申命記21:22~22:12
今日のデボーション箇所、申命記21章22節から22章12節に書かれた内容は、
イスラエルの民が、
神の民として、
その文化風習と生活の中で、
守って来た、しきたりとか習慣である。
しきたりとか習慣が出来上がった背景には、
つまり、
かつて神がそのようにしなさいと決めた決め事には、
必ず、そこに大切な意味がある。
しかし、人間はだんだんと不信仰になり、
自分の考えが一番正しく思えてきてしまう。
サウロは、その辺で失敗した王様であった。
多くの決め事は、
人をその危険や秩序破壊から守り、
弱い人や同胞が虐げられることのないように、
強い者や横暴な人が得する社会ではなくて、
すべての人が変わらぬ福祉を受けられ、
その物差しで、全ての人が、自分自身の生活を生計して行く基準である。
その神の定めた物差しが、
一人の自分勝手な考案や改良などによって、
変更されてしまえば、
その改案に沿った人は利益を得るが、
その変更によって、ある人は、大切な福祉の機を逸してしてまうことになるだろう。
「22:1 あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、見ぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところに、それを必ず連れ戻さなければならない。
22:2 もしその同族の者が近くの者ではなく、あなたがその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜しに来るまであなたのところに置き、それから彼に返しなさい。
22:3 彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の衣についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくした物をあなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。見ぬふりをしていることはできない。
22:4 あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、見ぬふりをしてはならない。必ず、彼と一緒にそれを起こしてやらなければならない。」
「見て、見ぬふりをしていてはならない」とは、
善きサマリア人のたとえ話でも主張されている。
祭司とレビ人は、見て見ぬふりをしたが、サマリヤ人は、しっかりと介抱した。
もっと重大な懸念とは、
神がすべての民のいのちを管理し導いてくださっているのにも関わらず、
人間が、神が予定されている道を勝手に変更することだ。
人間が勝手に感情的意志によって、
今まで培(ツチカ)われて来た決め事やしきたりを変更することは、
神にいのちを託した人間にとっては、
致命的なミスに繋がりかねない。
こんなことをして何の得になるのだろうかとつぶやいてはいけない、
こうした方が、良いに決まっていると思っていても、相手に不都合が生じるならば、変更してはいけない。
たとえ、小さな問題でも、変更してはいけない、忠実に仕事を実践しなければならない。
たとえ、体のどこかが痛いと思っても、痛いから辞めてしまえば、
神はその人間が勝手に変更した内容を見過ごすことはしない。
すべては、仕事を忠実に実践し、
神の導きを差し置いて、
自分だけが得をするような生き方をすべきではない。
自分の十字架を負うということを考えると、
如何に人間は、自分の十字架を負うことを怠っているのかが分かろう。
私自身の十字架を負うということは、
格好よくふるまったり、
スマートに予定を変更したり、
勝手に良い道を選んで進むことではない。
ただ、神によって正しく導かれて来た道を、愚直に進むこと、
これが、神にいのちをささげて歩む人間の取る態度だ。
「22:9 ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種と、ぶどう畑の収穫全体とが、聖なるものとして取り分けられてしまうことのないように。」
この新改訳2017訳は直訳過ぎて意味が通じない。
よって、新改訳改訂第3版を添付した。
「22:9 ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。」
この行は、
頭の良い人が、良かれと思ってした行為であろうが、
むしろ神の御計画、神の聖の邪魔をしていることを意味してはいないか。
大切な義務(自分の十字架)とは、
感情的意志に左右されて、勝手に変更する頭の良さ(機転)ではなくて、
小さなこと(小さな利益)でも忠実に守り行う心の態度である。
総じて、聖なるものと俗なるものとを明確に分離して生活することです。
聖なる環境に、俗(悪)なるものを侵入させてはいけないこと、
マサキチは実践してきただろうか。
マサキチの部屋は、聖なる部屋としてきちっと整理整頓してきただろうか。
聖なる環境と、そうでない環境を、一緒くたにしてはいないだろうか。
それは、目に見える環境だけではなくて、
マサキチ自身の心(人格)の問題でもある。
「22:1 あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、見ぬふりをしていてはならない。・・・
22:5 女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の衣服を着てはならない。」
神様は、マサキチが神の聖にいかに忠実であらねばならないのか、
教えてくれている。
22:6 たまたま道で木の上か地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵があり、母鳥がひなか卵を抱いている場合、その母鳥を子と一緒に捕ってはならない。
22:7 必ず母鳥を去らせて、子を捕らなければならない。それは、あなたが幸せになり、あなたの日々が長く続くようになるためである。
神の聖と愛は一つである。
愛は、聖を軽視してはならない、
聖もまた、愛を軽視してはならない。