ルカ
8:22 ある日のことであった。イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちは舟を出した。
8:23 舟で渡っている間に、イエスは眠り始められた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、彼らは水をかぶって危険になった。
8:24 そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。
8:25 イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」
お弟子たちは、
イエス様をいつも見て、どのようなお方なのか知っていたはず。
イエス様が、いろんなことをされた事実を。
やもめの息子を生き返らせ、
百人隊長の部下を癒され、
男の右手を癒され、
らい病の男を癒され、
シモンの舟が沈みそうなったほど魚がいっぱいにされたことを・・・。
しかし、お弟子たちは、
突風を見て、荒れ狂う水を見て、
恐ろしくなってしまった。
イエスを見ることを、求めることを、
信頼することを忘れてしまったのだ。
マサキチにもよくあることだ。
朝の寒い暗いうちに、
寂しさがマサキチの心を支配してしまう。
こんな孤独と恐怖を感じる中で、
死にたくない。
みんなが居るところで死にたい・・・と。
立派な病院で死にたい・・・と。
しかし、・・・
寂しいからこそ、
イエス様により頼むことが許されるのは実際だ。
夜の暗がりは、
昼間の明るい光の中で知ることのできない神への愛を知ることのできる、
恐怖は、神の愛への裏返しでしかない。
むしろイエス様により頼む素晴らしい時間帯であるはずだ。
しかし、イエス様を見ずして、
現実の朝の寒くて暗い自然に心がいっぱいになってしまうこともある。
無事に朝を迎えって、
ああ、まだ一日がある、まだ生きている、
そんな現実を喜んだりもする。
入院生活が長いと、
夜の時間帯が怖かったりする。
昼間の明るい時間帯に、体調が悪くなるならば、みんながいるが、
夜の時間帯は、夜勤勤務の看護師しかいない。
入院できれば、まだよくて、
独りで夜、体調を崩して自宅で寝ているときとは、
その孤独・不安は、大変なものだ。
しかし、逆手にとってみること、
そこには信仰の素晴らしさがある。
夜の暗い孤独にこそ、
イエス様を求める信仰が与えられる。
戦時中、獄中で亡くなった牧師やクリスチャンや、コルベ神父のように・・・
孤独であれば、あるほど、
神の愛を求める信仰が与えられる。
大変だからこそ、神を求める人格が与えられる。
これが、ニーチェと違う点だ。
クリスチャンはルサンチマンなんかじゃない、
人間として当然の権利、神への愛によるからだ。
ニヒリズムは、人間の思想社会では起こりえる現象だ。
しかし、信仰とは、
人のニヒリズムで消え去ることはできない。
何故なら、信仰とは、愛することだからだ。
ニヒリズムの果てにある、永遠のいのちだからだ。
人類が、ニヒリズム化すれば、するほど、
人類の神への愛は強くされていく。
落胆と絶望、暗闇に恐怖と、孤独を覚えれば覚えるほど、
神への愛は、その暗闇でむしろ強められていく。
イエス様は、お弟子たちに言われた。
「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」
たしかに、マサキチもお弟子たちと変わらない薄い信仰でしかない。
しかし、
次のように言い換えることはできないか。
「あなたがたの愛はどこにあるのですか」
いってきます=