ヨシ
「5:13 ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。『あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。』」
神は、ご自身に
聞き従う民のために、
御霊を与えられた。
御霊は、愛の霊であって、抜き身の剣を手に持つようなお方ではないと思っているが、
それでも、イエスを見つづけている者にとっては、
ヨシュアの前に現れた「神の人」と等しい。
「5:15 【主】の軍の将はヨシュアに言った。『あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。』そこで、ヨシュアはそのようにした。」
私たちは、イエス様の流された血潮によって聖なるものとされた。
御子の愛を受け、一人一人に御霊が与えられた。
私たちは、御霊に守られ、今も生き続けています。
しかし、そんな大切な御霊を受けていながら、
私たちに欠けていることがある。
それは、
私たちのサンダルを脱いでいるだろうか、
それとも、土足のまま、御前に集っているのだろうか・・・である。
Ⅰコリ
「6:19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」
私たちの人生は、この世の人々とは違う。
何故なら、この世の人々が、一回の食事で満足している間、
私たちは、永遠のいのちを求めて、日夜呻(ウメ)いているからです。
欲深いマサキチは、常に戦闘状態であることは確かです。
抜き身の剣を持った人を見ては、
「見方か、それとも敵か」
常に問われ、心に覚悟をもって生きて来た。
何故なら、
マサキチ一人だけが、天国に行くことは、まずありえないからだ。
キリストの十字架の愛は、
自分だけが幸福で、愛する人々が滅ぶなど、
教えてはくれなかった。
滅ぶも、生きるも、
愛する人々と共にある。
進むしかできない、引き戻ることのできない、
神様が導かれる、エリコの道なのです。
「見方か、敵か」
常に問われてきた戦いの日々だったし、
これからもまだ続く問いかけです。
マサキチ自身の滅びを覚悟した聖戦です。
だから、
「あなたは、私たちの敵か」
と、短すぎるヘブル語で叫ばれた、ヨシュアの気持ちがよくわかる。
マサキチの日常において、
主が、共に戦ってくださっているのは実際だ、
御霊が、マサキチと共に歩んでくださっている。
マサキチは、そんなに聖よい心を持つ聖人ではない。
しかし、そのような者ではあっても、
マサキチ自身が、生きるために、
神(キリスト)のいのちを、
追い求めている姿勢は変わらないし、
その中で、主は、常に訓練と、御霊の励ましを与え続けてくださっている。
これからは、
「あなたは、私たちの敵か」
と叫ぶ日々から卒業し、
「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」
と命じられる者、聖霊の宮として自覚ある者でありたい。
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