貨幣が過剰性を生み出しす①~ソウルメイトの思想 | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

本日はソウルメイト様の寄稿コラムをお送り致します!
 

今回もソウルメイト様から頂きましたコラムの前半部分を掲載させていただきます。

 

佐伯先生の思想を知らずして政治経済は語れない、ってことで佐伯先生の著作を私達ももっと読まないといけないようです。年内に数冊は読破したい。

 

それでは皆様もじっくりとご覧くださいませ!

 

↓忘れずにクリックをお願いいたします<(_ _)>
人気ブログランキング

 


『貨幣が過剰性を生み出しす①』~ソウルメイト様

 

 

 

 

佐伯啓思京都大学名誉教授のご著作「経済学の犯罪」 から引用して読者の皆さんにお示しするのも今回で四回目となります。今回も長々と引用、というか丸写しになりますが、言い訳をさせてもらうとすれば、佐伯教授の論考は、あまりにも精密・精緻に出来上がっているので、そうそう簡単な要約を許さない、ということであります。下手に要約したりすると、もとの文章に息づいている何事かが損なわてしまうように思えてならないわけです。よほどの力量のある人物でないと、佐伯教授の本書の要約は、上手くいかないだろうと思うわけでありまして、非力なわたしといたしましては丸写しする以外やりようがなかった、ということでご容赦いただきたいと思います。何度もしつこいように申し上げますが、本書は紛れもなく名著であります。お手元の蔵書に加える価値のある一冊だと思います。

さて、今回はケインズの経済学の核心となる貨幣についての実に興味深い考察であります。どうぞお楽しみください。

佐伯教授は、経済活動というものが“時間の中を継続して延々として続いてゆく”ものであり、“「将来」という要素が現在に突き刺さる。このことは経済活動に多大な不確定性を持ち込み”、“貨幣はその不確定な将来に備えて価値を保蔵するとすれば、人々は手にした所得の一部を将来のためにとっておくであろう”と述べられて、それゆえ経済は本来的に収縮せざるを得ないを不可避的な性質を帯びるようになるとお書きなったすぐ後に次のように続けておられます。


──では、経済の収縮を止めるにはどうすればよいのか。

流通から引き上げられる貨幣をもう一度流通に持ち込む必要がある。

それには、新たな生産を行うために、引き上げられた貨幣を投下すればよい。つまり「投資」である。新たな生産活動や事業に投資する人がおり、彼の手元に貨幣がまわるようにすればよい。それを彼女らとするのが「金融市場」である。

ところが金融市場が形成されると、ここに新たな機会が生み出される。人々にとって一つの選択が可能となるのだ。将来の「価値の代理」としての貨幣をどのような形で持つか、という選択が可能となる。人々は、現金、預金、債券、株など多様な形での資産保有(ポートフォリオ)が可能となる。このポートフォリオによって金融市場の状況(たとえば利子率)は大きく左右されることになる。これがケインズの流動性選好理論による利子率の決定というアイデアであった。

要するに、引き上げられた貨幣は「貯蓄」として、その一部は生産者に貸し付けられる。この資金は「投資」されるのだが、それは常にいまある「貯蓄」をすべて吸収するようなものとは限らない。「貯蓄」された資金と「投資」される資金需給を調整するのが金融市場ではあるが、利子率はもはや「貯蓄」と「投資」を等しくするようには決まらないのだ。利子率は、「流動性」の保有形態の選択のなかで決まってくる。

ケインズのいう「流動性」とは、あるモノを他のモノに換える換えやすさの程度のことであり、現金がもっとも「流動性」が高い。預金や株や債券などがそれに続く。様々な「流動性」の程度の違う金融商品が取り引きされることは確かに金融市場の発展というべきであろう。だが、同時にまさにそのことが経済を混乱に陥れるのである。

改めて論じておこう。

もし「貯蓄」としてとっておかれた貨幣がすべて「投資」にまわれば問題はない。しかし「貯蓄」と「投資」はいつも等しいわけではない。それらは別々の意思決定なので、あらかじめ等しくなる理由はどこにもない。しかも、利子率は、もはや「貯蓄」と「投資」を均衡させるようには決まらない。だから企業が「投資」を活発化すれば資金が不足する。この時には外部から貨幣が追加されなければならない。そして、現代では中央銀行が貨幣を供給する。

だが、もしも将来の状況が不確定で、あまり経済発展が期待できないとしよう。この場合には、「投資」が減少し「貯蓄」が過剰となる。金融市場では、資金の貸し借りの価格である利子率が低下するが、それでも資金が過剰となるとしよう。

