ヨシ
「10:40 ヨシュアはその全地、すなわち、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地、そのすべての王たちを討ち、一人も残さなかった。息のある者はみな聖絶した。イスラエルの神、【主】が命じられたとおりであった。
10:41 ヨシュアはカデシュ・バルネアからガザまで、および、ゴシェンの全土をギブオンに至るまで討った。
10:42 これらすべての王たちと彼らの地を、ヨシュアは一度に攻め取った。イスラエルの神、【主】がイスラエルのために戦われたからである。
10:43 ヨシュアは全イスラエルとともにギルガルの陣営に戻った。」
今回で、神が約束されたカナンの地の骨格を制覇したと言える。
非常に疲れた状態で、
初めに征服した町エリコ近くのギルガルへと、
戻って行ったと思われる。
すべては、神の命じられた道であり、
その通りに町々を制覇した。
一人も残さなかったとは、考えられず、
多くの住民は、隠れていた、
また、生活に戻っていったと思われる。
ただ、主が命じられたこと、
それは、神を求めず、従うことができない異文化組織という固い岩盤を、
粉々に砕き、
神の民として住まう地へと、
地ならしをしたと言える。
マサキチの心も、同様だった。
以前は、カナンの町々のような、
神を求めるためには邪魔で、
頑なな岩盤地層(古き自我層)が存在していた。
それを、粉砕せずして、
神に喜ばれることは決してなかった。
神は、マサキチのうちにある岩盤を見事に打ち砕き、
マサキチのうちを地ならししてくださった(いる)。
また、マサキチにとって信仰とは、
自分を見ずして、常にイエス様を見つづける訓練でもあった(ある)。
自分とは、常にいい加減な人格に揺さぶられ、
決して、望むような心をまっすぐに持つことができなかった。
今もそうだけど、
それでも、気づきが与えられて来た。
困難なとき、むしろ主を見つづける訓練という気づきである。
大変なときに、沈みそうなとき、
ダメな自分を見るのではなく、主を見つづける、
そんな訓練である。
感謝して前に進ませてもらう訓練、
落ち込むことなく、敵前逃亡することなく、
如何に主に信頼できるか、そんな日々である、あった。
これからも続く侵攻の人生、
ただ主の聖よさを探し、
そこに安らぎを求めたい。
侵攻は、信仰によって進行する新港へと進む道。
今となれば、
とても大切な苦しみの数々です。
神は、愛する我が子を懲らしめる、
しかし、それは、神と共に住まうようになるために必要な、
大手術であった。
苦しみの先には、新しい主の用意された聖なる寄港地、
許される限り、今日も永遠のいのちを求めて進みたいです。
愛する姉妹兄弟のために祈り続けます。
いってきます=