発見 | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ルカ
「17:11 さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。
17:12 ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、
17:13 声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。
17:14 イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。
17:15 そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。
17:17 すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。
17:18 この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」
17:19 それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」

 

ここを読むとよく分かる。

信仰とは、神が与えて下さった愛である。

愛の分からぬ者がいくら求めても、

神様を信じ続けることはできまい。

 

愛は、人の弱さを通して理解される。

どんなに喜んでいても、

どんなに病気が癒されていても、

自分自身の弱さ(謙遜)を学ぶことなくして、

人とは、決して信じ続けることはできまい。

 

マサキチが学んでいることは、

弱さである。

他人の弱さ以上に、

自分自身の弱さである。

弱さは、人の欲望を凌駕するだろう。

弱さは、聖書の世界に身を置くことをさせるだろう。

聖書には、お笑いなど一言も出てこないが、

聖書には、神を愛する人々、神を追い求める人々の、真剣勝負が出てくるのみ。

 

マサキチは、よく目立つ人間である(あった)。

よく、若いとき、

「マサキチさんは、しゃべらなければ良い人なのにね」

と何度も何度もいろんな女性群から言われた。

しゃべらなければ、良い人に見えるらしい、

なんだか分かるような気がする。

しゃべると、冗談ばっかしで、酔っ払いのようで、アホのような人間になっていた。

今でいうところの、チャラ男君だったのだろう。

 

聖書を生きるとは、

自意識を捨てて生きなきゃならん。

聖書から飛び出して、

聖書から漫才を学ぶわけじゃないからだ。

聖書とは、むしろ、

弱さを学ぶことがとても重要となってくる。

それも歳と共に・・・。

 

神様を信じるとは、神様の愛の発見でしかない。

 

灰の中に埋もれた、わずかな残り火(火種)を発見し、

「よし、これだ!」と思い、

貧しい米沢藩の改革に乗り出した上杉鷹山のように、

私たちも、

灰の中に埋もれた神の愛という残り火を発見できるならば、

私たちは、それを何よりも宝物として喜ぶことだろう。

 

外国人サマリア人のみが、

灰の中の残り火を発見できたのだ。

他のユダヤ人は、愛という宝を求める思いがなかった。

灰をかき回し、

人の心と身体を暖める火種を探し求めることなく、

この世限りの快楽人生へと身を寄せてしまった。

 

弱さを通して、

愛(信仰)を発見できるか、

それとも、

イエス様に癒された件もすべて、

「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり

と自分の実績でしかないのか。

 

結果、

永遠のいのちを繋いだサマリア人に対して、

現代のイスラエル政権下は、

いのちの意味が理解できていない、

何故なら、神を求めていないから、

神がいのちの所有者であることを知らないから、

彼等は、プーチンらのように平気で人を殺す。

 

平気で、自分たちの矛盾極まる正義論で、

戦争をして無辜の民を殺戮しているのだ。

 

マサキチは、まだ体調が良くない、

だからこそ、今日の箇所は、よくわかったように思ふ。

 

いってきます=