返す | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ルカ
「20:20 さて、機会を狙っていた彼らは、義人を装った回し者を遣わした。イエスのことばじりをとらえて、総督の支配と権威に引き渡すためであった。
20:21 彼らはイエスにこう質問した。「先生。私たちは、あなたがお話しになること、お教えになることが正しく、またあなたが人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。
20:22 ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」
20:23 イエスは彼らの悪巧みを見抜いて言われた。
20:24 「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。」彼らは、「カエサルのです」と言った。
20:25 すると、イエスは彼らに言われた。「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」
20:26 彼らは、民の前でイエスのことばじりをとらえることができず、答えに驚嘆して黙ってしまった。」

 

本田弘慈牧師とは、二回ほど握手した。

一回目は、東京お茶の水で、

先生の集会に参加したとき、

先生は、檀上から降りてこられ、

初めて参加したマサキチのところへ来られ、

マサキチに握手を求められた。

何故、チャランポラン・マサキチの元に、

わざわざ来られ握手を求められたのだろうか。

おそらく、マサキチが一番、ニヤニヤ笑っていたからだろう。

先生の説教は、

プロの漫才を聞くよりもおもろかった。

先生の人柄を通して聴くと、

おかしくてたまらんのだ。

 

二回目は、

福音派の宿舎で、たまたまお会いしていたろころ、

皆が、並んで握手を求めていたため、

マサキチは一声、

「みなさん、ミーハーだなあ、」

と虚をついて、割り込んで、

頭を深々と下げて握手を求めた。

身体は小さいが、大きな手だった。

 

先生は、

キリストの十字架には、三つの意味があると常に言っていたが、

三つの意味を説明したためしがなかったと思う。

一つだけ説明して、

あとは、漫談説教に徹していた。

愛情たっぷりの面白い先生だった。

 

先生は、戦時中、

憲兵にしょっ引かれて、

尋問を受けたそうです。

「お前は、イエスキリストと、天皇陛下、どっちが神であると信ずるか」

こんな感じじゃなかったかと思う。

先生は、次のように答えたそうです。

「畏れ多くて、答えられません。」

 

その後、先生は釈放され、従軍されたそうです。

 

「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」

 

カエサルのものはカエサルに何を返すのだろうか。

この世で生きている限り、

私たちは、この世の肉の権威に従わなければならない。

何故なら、自分独りで生きているわけじゃなくて、

だれもが、他の人との関係性の中で生きているからだ。

一家の主は、奴隷のようになって、

家族のために働き続けなければならない。

 

しかし、その大変な労働と毎日の生活を通して、

クリスチャンは、自分自身の弱さと限界を学び、

そこにあるキリストの十字架の権威を知らされる。

 

そして、どんなに大変であろうが、

その権威を身に帯びて仕事と生活に邁進する。

 

カエサルに返すものは、

この世の肉である。

では、

「神のものは神に返しなさい。」

とは、何を返すのだろうか。

マサキチは、キリストのいのちによって、生活させてもらっている。

何の利益にもならないことも、

一生懸命に働く。

人を助けるために、

誠実に労働奉仕しつづけている。

決して、不平は述べない、

やってやっているだとか、

ずるいとか、

そんな不平は一切ない。

 

何故なら、

マサキチが生きているように見えても、

実際は、キリストのいのちが、マサキチの中で生きてくださっているからだ。

ただ、体力・精神的に限界を感じてまでも奉仕はしない。

何故なら、マサキチが倒れたら、

皆に迷惑をかけてしまうからだ。

だから、不平は述べないで働くが、

一生懸命に休むことも実際だ。

 

神様に返すものとは何だろうか。

何にも返すものなど存在しない。

介護が必要な者にとって、

杖や車いすとか、介護用品は、とてもありがたい。

だけど、返すわけにはいかない。

同様に、

今、神様から与えられた、愛と恵みを、

返すわけにはいかない。

何故なら、その愛と恵みとは、

返却するものではないからだ。

その返却不能な、ただで与えられた神の恵みを通して、

生きる知恵が与えられ、

今の前向きともいえる生活が許されているのだ。

カエサルのものを返す意志すら、

すべて、神様から与えられたキリストの十字架の愛と恵みによっているのだ。

この世の権威者が、

税金なり義務なり、色んなことで、取り立てても、

不平を言わずに、

それらを返す、服従する霊性は、

むしろ、神様から与えられているのだ。

 

では・・・

神様には何を返せばよいのだろうか。

何もない、

お金持ちならば、

献金という形で、神様にお返しできよう。

しかし、貧乏暇なしマサキチ労働者には、

何にも返すものが存在しない。

せめて、わずかな礼拝献金レベルであろう。

 

本当に、神様にお返ししなければならないものとは何だろうか?

みなさん、考えてください。

眠れなくなってしまうかもしれんけど、・・・

 

本田弘慈先生がなされた、

その奉仕活動を思うに、

その神様からいただいた大きな祝福を、

一生懸命になってお返ししようとされたんだなあと思う。

 

信徒の家を訪問され、

その姉妹の家の玄関先で、

心臓発作で倒れたとき、

「先生、こんなところで倒れちゃダメ」

と言われて、立ち直ったそうです。

マサキチも、一生懸命に、神様にお返しする、今日という一日を、楽しく必死に歩みたい。

 

いってきます=