公債を市中銀行に売却するということで、「政府の借金」を「日銀」から「市中銀行」に転嫁させられ、通貨の吸収が出来ることまで、高橋是清は知っていたのです。通貨を吸収すれば通貨が消滅することは当然知っていました。

 政府は日銀に公債を売り渡し売却で得た通貨を使いました。なので通貨量は増えました。その通貨は「借金転がし」をやるだけで日銀に戻ってきたのです。日銀に正当な手続きで戻ってきた通貨は直ちに消滅させられます。なので、通貨量は減ったのです。

 MMT論者が述べている「通貨消滅方法」と全く異なる方法で通貨を消滅させたのです。しかも市中銀行は政府公債という金融資産を得た(現実は政府の借金を引き受けた)ことの代わりに現金通貨という金融資産を失ったのです。市中銀行が借金を引き受けると現金通貨が失われる、つまり市中銀行の貸出しは「又貸し」である、と高橋是清が知っていたからできたことです。

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 いよいよ本日の本題です。

 実は、高橋是清という通貨使いの神様は、私が社会に出る20数年前に起きた2・26事件という軍部の暴走で暗殺されてしまったのです。
 ですので、私が社会に出た当時の会社の幹部はもちろん上司と言われる方々は、青年であった頃に事件が起きたわけですので、高橋是清がやった業績を経験の事実として知っていました。私などは伝聞ですが。
 そのことは国民も知っていましたし、50円紙幣の肖像にも使われた「偉人」でした。もちろん私はその50円紙幣は使用したことがあります。発行されたのが朝鮮戦争当時でしたので貨幣価値は今と全く違います。

 しかし、現在のところ高橋是清の業績は顧みられることはありませんし、評価を受けることもありません。
 何故かというと、高橋是清の業績を認めると、MMTの述べていることが全て破綻するからです。
 MMTは「通貨は徴税により消滅させる」「貸した通貨を預かるから金融資産が生まれるのであって、然るが故に又貸しではない」と「主張」しています。
 高橋是清は「政府の借金」を市中銀行に転がして、市中銀行に「政府の借金」を引き受けさせ、それにより市中銀行が保有する現金を日銀に吸い上げて通貨を消滅させました。当然、借金を引き受けた市中銀行は保有現金を減らしてしまい、貸し出し余力を失ったわけです。借金を引き受けると保有現金がその分は必ず減ります。それは貸し出しが又貸しだからです。こうしたことは高橋是清の「主張」ではなく、実際にやった「実績」です。
 しかし、MMT論者はこのことを黙殺せざるを得ないのです。高橋是清の業績を認めるとMMTは崩壊しますので、絶対認められないのです。
 つまり、MMT論者はよってたかって、高橋是清に対する第二の暗殺を行っているのです。

 日本人がやった業績・事実として存在することを黙殺し、どこの馬の骨とも知れぬ毛唐がでっち上げた詭弁理論を我も我もと信じるさまは、もはや亡国の所業です。
 おまけにMMTの主張に賛成するものを「理解している」、反対するものを「理解していない」とまるで安倍晋三そっくりの発言まで飛び出し、MMT信仰はとどまるところがありません。
 私が冒頭、「淫祠邪教に奉ずるがごとき」と述べたのは、そういう状態を言ったのです。

 何をどう信じようと、それぞれの自由ですが、信じたことをベースに行動した場合は、その行動には責任が伴います。自由には責任が伴います。
 通貨の肖像にまでなった偉人の業績を無視することによって、何が失われるかをよく考えていただき、責任の重さに思いをはせていただきたいと思います。

(了)


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