わたしに会えます~ | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

マタイ

「28:10 イエスは言われた。『恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。』・・・

 

この行は、

復活後、女性たちに再会されたイエス様が言われた会話です。

 

愛する人が、再会を求めて、

あなたに向かって

「こそでわたしに会えます。」

と言われたらどう思いますか。

再会できる喜びで元気がでるのではないでしょうか。

 

「会います。」

じゃなくて、

「会えます」

とイエス様は言われたのです。

 

「会います」だと、

そうなる予定になっています、という意味が含まれるかと思います。

しかし、

「会えます」だと、

希望とか、会うことのできる受け手側の意志の喜びが期待できます。

新共同訳だと

「そこでわたしに会うことになる」

と訳されています。

これだと

単なる予定をイエス様が女性たちに言っているようで、味気ないです。

口語訳だと、

「そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」

確かに未来形で表現されてますが、

コイネーギリシャ語の未来形の意図を

汲み取っているのか、

それとも組み入れていないのか、

分からない訳になってます。

それぞれの英語訳も、どっちつかずでマサキチとしては、あまり好きではありません。

 

「会えます」と表現した新改訳2017版が一番すてきな訳です。

 

「わたしに会えます」

 

これは未来形です。

しかし、

聖書の未来形は、推定としては訳されず、ほぼ断定として訳されます。

「会えるでしょう(推定)」ではなく「会えます(断定)」・・・です。

何故なら、

未来を語るお方は、預言者や神様であって、

彼らは未来を確定した事として表現するからです。

「わたしに会えます」と言われたお方は、

約束を違えるような、

または計画が上手くいかずに治療方針を変更するような医者とは違います。

神様が、言われたことは、

神様が、責任をもって実行されるからです。

 

お弟子たちとは、失意の中で、復活されたイエス様に再会するわけですから、

イエス様に会える、会うことができる、

その喜びは何にも代え難いものです。

 

新改訳の「会えます、会えるのです。」が一番素敵な訳です。

 

マサキチがクリスチャンになったきっかけの宣教師は、

何度も来日されたが、

帰り際、「主の御こころだったら、また会えるでしょう」とよく言われた。

これは推定の未来です。

私たちにできることは、未来において、自分自身の願望を述べるにとどまってしまいます。

その推定としての未来では、人間関係において、とても寂しい限りです。

愛する宣教師と再会できるか分からないのですから、寂しいです。

ですが、

イエス様は、

復活後に再会した彼女たちに向かって、

「(兄弟たちは)わたしに会えます」と言われたのです。

 

そして、マタイ福音の最後で次のように言われました。

「28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。

 

「いつもあなたがたとともにいます。」

ここは、未来ではなく。現在です。

現在形は、コイネーギリシャだと、

「ともに居続けます」と現在進行形として表現されます。

「いつもあなたがたとともにい続けますよ~」

これも断定です。

イエス様が、断定として語られたことは、

イエス様を愛するお弟子たちの意志決定にとって、

大切な励ましではないでしょうか。

居なくなったお方が、実は元気に存在していた、

そしてのそのお方が、お弟子たちに向かって、

「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

と言ってくださっているのです。

感謝なことです。

 

仕事で疲れていても、

イエス様はいつも私とともにいてくださると言われるのです。

お弟子たちだけではなく、

全てのイエス様を救い主として信じている者と共にいて下さっている・・・のです。

 

英語だと、贖われた者とは、そのお方と一つとされると表現されています。

(atonement:つまり、at +one - ment(名詞化語尾))

これは面白いですね。

 

何故なら、贖罪とは、

罪の奴隷であった私たちが、買い取られ、自由の身となり、神の子とされたことであります。

私たちは、

イエスキリストの十字架の贖いによって、

罪赦され、

イエス様と一つとされたわけです。

イエス様と一つとされるとは、

汚れた自分にはない、

イエス様の素晴らしき姿(聖よさ)に変えられ続くと言えます。

もちろん、私たちは、推定の人間です、

断定することはできません。

ですが、

その断定のイエス様と似てくることは、確かです。

何故なら、イエス様を愛しているからです。

信仰とは、神が与えられた愛だ・・・からです。

Ⅱコリ

「3:18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 

愛する人と心を同じくすることは、当然であります。

愛するイエス様が断定された未来とは、

私たちにとって、元気をいただける未来であって、

素直に聞き従います、いや、聞き従いたいのです。

 

「・・・見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます(いつづけます)。」

 

と言って下さったのです。

 

私たちが、大変なとき、

私たちは、御子の十字架を忍んで、

すべての困難を耐え忍ぶことができる、

困難なときにこそ、イエス様の苦難とも一つとなった実感が与えられる。

このキリストと一つとされることが、

私たちの信仰、キリストによる贖いによるからです。

耐えること、喜ぶこと、悲しむこと、すべて愛するイエス様と一つとされていくのです。

私たちは、御子の言われた断定を自分自身のために、

聞き従うことができる信仰(愛)を受けたのです。

 

ここは、二千年前に、お弟子たちに語られたんだから、

現代の私には関係ないと言ってしまえば、

私たちは、イエス様と一つとされたことにはなっていません。

贖われた者、イエス様と一つとされた者にとって、

御ことばは、私たち一人一人への断定であり、導きなのです。

愛しているからこそ、

愛するお方の断定に聞き従えるのです。

これは、大好きなミュージシャンのコンサート会場に入る前、

長い列の中に、割り込みするようなものです。

イエス様は、そのような、人間的にはずるい割り込みをも、

受け止めて下さっていると思っています。

自分には資格がないと思って、

列の最後尾に並ぶ必要などないです。

堂々と割り込めると思います。

愛しているのだったら、

できるだけ早く会いたい、近くに行きたい、割り込みたい、従いたいのが筋です。

聖書は、神を愛する人々、御子イエスキリストを愛する人々、聖霊を愛する人々にとって、

並び順など関係なく、素直に聞き従うことが大切です。

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

と言って下さったのです。

こんな幸いなことはないわけです。

愛するお方が、共にいてくださると言っているわけですから。

マタイ1;23に書かれた

「インマヌエル(主が共にいます)」と言う御ことばが、

成就したのです。

お弟子たちだけじゃなくて、

救いを受けた贖われた全世界の一人ひとりに成就したのです。

 

イエス様は、確かにお弟子たちから取り上げられました。

しかし、それは人間的な理解です。

実際は、取り去られたからこそ、

御霊としてイエス様は私たちのうちに、

御子の霊としていつもいて下さっているわけです。
ヨハ
「16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」

 

「・・・助け主を遣わします」

これも断定の未来です。

 

日常での、神様(聖霊)のシグナルに気が付くことは、

神様が、私にとっても、

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と言われたことの証明です。

贖われた者として、罪の奴隷から神の子とされた者として、

マサキチは、「推定」では済まされない神の「断定」を喜びたい・・・です。