【言葉は変化するもの】
英文法の規則は、実際に伝わる表現が2つあれば一方を正用とし他方を誤用とします。正用はたまたま選ばれただけなので、理由は後付けに過ぎません。好例の1つが冠詞theの‘説明’ です。
曰く、固有名詞にはtheを付けない。
曰く、earthは世の中に1つのものだからtheを付ける。
知人を一人思い起こしましょう。私の場合親友の「橋口」は世の中に唯一無二です。固有名も地球も世の中に1つですが、theを付ける場合も付けない場合もあることになります。「1つに特定できるから」はtheを冠する理由にはならないのです。
では改めて、冠詞theの使い方を読み解いていきます。よく言われる「冠詞theは日本語には無い」は半分あっていますが半分外れています。theは指示詞類のthatが弱化した語です。指示詞類は日本語にもあります。「その」「あの」などです。theやthatが「その」「あの」と和訳できる場合があるのは同種の言葉だからです。まず、日本語の「その」「あの」の使い方から考えてみましょう。
二人の間で言葉を交わす場合を想定します。橋口という名の共通の知人が唯一なら「橋口」だけで伝わります。唯一のモノに「その」「あの」等の指示詞類は要りません。しかし同名の知人が複数いるときは、「あの橋口」「その橋口」と指示詞類を使うことがあります。つまり「その」「あの」という指示詞類は、複数候補がいる時に「他と区別する」ことを示すのです。
theの基本的な用法は指示詞類ですから、複数あるものから「他と区別する」ときに使います。創造主を唯一神と信じる人はGodと無冠詞で呼びます。他と区別する意識はないからtheは不要です。複数いる神の一柱はthe god of war.(戦の神)とtheを冠します。「他でもない」戦の(of war)と、他の神との区別を意識してtheを使うのです。
「他との区別」を意識するどうかは任意なので指示詞類の使用不使用は状況によって変化します。「地名+大学型の名称にはtheが付かない」のような規則は実際の使用を反映していません。事実は言語データベースを利用すれは一目瞭然です。
例えば、ロンドン大学は、設立後数年の間はthe London Universityとtheを冠して呼ばれています。1900年頃にはtheが取れたLondon Universityという呼び方と半々ぐらいになり、2000年には、ほぼthe取れて単にLondon Universityと無冠詞が通り名になります。
このtheが変化していく現象も日本語の指示詞類の使い方から読み解くことができます。話者の間で馴染みが無い名前には「どの」「その」「あの」などが付けて他と区別します。十分な名が通っていればこれら指示詞類の言葉は要らなくなります。「その」「あの」を使うかどうかは話者間での知名度や親しみの程度によって有無が変化するのです。
設立してすぐには人々のなじみが薄く「あのロンドン大学」のような呼び方をした。知名度が上がるにしたがい「あの」が取れて単に「ロンドン大学」と呼ばれるようになった。このような感覚に近いと考えていいでしょう。
この他、公園、銀行、政府機関などの施設名や海、湾などの自然地形の固有名とtheの歴史的変遷を調べましたが、知名度があがるとtheが取れる傾向が確認できました。知名度が上がると馴染みの程度によってtheの使用率が変わる傾向があります。例えば、同じBBConlineのニュース記事での表記は、民間の銀行Bank of Americaと中央銀行the Bank of England でtheの有無が異なります。規則や正式名称という人為的な決め事とは別で、現代語が伝わる仕組みでは、人々が親しみを感じるモノにはtheをとる傾向があります。親友には「あの」が要らないと同じような感覚です。
冒頭にあげたearthについて、「地球」は宇宙でただ一つの星ですがthe earthとtheを冠します。知名度抜群なのに?と疑問に思う人はいるでしょう。こういった気づきは文法理解にとって大切です。
星としての「地球」はEarthと無冠詞で呼ぶことがあります。一方、the earthのイメージは「母なる大地」でしょう。無冠詞のearthは「土」「地面」「大地」という一般名です。もともとは、「他の単なる地面と区別」して、創造主が創った「例のあの大地」the earthだったと考えれらます。the earthは聖書の創世記に出来てきますから、英語話者の間でこの呼称が定着したと考えることができます。