もしこのとき、金融市場の内部にこの過剰な資金を吸収し運用するようなメカニズムができれば、この資金は金融市場のなかをグルグルと動くことになるだろう。

たとえば、株式市場が整備され、債券市場が整備され、様々な金融デリバティブが生み出され、多様な証券化された金融商品が作り出されるとすればどうなるか。この過剰資金は、金融市場の内部を動くことで莫大な利益をあげることが可能となる。銀行のような金融機関さえも、企業へ貸し出すよりも金融市場でマネーゲームを行ったほうが利益を得られるのだ。

マネーゲームで巨額の利益が、見込まれるなら、本来は投資に向かって生産をこくだするはずの資金が金融市場へ流れ込むだろう。かくて金融市場ではバブル的な状態が発生する。金融市場は、経済の実態とは無関係に活性化するだろう。

これはいささか皮肉な結果といわねばならない。

余剰である「貯蓄」と資金を必要とする「投資」を、より効率的で有効に結びつけようとする金融市場が発展すればするほど「投資」に資金がまわらなくなるからである。

金融市場をいっそう活性化しようとして新たな金融商品が開発されると、ますます実体経済へは資本がまわらなくなる。実体経済への「投資」ではなく、金融市場での「投機」へと資本が動くのだ。

ケインズが想定したのはこのようなメカニズムであった。もしも将来の不確定性が高まれば、企業は長期的な投資計画の水準を引き下げるだろう。一方、家計は将来へ備えて貯蓄を増やすだろう。

その結果、金融市場へ資本が流入するのだが、たとえば株式取引によって投機的な利益が生み出されれば、当然、人々は金融市場で資金を運用する。こうして「投資」から「投機」への資金の流れができ、その結果として経済は不況に陥る。金融市場は活況を呈して株価は高騰するのだが、その間に実体経済は衰退するのである。

この場合、市場は不況を自動的に回復させるメカニズムを持たない。実体経済から金融経済への資本の移動をくい止める自動調整メカニズムは作動しない。そこで不況は長期化する。そうなればますます将来の見通しが悪くなるので、いっそう不況は長期化する。

その時、もしも不況だからといって政府が超金融緩和政策をとって貨幣供給を増やせばどうなるか。そもそも金融市場へ過剰な資金が流入しているのに、さらに貨幣供給を増加すれば、ますます金融市場は過剰な資金であふれかえってしまう。利子率はすでにきわめて低い水準にあり、それ以上低下させることは不可能である。いわゆる「流動性のわな」であるが、こうなると金融緩和政策はもはや実体経済を刺激することはできず、市場へ供給された資金はさらに金融市場を刺激して「あわ(バブル)」のような利益を生み出すだけであろう。

この場合必要なことは金融市場のなかをまわっている資金を実体経済へと誘導することなのである。だがもしも民間企業に十分な投資活動をするだけのインセンティブがないとすれば、政府が公共投資等で資金を吸収するほかない。かくて財政政策こそが事態を救うほとんど唯一のやり方だとされたのだ。

これがケインズの考えであった。

ここで重要なことは、財政政策が有効か否かということではない。そうではなく、財政政策の必要性という結論を導いた経済ヴィジョンが、市場主義経済学とはまったく異なっていたという点にある。まして「マクロ経済学」が想定しているように、総供給と総需要の短期と長期の違い、というようなことではない。経済についての理解に大きな開きがあるのだ。

そのことをもう一度、ざっと要約しておこう。

ケインズの独自の経済観の基軸になるのは、「貨幣」という特異な存在への注目であった。マルクスが「労働」という特殊な商品に注目したとすれば、ケインズは「貨幣」という特殊な商品に注目した。二者の物々交換のなかでいつのまにか「貨幣」がでてくるのではない。三者交換で当初から「貨幣」が想定されなければならないのである。ここには「時間」と「不確定性」が潜んでいる。

不確定な将来に向けて価値を保蔵するものが貨幣であった。それゆえ貨幣の一部は流通から引き上げられる。その結果、貨幣経済では実体経済に比して常に不況圧力がかかる。これは物々交換の延長上にある市場競争のロジックからは決して出てこないことだ。だが貨幣経済は常に不況へすべりこんでしまう傾向を持っている。

そこで過剰な資金を「投資」へと振り向けるために金融市場が発達したのだが、皮肉なことに、その金融市場の発展が「投機」を生み出し、実体経済を弱体化して失業を発生させるのである。ハイマン・ミンスキーのいう「金融不安定」という事態である。

