永遠と愛の関係 | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ルカ
「10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

 

 

イエス様は、

永遠のいのちを理解したいなら、

神様と人とを愛しなさいと言われた。

 

人間は、

神の本質である永遠性を持ってないため、

永遠のいのちを理解することはできません。

しかし、

神の属性である愛は、

人にも存在するので、

私たちはこの愛によって

神の永遠性を知ることができます。

 

本質と属性の関係です。

 

では、

愛とは、どのようなものなのか、

知る必要があります。

 

つまり、愛とは、

「行為」ではなく、「状態」のことです。

 

ルカ
14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」
ルカ
「9:23 イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
9:24 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。」

 

神様と人とを愛する結果、

自分の十字架を負おうと必死になって、

何か勘違いをして、

イエス様の十字架とか、他人の十字架を負ってしまってはいないか?

その結果、潰されてしまうことを経験してはいないか。

「あなた」と「私」の区別の小さな日本人性には、

この辺が理解できないかと思う。


イエス様が命じられたのは、

自分の十字架です。

イエス様御自身でも隣人の十字架もでもありません。

 

隣人やイエス様の十字架を負うということは、

これは、行為における愛であります。

立派な善行です。

 

それに対して、自分の十字架を負うとは、

これは、「状態」における愛であります。

 

この区別は明確にすべきです。

 

私たちが持つ信仰が、

イエス様の十字架の愛の発見ならば、

その信仰は神の愛によっていることは、

明白です。

 

ですが、何か、善行によって愛を演じて、

その結果、信仰を実感できる、できないと判断するのは

そもそもの出発点が間違っていると思われます。

 

何故なら、

神の愛が分かったこと、それ自体が信仰だからです。

信仰は、神が与えられた愛です。

行いは必要ありません。

 

私たちは、その神の愛の状態を受けて今も生かされています。

それは、安心とか平和という状態に近いものでしょう。

 

その状態(神の属性)を受けて、

始めて神の永遠性を信じれるように変えられます。

 

では、善きサマリヤ人は、行為における愛ではないのか、・・・

と疑問を持つかもしれません。

 

しかし、行為における愛ならば、

祭司やレビ人のように、

見て見ぬふりをした方が、よいでしょう。

何故なら、長続きしないし、疲れ果てるからです。

わざわざ自分のメンタルがダメになることは避けるべきだからです。

 

しかし、

善きサマリヤ人の愛は、直観であったことを理解すべきです。

直観とは、直ちに見て取る心の態度(状態)です。

 

踏切内で、人が倒れていれば、助けなければならないと思うのは、自然です。

そのような愛の状態(直観)を通してのみ、

私たちは、神の永遠性を知らされるのです。

直観とは、かわいそうに思った人のとる態度です。

ですから、ダマされやすいし、むしろ、ダマされていれば良いのです。

あの人は、私をだましていると思って、何もできないのは、

祭司やレビ人のような功利主義者です。

 

功利主義者は、成功主義、快楽主義、結果主義とも言われ、

民主主義の代表的な思想形態を支えています。

スーチー氏が、ガンジーになり切れていないのは、

この間違った思想形態をイギリスで学んで

ミャンマーで実践してしまったからです。

 

結論は、

キリストの愛と一つとされるとき、

つまり、キリストと一つとされるとき、

私たちには、神の愛と共に神の永遠性をも受けていることになるのです。

 

アレルギーは一つです。

発症によって呼び名も変わります。

アレルギー性結膜炎、

アトピー性皮膚炎、

鼻炎、

胃腸炎、

耳管狭窄症

などなど、

 

同様に、

愛も一つです。

キリストは、マサキチの罪のために、

十字架上で血を流され、神からも人からも見捨てられたのです。

キリストの十字架によって、

マサキチの罪が贖われ、

神様を、天のお父さんと呼べる関係にしてくださったのです。

その愛を受けること、

その神の愛を持つこと、

これが信仰です。

 

いってきます=