14世紀頃からの聖書の記述について調べてみましたが、中には初登場時にはearthと無冠詞で、その後the earthとなるものもありました。英訳聖書は、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語など他の言語からの翻訳と考えられるので、その影響もあるかもしれませんが。
いずれにしても百年以上前の後付け「世の中で唯一のモノだから」は論外です。theの基本原理「他との区別」に合わない理由を受け入れると英語ネイティブのtheに対する文法感覚と乖離します。
theの基本的な用法は、thatや日本語の指示詞類と同じような感覚でつかめます。一方、theには日本語の指示詞類には無い現代英語の特徴的な用法があります。和訳すると不自然になる用法です。次の2つの英文の違いが分かり易いかもしれません。
The dog is sleeping. 「その犬は寝ている。」
The dog is a loyal animal. 「犬は忠実な動物だ。」
「その犬」と和訳できる用法は、「他の犬との区別」を念頭に置いていると考えます。こちらは1つのモノに「特定する」用法のtheといってもいいでしょう。
これに対して和訳に表さない方が自然な用法は、「他の種類の動物との区別」を念頭に置きます。後者の用法は日本語にはないので、和訳に表すと不自然なのです。こちらのtheは別の種類との区別を意識しているだけで、「特定しない」用法といえます。「特定しない」用法は他の表現に変えることができます。
A dog is a loyal animal.
Dogs are loyal animals.
この用法はa dogと実質的な意味は変わりありません。基本用法とは違い、場合によっては省略されることもあります。
「特定しない」theは幼児向けのアニメにも出てきます。次の2つの用例は英国のアニメPeppa Pigとそれを絵本にしたものです。同じ場面の台詞で、アニメ版と絵本版を比べています。
a. Peppa:“I want to be the clown”
――Peppa's Circus (アニメ)
b. “I want to be a clown!”cries Peppa.
――Peppa's Circus(絵本)
同じ場面の台詞で、(a)のアニメ版では冠詞theが使われ、(b)の絵本版では 冠詞a になっています。同じ場面の台詞ですから(a)、(b)とも同じ「私ピエロをやりたい」という意味です。
the clownは、サーカスの他の役割(strongman/juggler/ring master/…)との区別を意識した「特定しない」用法のtheと解すことができます。だから「そのピエロ」では誤訳になってしまいます。基本用法の「他のclownと区別した」theではないからです。
一般の学習者のほとんどは、theでもaでも意味に大差ない、このような現象に戸惑うのではないでしょうか。学参文法書の説明はたいていtheは「特定」、aは「不特定]」という18世紀に創作された昔ながらの説明しかしていませんから。theが揺らぐ現象は、「特定しない」用法で起こります。
例えば、in the winter(冬に)のように季節に冠するtheは「特定しない」用法です。「その冬に」という特定の冬を指すわけではありません。「他の季節と区別する」意識があるととらえることができます。この用法のtheは無くても意味は同じなのでin winterと言っても伝わります。だから世代や地域によってtheの有無があり、揺らぎます。
言葉の揺らぎは、現代語が伝わる仕組みの想定内です。「特定しない」theは、有無で意味に大差がないから、省略したり、aに替わったりします。ただし、慣用によってどれを使うかはほぼ決まっているような場合もあります。もっとも、現代英語が伝わる仕組み上、潜在的にゆらぐことはありえます。特定しないtheは、その時の慣用と柔軟に捉えておけば、変化しても対応できます。
言葉は変化します。文法規則にはこの常識が欠けています。標準語は言葉使いを統一することを志向するので、言葉の変化を嫌うのです。規範的規則が言葉の変化を考慮しないことには、標準語を維持するという正当な理由があります。
ただし、実際には言葉は変化するのだから、文法規則は言葉が伝わる仕組みとは違うのです。現代英語が伝わる仕組みは、言語が変化するということを基本とします。