忠実さ | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ヨシ
「11:1 ハツォルの王ヤビンはこのことを聞いて、マドンの王ヨバブ、シムロンの王、アクシャフの王、
11:2 また、北方の山地、キネレテの南のアラバ、シェフェラ、西方のドルの高地の王たち、
11:3 すなわち、東西のカナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、山地のエブス人、ヘルモンのふもと、ミツパの地のヒビ人に人を遣わした。
11:4 彼らはその全陣営とともに出て来た。海辺の砂のように大勢の兵で、馬や戦車も非常に多かった。
11:5 これらの王たちはみな集まり、進んで行き、イスラエルと戦うためにメロムの水のほとりでともに陣を敷いた。」

 

ヨシュアの民にとって、

カナンの地、乳と蜜の流れる地として、

南ユダの攻略は既に終わりかけていた。

しかし、その後イエス様が活躍された地域にまでは、

その侵攻は進んではいなかった。

結果、

北から多くの王様たちが戦いを仕掛けてくることになった。

 

虎穴に入らずば、虎児を得ず

枝先に行かねば熟柿は食えぬ・・・

そんな感じの軍展開だった。

 

しかし、

ヨシュアとは、

そのような新進気鋭の人物だったのだろうか。

そうは思えない。

何故なら、彼はもうすでに高齢の身だ。

彼に何か斬新な思考が与えられたとは思えない。

彼自身の思考など全く当てにはならない。

しかし、

彼が優れていたのは、

セロトニントランスポーターが多いとか、少ないとかじゃなくて、

信仰の奥義であったことは確かだ。

 

その奥義とは、

導かれること、

そこにある道とは、

何も考えることなく、

ただ進む忠実なる霊性であったと思う。

 

ルカ19章に出て来る一ミナのお話では、

忠実さを装った人間のうちにある自分本位の罪が表現されています。

常に、他者との比較の中で、

他人を疑い、

自己が優位になることを望む、

そのような自己本位こそが、

普通の人間なんでしょう。

 

しかし、

ヨシュアには、

自分に有利だとか不利だとか、

そのような人間的思考によって、

このカナン侵攻を進めているわけじゃなく、

そんな自己本位的な神と人とを疑うような思考など一切持つことなく、

ただ、純粋に導かれていったと思います。

モーセの後継者として、

モーセのように謙遜の人だったはずです。

 

ミナの話の主人とは、

どのような動機で、

一ミナを十人のしもべに割り振ったのでしょうか。

それは忠実という点です。

では、忠実とは、なんだろうか。

それは、何も考えない心だと思います。

なんにも考えない心とは、

完全に信頼と愛のなかにある状態です。

しかし、

最後の不平を述べた人とは、

どんな人であるのかと想像するに、

とても仕事はできたでしょうけど、

忠実さという点で欠けていたのです。

 

忠実さとは、

他人を疑うことではありません。

個人の能力で、物事を判断することではありません。

そうではなく、

その人の個人の能力を超えたところにある、

悟りというか静けさ、

つまり、

信頼する心であります。

そして、

信頼する心とは、

神様の愛によって与えられます。

 

忠実さとは、

主人から信頼を勝ち取りますが、

その忠実さとは、

その人の心の状態、

愛のあり方、信頼する心によるのです。

 

他人を自分よりも優れた者と思えない人には、

与えられない信頼関係です。

謙遜とは、

十字架によって受ける恵みでもあります。

忠実になるためには、

この信仰による謙遜と深く結びついていなければ無理です。

 

個人の能力よりも信頼信用することの優位性です。

逆を言えば、個人的な能力があるのに、

主人に対する忠実さを欠いてしまったならば、

本当にもったいない人生であります。

 

信仰の世界では、

神様を求めること、

つまり信仰とは、

まさに、個人の能力は必要ありません。

個人の能力は、その人を傲慢にはするが、

人と神様に受け入れられる忠実謙遜が薄くされます。

何故なら、神様は全ておできになる方であって、

 

むしろ、

個人の能力に頼る精神性を捨てることの方が、

神様や人を信頼するうえで大切です。

つまり、

ただ導かれることがとても大切な点だと分かるでしょう。

この導かれるという点において、

人間にある能力など何の役にも立たないのです。

 

戦争や災害によって、

個人の人生も大きくブレてしまう時代です。

日本人だけが、のほほんと生きて行くわけにはいきません。

全ての価値はブレていきます。

為替レートだけじゃなくて、

戦争や災害において、

日本だけが平和だと言っていられない時代は当然やってきます。

そんな世界で、

持っている人も持っていない人も、

平等である必要が、必然性が求められてくるでしょう。

その平等とは、

お金ではありません。

語学でもありません。

それは、神様に導かれて、

永遠のいのちへと導かれるという平等です。

思考でも哲学でもありません。

ましてやお金でもありません。

ただ、神と人とを愛しているかどうか、それだけです。

 

このミナのお話を読むと分かると思いますが、

それは神様が決められた順序というものがあるのです。

災害や戦争があってから、

「主よ。主よ」と言って、

主に忠実になろうとする人が多く出て来るでしょう。

しかし、

主人は、災害や戦争が起こる前に、

どれだけ、神と人とを愛していたのか、

主人に慕っていることができたか、

そのことをみるでしょう。

 

不平を述べたしもべは、

その辺が、分からなかったのでしょう。

この世の一ミナの価値のことで、頭が一杯になって、

主人の御気持ちなど理解する余裕など、なかったのです。

 

私たちに与えられた能力など、

勘定するなどできません。

ですが、神様が勘定する基準とは、何か、

それは、如何にその人が、神様御自身を愛しているのか、忠実であるのかです。

そのことを分からせるための手段が、

一ミナの勘定だったわけです。
 

ロマ
「6:11 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」

 

神は、この世で用意された生活を、仕事を、通して、

その人がいかに忠実に生きているのか、神ご自身を愛しているのか、

判断されるでしょう。

 

神様とは、放蕩息子の父親ように常に優しさを持ったお方です。

ルカ「19:27 またさらに、私が王になるのを望まなかったあの敵どもは、ここに連れて来て、私の目の前で打ち殺せ。』」

とは、書かれていますが、

これはたとえ話だから敢えて不自然なことを表現したまでです。

トランプだって、

かつてプロレスラーとして、

暴言を吐きまくってました。

しかし、

彼ほど、戦争を嫌い、爆弾を嫌う歴代大統領はいませんでした。

 

私たちは、神様とは、

本当に愛すべきお方なんだと見抜く霊性を持つことが大切です。

それは、神様だけじゃなく、

いろんな人に対しても適用できます。

ただ、やさしいだけの人は、

むしろ神様のような愛の広がりはありません。

しかし、どんなに不親切であっても、

横暴な人のように見えても、

根が優しい人はたくさんいます。

 

ヨシュアとは、

本当に神様を慕い愛していたと思われます。

それは、謙遜という霊がなければ、

決してそのような横暴な主人(神様)に従うことは不可能でしょう。

謙遜とは、

自分の思考で生きてやろうとか、

自分の力で生きて行こうとか、

そんなことではありません。

ただ、神様の前に出て、静まって、導かれることです。

マサキチは、

かつては一生懸命に考えるタイプの人間でした。

しかし、

今は、そのような人間を卒業できたと思っています。

大切なことは、

一点です。

永遠のいのちへと導かれること、

そのためにマサキチ自身はどうあるべきかなのです。
ヨシ
「11:23 ヨシュアはすべて【主】がモーセに告げられたとおりに、その地をことごとく奪い取った。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族への割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに与えた。そして、その地に戦争はやんだ。」