こうして、「将来への不確定性」「価値を保蔵するものとしての貨幣」「投資と投機の対立」「金融経済と実体経済の対立」といった概念がケインズ理論的の核心になった。

だが市場主義経済学では、金融市場の意味は的確には理解できない。そもそも貨幣が存在することの決定的な意味を理解することもできない。金融とはせいぜい実体経済の生産・流通を効率化する手段だという程度のことにしかならないからだ。貨幣は実体経済の上にかぶさった「ヴェール」にすぎないのだ。

したがって、市場主義では、せいぜい金融市場において可能な限りリスクを減らし、資金の動きを効率化すればそれでよい。新たな金融商品やデリバティブを次々と投入して金融市場を効率化すべし、ということになる。ところがケインズのヴィジョンでは、その金融市場の効率化こそがいっそう実体経済を弱体化しかねないのだ。

さらにここで興味深いのは次のことである。

実体経済の衰退をもたらすものは貨幣の過剰であった、つまり「生産の縮小」と「貨幣の過剰」が重なり合っているのだ。因果論でいえば、「貨幣の過剰」が「生産の縮小」を招いているのである。

ここであの原初の交換モデルに戻ろう。(A)は(B)から必要なモノを入手する時、それに相応する石片(貨幣)を与えた。(B)はそれを受け取り、やがて(C)からモノを買った。その時(B)は石片をすべて使わず将来のためにその一部を保存した。

ということは、いまここで、(C)が与えようとしたモノをすべて必要としたわけではない、ということになる。

そして(A)も(C)も同じことをするだろう。すなわち手持ちの石片のすべてを使わずに手元にとっておく。とすればどういうことになるのか。

いまここで生産され流通にまわされようとしているモノの総量は、必要とされているモノの総量に対して過剰となるであろう。

要するに、総生産量(総供給量)は総需要(有効需要)に比して過剰になっているのである。この場合、現代の経済では物価が下がる(デフレ)か、総生産量が低下する。

一体どういうことであろうか。将来の不確定性があり、そのために貨幣が登場する経済においては、総生産量は常に過剰となる傾向を持つ。それは、貨幣が「価値と代理」として、将来の価値を保証するものとなり、現代の時点ですべて使われないからだ。

人は不確定な将来に向けて現在の消費をいくぶんかは抑えるのである。いいかえれば、時間的に継続する経済では、人は生産可能なものをすべて消費してしまうことはありえない。誰もいまここで人生を終えるわけにはいかないのだ。ここに「過剰性」が生まれるのである。

貨幣が過剰性を生み出してしまうのだ。そしてその結果として、実体経済(生産・流通)では失業が生じ、貧困が生じる。貨幣が、一方で過剰性を、他方ではその結果としての貧困を生み出すのである。

にもかかわらず、実際に資本主義経済は成長を続けてきたではないか、と反論されるであろう。

それはその通りである。経済成長を生み出すものは、労働力の増加と生産性増大であり、後者を産みだすものは主として技術進歩である。だから経済成長率は、労働力の増加率と労働生産性の増加率によって決まってくる。

このうち労働力の増加率はそれほど著しく変化しないであろう。したがって資本主義経済のダイナミズムを生み出すものは、まずは絶え間ない技術革新であった。

シュンペーターが述べたように、企業家の新たな製品への絶え間ない挑戦、過激なまでの創造的破壊や新機軸が経済を動かしてきた。そして新たな技術革新のためには常に貨幣が必要であった。余剰の貨幣は投資へと振り分けられていった。それが総生産の過剰という不況圧力から資本主義を救い出してきたのである。これは確かに資本主義の現実である。

しかしそれにもかかわらず、ケインズは、やがて先進国の資本主義が長期的な停滞に陥る可能性は高いと考えていた。しかもそれは一九三○年代の大不況のことではない。三○年代の大不況は政府の公共事業によって克服できる。だが、いずれ資本主義経済は、きわめて低い利子率のもとでも長期的に十分な収益率を確保することができず、成長に必要な投資が徐々に枯渇して停滞に陥るだろう、というのである。

これは実はケインズだけではなく、もとはといえば、リカードやJ・S・ミル、さらにはマルクス、そしてシュンペーターさえも含めた「巨人」たちが共通に持っていた見解なのである。あれほど技術革新の力に期待していたシュンペーターも、資本主義はやがて「その成功のゆえに衰退する」と見ていたのである。

だが果たしてこのような事態は想定可能なのだろうか。現実の今日のグローバル経済を見れば、IT革命のもとで新たな通信手段や情報装置が次々と生み出され、液晶を使った電気製品が開発され、電気自動車、バイオ、環境技術とかつてないような恐るべき勢いで新たな技術が生み出されている。そして、それをグローバルな市場で展開し、技術はまたたくまにグローバルな形で新興国へと伝播する。

