老いの一徹:「生産から見た貿易」 | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

本日は、有閑爺い様の寄稿コラムです!

奇しくも同じテーマで私(ヤン)も来週月曜日の寄稿を寄せておりまして、有閑爺い様と共通する価値観を抱いているのだなぁ・・と感じました。

異なる点があるとすれば、それは私はやや理論的に書きすぎて、有閑爺い様は実践的かつ実経験から導き出された文章であるということでしょうか。

私(ヤン)は今日のコラムを見て、「こりゃあかん・・・有閑爺い様のほうが上等な文章だ」と、悔しくも思ったのです(汗)

じっくりと本日のコラムをお読みいただき、そしてできれば来週月曜日のコラムも併せてお読みいただければ・・・と思います。

く、悔しくなんかないんだからねっ!(ツンデレ)

現在進撃の庶民では寄稿コラム執筆者を募集しております。執筆いただける方はアメーバメッセージでご連絡ください。
※アメーバアカウントが必要です

⇒ブログランキングクリックで進撃の庶民を応援!


老いの一徹:「生産から見た貿易」 ~有閑爺い様

 前回は、貿易には他国の内需を奪う収奪という負の構造があるので、その点にも着目する必要がある、と述べました。
 今回は、生産という観点から見た貿易について述べてみたいと思います。

 貿易は輸出であり輸入であるのですが、輸入は生産を外国にゆだねる行為です。反対に輸出は外国からゆだねられた生産を請け負う行為です。
 実はこのことに多くの難題が含まれているのです。

 輸入について言えば、日本の場合では、原油石炭天然ガス・鉄鉱石他鉱物資源・木材綿花他農林製品・とうもろこし大豆魚介類等々多くの原材料・エネルギー・食料は外国に生産をゆだねざるを得ません。このことは外国に日本人の生存の首根っこを抑え込まれているということ意味しているのです。
 すなわち、生産を輸入に頼るということは生産国に殺生与奪の権を与えるわけであり、「互恵平等」などと言うことは「自由貿易に利あり」と主張する者たちが唱える呪文に過ぎず、そのことは米中に起きている貿易紛争を見ればわかるはずです。つまり一方的に交易条件の変更を迫られたり、生産してやらないよ、とそっぽを向かれたりすることを避けることが出来ないのです。
 生産を外国にゆだねるという行為は極めて危険な要素を含んでいるのであり、常にそうした危機に備えて対策を立てておくべきなのです。

 現に敗戦直後の日本人は輸入を絶たれたため飢餓線上にあり、中には餓死する人までいました。衣類も現に着ているものが破ければもう着替えのない状態で、昭和20年の冬は暖房もなく寒さに震えていたのです。
 自分たちの生活を支える根幹となる生産を他国に依存せざるを得ないという認識が、貿易を考える基本にあるべきで、「自由貿易」などそれに比べれば「屁」のような話に過ぎません。「自由」であろうと「不自由」であろうと生活に必要なものは万難を排して手に入れる必要があるのです。

 次に輸出について言えば、輸入に支払うべき決済通貨を獲得することが第一の使命です。
 輸出は単純に言えば生産を請け負うことなのですが、支払うべき決済通貨を得るためだけに生産を請け負っているのでないことは、日本の輸出行動を見ればわかります。支払いに必要な通貨を超えて決済用通貨を獲得する行動です。つまり貿易黒字を作ることなのですが、これによりGDPの拡大が可能であるため、日本政府はこのことを奨励しています。
 また、輸出は「自由だから出来る」「不自由だからできない」ということではなく、相手が欲するなら出来るし、相手が要らないといえば出来ないわけで「自由貿易」など輸入同様に「屁」のような話です。現に高度成長期の輸出拡大は、極めて規制の多い非常に「不自由」な条件下で達成されたのです。
 加えて私は貿易黒字を得ようとする行動は外国の内需を奪う行動であり、節度ある行動が必要と考えています。しかも貿易黒字で得た所得は決済用通貨ですので貯蓄するしか方法はなく翌年度の需要にはならないのです。
 つまり輸出によるGDP拡大はその単年度だけの効果であり、内需拡大とは大きく異なりますので、控えめに実施しても何ら問題ないと思われます。
 
 そして、輸出は輸入と逆なことが言えるのも事実であり、強力な生産力を持てば、他国を間接的支配に置くことも可能です。但し、そうしようとするなら相応の軍事力を背景とする必要があります。このことは米国のビヘイビアを見ればわかることで、ソ連を瓦解に追い込んだのも米国の軍事力と生産力が抜きんでたものであったからです。
 生産を外国から請け負うという行為は、そうと意識せずとも支配被支配の関係が生じ得ます。相手国が支配を受けていると感じることがあるなら、緊張が生まれ紛争が生まれる危険性を持っているわけです。そうしたことを常に認識しておく必要があるのです。

 貿易は現象としては、物や通貨の移動として現れるのですが、底流に国家としての立ち位置が問われるものなのです。
 国家の安全をどう担保するかが問題であって、そのことへの解答を用意することが貿易をやる以上必要なことです。つまり国民生活を支える「生産」をどう実現するかが、貿易の根本問題なのです。

 だいぶ昔になりますが、会田雄次さん問い方が書かれた「アーロン収容所」とい著作に、戦争中ビルマの庶民がボロボロの衣服をまとっていた、何故かと問うと「戦争でイギリスから布地が来なくなったので着替えが手に入らない」という答えがあった、と述べられています。ビルマも英国の支配を受ける前は自分たちで布地を作っていたが、英国製布地に駆逐されたわけです。

 日本が貿易がゆえに貴重な生産力を失うようなことはあってはならないのです。貿易をする環境は日本だけの力では維持できません。ましてや民間企業に出来るはずもありません。なので貿易環境の変化に対応できる力を持っておく必要があるのです。
 「自由貿易」と言うものは「物や通貨の移動を自由にしよう、そうすれば利が得られる」というネオリベの妄想に過ぎず、国民生活の安全を考えるなら、貿易は国家の一定の管理下に置くべきであり、しかも貿易環境は変化するとの認識を持たねばなりません。
 「自由貿易」と言うものは「屁のツッパリにも糞の役にも立たない」ものです。ネオリベに騙されないようにしましょう。

(了)


発信力強化の為、↓クリックお願い致します!

人気ブログランキングへ