みことば | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

【新改訳2017】
ヨハ
7:3 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。
7:4 自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」
7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

マサキチは、若いころ、

仲間に、上記の御ことばをもって、

自分も公に出て御ことばを宣べ伝えたいと証ししたら、

医学生に次のように指摘された。

「ここは、不信仰な兄弟たちの提案だから、

ここの箇所をもって、肯定的な証しをすることはできないよ」

確かに、不信仰なイエス様の兄弟たちが述べたところであったが、

ここの趣旨は、もっと他のところにある。

それは兄弟たちの述べたことを通して、

兄弟たちがイエス様を神の子としていなかったということです。

兄弟たちの言ったことは大切なことではあるが、

その大切さとは、イエス様への絶対的な信頼からではなかった。


御ことば自体は、聖書に語られたことを通して自由で良いと思っている。

でなければ、ヨブ記の四人の友人からは、何も学べないことになる。

 

聖書学校のとき、朝の祈りの交わりの時間、

共通の通読個所から御ことばの証しを説教の練習を兼ねて実演するわけですが、

マサキチの時代は、悲しいかな、ヨブ記を通読箇所にあたってしてまった。しかも一章ずつだ。

ですが、ヨブ記の四人の友人からも霊的に大切な教えを受けたと思っています。

 

申命記
「30:11 まことに、私が今日あなたに命じるこの命令は、あなたにとって難しすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。
30:12 これは天にあるわけではないので、「だれが私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちが行えるように聞かせてくれるのか」と言わなくてよい。
30:13 また、これは海のかなたにあるわけではないので、「だれが私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちが行えるように聞かせてくれるのか」と言わなくてよい。
30:14 まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」

 

いろんな少数民族のための翻訳活動をしているグループが今も昔も存在する。

しかし、

みことばを求めない時代もあった。

それが中世カトリックだ。

コルプスクリチアーヌムとして民衆はただ教皇に従ってきた時代だ。

 

神は神秘とされてきた。

神秘は偶像化され、

人々はただ、その偶像を拝むことで信仰を維持してきた。

 

中世の暗黒時代とは、

まさにこのことだと思う。

 

今の時代、聖書が身近に与えられ、

私たちは、無意識に聖書の御ことばに従っている。

御ことばに権威があるとか、

神の霊感があるとか、

そんなことじゃなくて、

みことばでしか、真理が見えないからだ。

 

日本人にとって聖書とは、

教師であって、牧師であって、指導者である。

誰もが、真剣になって聖書の奥義を研究し、

救いの達成を求める自由が与えられている。

 

この自由に信仰を求めることのできる時代とは、

私たちの時代と言えます。

 

中世の暗黒時代とは、

そこに闇しか存在しなかった。

何故なら、信仰が御ことばによってなかったからだ。

ウィクリフ・ルター・ツゥイングリなどらの活躍があり、

聖書は、一般民衆に解放されたことは、

私たちの今の救いに直結している。

ただカルバンが、決定論的に聖書を釈義してしまったマイナスもあるが、・・・。

 

社会や権威が個人の信仰に介入する時代から、

直接、個人が信仰を手にする時代、

イエス様が、シナゴーグで、スクロールを手にして説教された時代と同様に、

今の時代は、個々人が、聖書を手に取り、

祈り、御ことばの糧を得ることが可能となった。

 

私たちは、どれだけ歴史の恩恵を受けてきたことか、

そんな幸福な時代こそ、

現代と言えます。

現代とは、まさしく権力者の支配から非権力者へと、

社会的に弱い者にこそ、

当時の禁書であった聖書を手に取って読むことができる、

いや、救いを手にすることができる時代である。

 

私たちにできることは、

弱っている人に、虐げられている人に、

その救いの自由を紹介することでしょう。

聖書の存在、自分で自由に手できる聖書の存在を紹介すること、

また愛する人に聖書(救済の手)をプレゼントすることです。

 

神様に従いたくても、どのように従えばよいのか分からない時代から、

今は、自分で神様に従う自由が与えられた。

ただ、従えばの問題です。

「30:15 見よ、私は確かに今日あなたの前に、いのちと幸い、死とわざわいを置く。
30:16 もしあなたが、私が今日あなたに命じる命令に聞き、あなたの神、【主】を愛し、主の道に歩み、主の命令と掟と定めを守るなら、あなたは生きて数を増やし、あなたの神、【主】は、あなたが入って行って所有しようとしている地で、あなたを祝福される。
30:17 しかし、もしあなたが心を背け、聞き従わず、誘惑されてほかの神々を拝み、これに仕えるなら、
30:18 今日、私はあなたがたに宣言する。あなたがたは必ず滅び失せる。あなたがヨルダン川を渡り、入って行って所有しようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くことはない。」

 

いってきます=