それでも先進国の資本主義はケインズの予言したように衰退に向かうのだろうか。

答えはやはりイエスといわざるを得ない。

先進資本主義国の経済成長率は、戦後、傾向的に右肩下がりである。アメリカの戦後の実質GDP成長率は、平均して約三・五%であるが、一○年ごとの累積GDP変化率で見ると、一九五九~六九年で五四・二%、六九~七九年で三七・四%、七九~八九年で三四・九%、八九~九九年で三五・六%と「豊かになる割合」はほぼ傾向的に低落している。

もっと特徴的なのは、スキデルスキーの議論(前掲『なにがケインズを復活させたのか?』)で、彼は、戦後世界を「ブレトン・ウッズ体制」の時期(一九五一~七三年)と「ワシントン・コンセンサス」の時期(一九八○~二○○年)に分けて比較している。それによると、世界の実質GDP成長率は、前者で平均四・八%、後者で平均三・二%である。一人当たりGDP成長率も、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本などで軒並み、後者の時期に低下している。

「ワシントン・コンセンサス」の時期とは、いうまでもなくグローバリズムと新自由主義の時代であった。それらは、GDPで見る限り、決して先進国の経済を活性化したわけではないのだ。

要するに、先進国は、一九六○年代以降、成長は続けているものの、成長率は傾向的に低下しているといってもよい。

確かに一九九○年代にアメリカを中心にIT革命が生じた。コンピューターの新展開とともにインターネットの発展は多様なソーシャル・ネットワークをもたらした。これは社会のあり方を変えるほどの技術革新だとの見解もある。

しかしタイラー・コーエンは『大停滞』(NTT出版)で次のように述べている。それは確かに人々の生活を大きくかえたツイッターやらフェイスブックなどといった新たな娯楽や情報伝達のやり方が登場した。しかしその経済的効果はさほど大きなものではない。二ドルのバナナを買えば、GDPは二ドル増加するのだが、幾らかツイッターで楽しんだり、グーグルで情報を得ても、それでGDPが増加するわけではない。

しかも、ITは、かつての自動車や機械などと比べることさえ無意味なほど、雇用創出効果が低い。それは、過去のテクノロジーの革新などと比較すると、雇用も所得も生み出していない。コーエンによると、二○一一年時点で、グーグル、フェイスブック、イーベイ、ツイッターを合わせたIT関連企業の雇用者は、たった五万六○○○人程度だったのである。

しかも、経済のグローバル化とともに、先進国は新興国との激しいコスト競争にさらされる。コーエンのいいかたを借りれば、先進国はいまや「容易に収穫できる果実を食いつくした」のだ。

この先進国経済の長期的な停滞という問題は、別にグローバリズムという歴史プロセスを想定しなくとも経済の成熟とともに生じることであろう。ここではケインズがそのような事態を想定していたということを記憶しておこう。一九三○年に書かれた「わが孫たちの経済的可能性」と題するエッセイのなかで彼は次のようなことを述べている。

一九三○年の大不況は、決して資本主義の衰退という「老人性リューマチ」のようなものではなく、むしろ、青年期の早すぎる成長からくる一時的な神経痛のようなものである。それは一つの経済の時代から次の経済の時代へと移る間の再調整に関わる痛みである。

だから、この痛みから早晩回復することはできるだろう。だが、一六世紀に始まった資本蓄積はすでに二○○年を超えている。そしてこれが後一○○年も続けばどうなるのだろうか。一○○年で「豊かさ」は現在(一九三○年)の八倍になるとしよう。これは無理な想定ではない。われわれの経済水準は驚くほどの高さに達するはずであろう。

たとえば、(ケインズが述べているわけではないが)一九世紀ヴィクトリア時代のイギリスの成長率は平均して年二~三%であった。ということは、二%としても、経済成長はその「複利の力」によって約三五年で生活水準を二倍にする。一○○年だと六倍弱になる。

第二次世界大戦後六○年間の平均成長率はアメリカでおおよそ三・五%であった、するとこの六○年で、生活水準はおおよそ五倍以上になっているのだ。一九七○年代以降で成長率を低く見積もって二%としても、今日、生活水準は七○年代の二倍になっている。事実、二○世紀の一○○年でアメリカのGDPはケインズの想定通り八倍になったのだ。

日本では一九七○年代初頭は「昭和元禄」といわれ、大阪万博が開かれ、繁栄の頂点だった。その当時に生まれた者は三十歳代後半になっているが、当時に比べて生活水準は二倍になっている。まさにケインズの述べた「複利の力」である。

