ルカ
「17:11 さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。
17:12 ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、
17:13 声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。
17:14 イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。
17:15 そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。
17:17 すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。
17:18 この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」
17:19 それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
ここを読むとよく分かる。
信仰とは、神が与えて下さった愛である。
愛の分からぬ者がいくら求めても、
神様を信じ続けることはできまい。
愛は、人の弱さを通して理解される。
どんなに喜んでいても、
どんなに病気が癒されていても、
自分自身の弱さ(謙遜)を学ぶことなくして、
人とは、決して信じ続けることはできまい。
マサキチが学んでいることは、
弱さである。
他人の弱さ以上に、
自分自身の弱さである。
弱さは、人の欲望を凌駕するだろう。
弱さは、聖書の世界に身を置くことをさせるだろう。
聖書には、お笑いなど一言も出てこないが、
聖書には、神を愛する人々、神を追い求める人々の、真剣勝負が出てくるのみ。
マサキチは、よく目立つ人間である(あった)。
よく、若いとき、
「マサキチさんは、しゃべらなければ良い人なのにね」
と何度も何度もいろんな女性群から言われた。
しゃべらなければ、良い人に見えるらしい、
なんだか分かるような気がする。
しゃべると、冗談ばっかしで、酔っ払いのようで、アホのような人間になっていた。
今でいうところの、チャラ男君だったのだろう。
聖書を生きるとは、
自意識を捨てて生きなきゃならん。
聖書から飛び出して、
聖書から漫才を学ぶわけじゃないからだ。
聖書とは、むしろ、
弱さを学ぶことがとても重要となってくる。
それも歳と共に・・・。
神様を信じるとは、神様の愛の発見でしかない。
灰の中に埋もれた、わずかな残り火(火種)を発見し、
「よし、これだ!」と思い、
貧しい米沢藩の改革に乗り出した上杉鷹山のように、
私たちも、
灰の中に埋もれた神の愛という残り火を発見できるならば、
私たちは、それを何よりも宝物として喜ぶことだろう。
外国人サマリア人のみが、
灰の中の残り火を発見できたのだ。
他のユダヤ人は、愛という宝を求める思いがなかった。
灰をかき回し、
人の心と身体を暖める火種を探し求めることなく、
この世限りの快楽人生へと身を寄せてしまった。
弱さを通して、
愛(信仰)を発見できるか、
それとも、
イエス様に癒された件もすべて、
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」
と自分の実績でしかないのか。
結果、
永遠のいのちを繋いだサマリア人に対して、
現代のイスラエル政権下は、
いのちの意味が理解できていない、
何故なら、神を求めていないから、
神がいのちの所有者であることを知らないから、
彼等は、プーチンらのように平気で人を殺す。
平気で、自分たちの矛盾極まる正義論で、
戦争をして無辜の民を殺戮しているのだ。
マサキチは、まだ体調が良くない、
だからこそ、今日の箇所は、よくわかったように思ふ。
いってきます=