レビ | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ヨシ

「13:14 モーセは相続地をレビ部族だけには与えなかった。主が約束されたとおり、イスラエルの神、【主】への食物のささげ物こそが彼らへのゆずりの分である。」



49:5 シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の武器。
49:6 わがたましいよ、彼らの密議に加わるな。わが栄光よ、彼らの集いに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、思いのままに牛の足の筋を切った。
49:7 のろわれよ、彼らの激しい怒り、彼らの凄まじい憤りは。私はヤコブの中で彼らを引き裂き、イスラエルの中に散らそう。

 


「34:30 それで、ヤコブはシメオンとレビに言った。「あなたがたは私に困ったことをして、私をこの地の住民カナン人とペリジ人に憎まれるようにしてしまった。私は数では劣っている。彼らが一緒に集まって私を攻め、私を打つなら、私も家の者も根絶やしにされてしまうだろう。」
34:31 彼らは言った。「私たちの妹が遊女のように扱われてもよいのですか。」

 

レビ部族には他の部族同様に、

この世の肉的祝福(相続地)は与えられなかった。

領土が与えられない代わりに、

レビ部族には、

祭儀に仕える、特別な奉仕が割り当てられた。

しかし、

レビ部族が、他の部族よりも、

神様の御前に聖よく罪や汚れがないために、

神様に直接仕えられたわけじゃない。

むしろ、

レビは、他の部族よりも、血の気が荒い部族だったかもしれない。

しかし、神は、その不肖な息子を、

ご自身の御そばに添え、

彼等が神のために忠実に仕えるように用いられたのだ。

 

神は、決して見捨てられるようなお方ではない。

常に目を向け、

羊が群れから出て行かないように監視し、

保護し続けている。

 

マサキチの願うことは、

平和だ。

特に、憎しみと言う点では、

神の愛という境界線から飛び出てしまう。

そのような境界線を守らない民には、

割り当て地は与えられない。

ただ、

神の御傍で、監視し、

奉仕させていくことが、望ましい。

 

レビ部族は、部族として割り当て地は分断され、

ヤコブの祝福預言通りに、

各部族の中に割り当てられるようにされた。

「49:7 のろわれよ、彼らの激しい怒り、彼らの凄まじい憤りは。私はヤコブの中で彼らを引き裂き、イスラエルの中に散らそう。」

 

このレビ部族の分割を、

神がなさったこととして、

国家の在り方を考えさせられる。

現在、国家とは、196か国存在する。

どの国も神がそのように定められた国家であって、

どの国にも、神の思いが込められていると思う。

ヨシュアの時代のような、

根絶やしにされるような国家など存在しない。

 

大きな国家は、この地球を治め、

小さな国家は、分相応の経済規模を構築しなければならない。

日本という国家は、どうなのだろうか。

やはり、血の気が荒い国家群の一部であって、

世界を統治するには、不適格である。

 

私たちが知らなければならないことは、

神が、私たちをどのように見ておられるかです。

国家が、隣国への主権を求め防衛を整える以上に大事なことは、

「我が国、我が国」と誇ることじゃなく、

平和国家としての在り方を求めることだろう。

そうでなければ、

神は、日本という民族を、レビ人同様に分断されるだろう。

神は、レビ部族を特別に愛して、

身近に置かれたのではない、

彼らが特別に聖よい聖なる民族だから、

神の御用のために取り立てたのでもない、

彼らがあまりにも、

神の平和を求めなかったから、

神は、あえて、

レビをご自身のひざ元で監視したのだ。

神様御自身が、レビ人の取り分とされたのだ。

それは、

神の愛であり、優しさでもある。

ただの監視じゃない、

聖なる神の御用のために、

神は、もっとも血の気の荒い兄弟を、

用いられたのだ。

 

日本には、

ヤクザや暴力団上がりのクリスチャン達が存在して、

神様のための先陣を切って伝道活動をしている。

もっとも血の気の荒い人たちが、

神様のために直接的な奉仕活動をされているのだ。

その様を見るに、

血の気の荒い人とは、

むしろ純粋で、素直な人が多いということ、

理屈を捏ねる学者よりも、

ただ、信頼するお方を愛し、

そのお方のために忠実に頑張れるんだと思う。

 

日本民族には、

彼等のような純粋さが存在するだろうか。

ただ、信頼できるお方を求める、純粋性です。

 

デスぺラード・マサキチは、

ようやく神の愛にたどり着いた、

それは、マサキチのために命を捨てられた十字架の神様を、

心から信頼した結果だ。

その十字架とは、

マサキチの幼少のときに与えられた思い出であり、

その十字架との再会は、大学時代だった。

そして、十字架からいのちを学んで、

牧師への道に進んだ。

 

マサキチも、レビ人同様に、

この世の取り分など持たないし、持てないし、存在しない。

 

牧師献身するとき、恩師には、

「レビ人のようにはなりません」

と豪語したマサキチであったが、

当時は、まだレビ部族が、

神様から特別に召出された優等部族のように思っていたからだ。

しかし、今は、

レビ部族こそ、マサキチでしかないと思わされている。

 

レビ部族には相続地は与えられなかった。

神様ご自身が、レビ部族の取り分とされたのだ。

そのレビ部族と同様に、

マサキチの取り分は、イエスキリストなのだ。

レビの存在は、

この者にとても励ましの部族である。

 

神様とは、罪深い人ではあっても、

神を求めるなら、神を信頼し続ける者ならば、

罪の赦し(贖罪)と、愛(信頼)を常に用意され、

御霊によって導いてくださっている。

 

いってきます=