むろん、人々の欲望が飽和するなどということは考えられない。だが、欲望は二つの部分に分けることができるだろう。次章でも述べるが、一つは、生存のための絶対的な「必要(necessity)」であり、もうひとつは、他人と比較し、他人よりも優越したいという相対的な「欲望(desire)」である。

ケインズはそれを「絶対的欲望」と「相対的欲望」といっているが、確かに相対的な欲望が飽和することはないだろう。だが少なくとも、生活のための絶対的必要という意味での欲望からはほぼ解放されるだろう。経済活動がもともとは人間の生存に関わる物的な条件を確保する点にあったとすれば、われわれは伝統的な経済問題の大きな部分からは解放されるのである。

かくてケインズは、たとえば一○○年後には先進国は生活の必要物資の確保という伝統的な経済問題から解放されるだろう、という。だがこれはいいかえれば、新たな課題に直面することになる。「人間は人類の創造以来はじめて、経済上の切迫した心配からの解放をいかに利用するか、という。問題に直面する」というわけだ。

だから、われわれはまずは経済についての考え方を変えなければならなくなる、という。もはや貪欲、貨幣愛、高利、投機などは嫌われるものになるだろう。ひたすら勤勉に働き、財産を蓄積し、成長するという「エセ道徳」から解放されるようになるだろう。経済成長や貨幣愛などの「手段」ではなく、本当の人生の「目的」についてまじめに考えなければならなくなるだろう。

これがケインズの主張であった。だがこの主張は正しいのであろうか。

「原理的」にいえば、ケインズの主張はもっともというほかない。戦後だけで考えても、われわれは五倍を超えるような豊かさの水準に達している。その意味でいえば、確かに「成熟社会」といってもよく、少なくとも、GDPのようなマクロ・レベルで考えれば、絶対的な貧困はもはや問題とはならない。

ケインズのいう相対的な欲望が飽和に達することなどありえないにしても、ひとたび膨大な「中間層」ができてしまえば、「優越願望」を満たすために人々がほしがるものもたかが知れているだろう。とてもではないが、生存のための必死の「渇望」というようなものではない。

とすれば、いくら技術革新がなされ、新たな商品開発がなされようが、人々の欲望の水準が大きく増加するとは考えにくい。経済成長率が低下するのも当然であろう。経済成長率の低下をもたらしているものは、技術革新の停滞による生産性の低下ではなく、消費需要が生産性の可能な増加ほどには伸びない点にある。実際、欲望は決して飽和しないとしても、それがもたらす消費意欲が、潜在的な生産性の増大を吸収できるほどには伸びないのである。

このような社会は、もはや成長を追求する社会ではないのだ。経済中心の価値から徐々に離脱し、人生の楽しみやもっと善い社会といった「善」を実現することに腐心すべき社会なのである。

にもかかわらず現実はどうだろう。ほぼケインズの予言から八○年たって、われわれは経済問題から解放されたのだろうか。まったく逆である。ますます成長を渇望し、経済問題へと囚われている。確かに競争経済、とりわけグローバル競争のなかでは、ひとたび競争から取り残されると、われわれは一気に長期停滞へと突き落とされかねないのである。

そしてまさしくそこに今日の資本主義経済のどうにもならないディレンマが生み出される。改めてそのディレンマを述べれば次のようになるだろう。

今日の先進国の資本主義においてはもはや高度な成長は不可能である。にもかかわらず成長を続けなければ経済は破綻しかねない。

このようなディレンマがわれわれを捉えている。いいかえれば、われわれの生きている経済社会は、経済成長をいわば「メカニズム」として組み込んでしまっている。それは精神的には強迫観念となり、またそれなくしては社会がうまくもたないような「メカニズム」になっているのた。

その理由は明らかであろう。

その根本的な理由はまさしくケインズが想定したように、経済活動が時間を通じて継起するものだからにほかならない。

そなのことが意味するものは何であろうか。前述のように、時間のなかで発生する不確定性に対抗するために、将来へ向けてわれわれは価値を保蔵しなければならず、それは貨幣によってなされる。だがその結果として生産能力が過剰となる。過剰なものは蓄積され、将来の投資に振り向けられるほかない。かくして、経済成長は「なされなければならない」のだ。可能であろうがなかろうが、「経済成長」へとわれわれは強制されているのである。

 

(次回に続く)

 

   

ソウルメイト様のコラムをもっと読みたい方は下記ブログへ! ↓  ↓  

・ソウルメイトの思想

 

↑↑↑クリック♪クリック♪