侵攻 | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ヨシ
「10:40 ヨシュアはその全地、すなわち、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地、そのすべての王たちを討ち、一人も残さなかった。息のある者はみな聖絶した。イスラエルの神、【主】が命じられたとおりであった。
10:41 ヨシュアはカデシュ・バルネアからガザまで、および、ゴシェンの全土をギブオンに至るまで討った。
10:42 これらすべての王たちと彼らの地を、ヨシュアは一度に攻め取った。イスラエルの神、【主】がイスラエルのために戦われたからである。
10:43 ヨシュアは全イスラエルとともにギルガルの陣営に戻った。」

 

今回で、神が約束されたカナンの地の骨格を制覇したと言える。

非常に疲れた状態で、

初めに征服した町エリコ近くのギルガルへと、

戻って行ったと思われる。

 

すべては、神の命じられた道であり、

その通りに町々を制覇した。

 

一人も残さなかったとは、考えられず、

多くの住民は、隠れていた、

また、生活に戻っていったと思われる。

ただ、主が命じられたこと、

それは、神を求めず、従うことができない異文化組織という固い岩盤を、

粉々に砕き、

神の民として住まう地へと、

地ならしをしたと言える。

 

マサキチの心も、同様だった。

以前は、カナンの町々のような、

神を求めるためには邪魔で、

頑なな岩盤地層(古き自我層)が存在していた。

それを、粉砕せずして、

神に喜ばれることは決してなかった。

神は、マサキチのうちにある岩盤を見事に打ち砕き、

マサキチのうちを地ならししてくださった(いる)。

 

また、マサキチにとって信仰とは、

自分を見ずして、常にイエス様を見つづける訓練でもあった(ある)。

自分とは、常にいい加減な人格に揺さぶられ、

決して、望むような心をまっすぐに持つことができなかった。

今もそうだけど、

それでも、気づきが与えられて来た。

困難なとき、むしろ主を見つづける訓練という気づきである。

大変なときに、沈みそうなとき、

ダメな自分を見るのではなく、主を見つづける、

そんな訓練である。

感謝して前に進ませてもらう訓練、

落ち込むことなく、敵前逃亡することなく、

如何に主に信頼できるか、そんな日々である、あった。

これからも続く侵攻の人生、

ただ主の聖よさを探し、

そこに安らぎを求めたい。

 

侵攻は、信仰によって進行する新港へと進む道。

 

今となれば、

とても大切な苦しみの数々です。

神は、愛する我が子を懲らしめる、

しかし、それは、神と共に住まうようになるために必要な、

大手術であった。

苦しみの先には、新しい主の用意された聖なる寄港地、

許される限り、今日も永遠のいのちを求めて進みたいです。

愛する姉妹兄弟のために祈り続けます。

 

いってきます=