「長生き」の定義は? | Tadのブログ

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長生きは、しないよりしたほうがいいだろう。
ひとことで言えば、それが結論。


しかし、人の手を借りずには十分な社会生活が送れなくて、
世間に対してももう何ひとつ貢献できなくなっているんだったら、
無理に長生きせずとも、適当なところでお暇(いとま)したほうがいいのではないかと、
自分自身に対してはそのように思っている。

そのことについては、年齢は関係ない。
明日そう思うかもしれないし、50年後でも、まだまだ健康かつ世間に対してもしっかり貢献できて
いるから、まだまだ暇乞いするのは早い、と思うかもしれない。


だから「何をもって、長生きとするのか」を考えたい。

ただ「生物」として長生きなのか、
社会から大いに必要とされる「人間」として長生きなのか。

もし後者としていられるなら、無論長生きしたい。
しかし、前者だったら、どっかで見切りをつけて、お若い方に譲ったほうがいい気がする。


昔は、平均寿命が短く、長く生きる人そのものが少なかった。
だから、お年寄りは、過酷な世界に打ち克った人として尊敬を集め、その知恵が重宝されたのだ。

今は、どうか。

医学・医療の進歩と生活環境の改善により、無茶しなければ誰彼となく長生きできる。
自身でさほど努力などせずとも、そうできてしまう。
(いや、暴飲・暴食・酒・タバコと完全制覇していても、それらのお陰で長生きする方だっている)

そういう状況で「ただ長生きする」ことにどれだけの価値があるのか。
私は、そこにあまり価値を見出せずにいる。

品行方正を心掛け、努力して、能く(よく)生きた上で、かつ長生きなら、いいかもしれない。
少なくとも私自身はそうでありたい、というか、そうでなければ自分自身に対して納得がいかない。



社会全体としてそういうことを考える時期に来ているのでは、と思い始めて、もう幾年も過ぎた。
でもこの社会は全然動いていない。

お若い方々の数が減ってるのに、その方々から搾り取るようなことがまだ続けられている。
いつまでこういう状況が続くのだろうか。
先のある方々を苦しめておいて、大勢の先の短い年長者がその上に腰掛ける社会がいいとは思えないが。


今年の「敬老の日」は9月20日。
ちょうどその半年前(今日は彼岸でもある)ということで、自分なりに普段から思っていることを書いてみた。
皆さまだって、私ほどハッキリ言わないにせよ、不整合感は多少なりともお持ちなのではなかろうか。

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