Doyle2014(訳)
「「Ain’t」は、教科書や文法書で調べたり、教師に尋ねたりすると、ほとんどが「isn’t」の非標準的な表現とする。教師たちは一般的に「isn’t」や「aren’t」を好むだろう。しかしながら、「ain’t」は北米の口語文化、たとえば映画やポピュラー音楽、コミック、さらには多くの人々の日常的な話し言葉の中で、非常に広く使われている。 「ain’t」をGoogleで検索すると、無数のポピュラーソング、映画のセリフ、さらには書籍のタイトルに至るまで、さまざまな例が見つかる。
一方で、『オックスフォード英語辞典』(OED 第1巻 p.276)には、「ain’t」が18世紀にはすでに使われていたという記述があり、これは「am not」や「amn’t」といった縮約形がなまったものとされている。また、「have not」や「has not」を表す「hain’t」もその起源の一部になっている。こうした起源から、現在の「ain’t」の形と用法が発展してきた。(しんじ訳)
Howard Doyle『‘Ain’t’ ain’t Standard English, or is it: dealing with ‘Ain’t’』2014
【2025.8.6】ain’tの基本的な位置づけと成り立ちが分かる記述。オックスフォードのOEDらしい歴史を考慮した記述的な立場の記述になっている。
岡村2020
「ain’tは一般に教養のない言い方とされ、特に書き言葉では回避される。ain’t は様々な文の種類の中で生じるし、統語的にも陳述節ばかりでなく、付加節にも生じる。
『新英文法辞典改訂増補版』でも、付加節に生じる ain’t をめぐって、「アイルランドで
は、amn’t I と言われたりする。しかし、ain’t I を不可とする空気も強く、その反動としてイギリスでは、くだけた口語では aren’t I ? とも言われる」(1989: 81)とし、ain’t の使用には地理的な差異が存在することがわかる。
Longman Dictionary of the English Language には、ain’t の歴史的な発達過程が説明されている。特に17世紀の後半から18世紀の前半にかけては教養ある人たちの間でも流行した。加えて米国英語では、教養のある人の間でも使われるが、それがユーモアを創出するときやインフォーマルな効果を出したいときに、限定的に使用されたことも指摘されている(1991: 33)このことは ain’t が米国英語でよく聞かれるという証左とも言えるが、英国英語でも非標準的な場面で頻繁に使用される。
The Cambridge Australian English Style Guide には、ain’t が様々な助動詞形の代わりをすることについて、コミュニケーション上は問題ないとしながらも、軽率な話し方といった印象を聞き手に与えるとの指摘をしている。また付加疑問文中に生じる aren’t I ?(I’m supporting you,aren’t I ?)については、これまでにもそれが正式な用法ではないとする論争があったが、すでに多くの人がそれを使用しており、適切な形式の穴埋めをしてくれている、と説明している(1995:32)
一方、英国や豪州といった地域で刊行された辞書では、ain’t の説明にあまり頁が割かれていない。例えば BBC English Dictionary と Oxford Advanced Learner’s Dictionary では簡素な説明しかない(前者が 1992: 25,後者が 2015: 33)。The Compact Macquarie Dictionary(1994: 19)も同様で、The Penguin Macquarie Dictionary に至っては、ain’t の記載すらない(1986)。」
岡村 徹『英語のain’tに関する一考察』2020
【2025.8.6】18世紀の中ごろにはじまった標準化によって正用から外されて、以降の教育で教養のない表現とされてことが伺える。北米口語で使用されるということと合わせて考えれば、標準化を免れたアイルランド系の英語が影響している可能性が高い。近年英国でも復活する現象が確認されている「仮定法現在」と同じルート。
The Cambridge Australian English Style Guide のain'tに対する評価は、北米への移民が英国の標準化前に始まっていたことと対照的に、オーストラリアへの移民が標準化以降に本格化したことを反映しているのだろう。まあ、規範文法あるある、といったところ。
斎藤2017
「ロイ・ピーター・クラークは『ウェブスター英語辞第三版』が出たときの騒動についても書いている。じつは,この『第三版』が大手の辞書としては初めて“ain't を辞書に載せたと言われているのだ。
『ウェブスター英語辞典 第三版』が“ain't”という言葉を辞書に―批判的な意見なしにー史上初めて入れた 1961 年に,わたしはセイント・エイダン・スクールの8年生だった。言葉の保護者たちは怒り狂い,無知蒙昧を賞賛しているとしてこの辞書を非難し,「寛容すぎる」として辞書の編集員たちを糾弾した。しかし, 『ウェブスター』の編集チームは人びとがじっさいに言葉を使っている現状を記録しているにすぎなかったのだ。(Clark: p. l)
今では,“ain' t”を項目として入れていない英語の辞書はほとんどないだろうが,驚くべきことに,約半世紀前まで辞書の世界はこの言葉の存在をあえて無視してきたのだった。それまで,辞書に何より求められていたのは,正しい文法やすでに市民権を得ている言葉など,読者のお手本となる言葉や用例を示すことだったからだ。そこに辞書の権威があり,社会的役割があった。」
斎藤 英治『“Ain’t”に関する覚え書き』2017
ランゲンドン(1972)は、米国で英語を教えている高校教師を対象に付加疑問に関するアンケート調査をおこなっている。その結果、職務上、高校教師は規範意識が強く、それぞれの言語環境における付加節の選択に幅が認められないことも予測されたが、実際は多種多様な付加疑問小詞の種類が観察された。例えば、No one watches TV any more.の文の付加節では、do they? が26名、does he? が17名、その他、であった。規範文法では、no oneは単数扱いなので、ここはdoes he? が多く選択されると思われたが、実際はdo they? も多数観察されている。
【2025.8.6】1960年代のアメリカの言語教育は規範vs,実使用の時代。『ウェブスター英語辞典 第三版』の出版はその象徴的出来事。戦後の日本の英文法は当時のアメリカの影響を受け、アカデミズムは生成文法へ、予備校系の学参英文法は規範文法を流用した学習文法へと2分化。これが英語使用国との英文法に関するとらえ方の違いとして今日まで色濃く残っている。地方語やinformalな口語を排除した規範的な標準語の規則集である学参を読んだところで、現代英語の文法的仕組みが見えることは無いだろう。
規範文法が、no oneを単数扱いとしたのは、ラテン語の動詞の仕組みを手本にした人為的な規則。定形変化(時制と主語の種類に応じて動詞が変化)という古典語の概念を、屈折変化自体をほぼ失った現代英語にあてはめたもの。be動詞と、一般動詞の現在形にしか適用できない不完全なルールでしかない。1972年の調査でno oneを受ける付加節がdo thsy?/does they?と割れたのは古典語文法ではなく、18世紀以前の初期近代英語本来の文法感覚が現れたもの。1960年代ごろには公教育で規範文法の授業は廃止されたから、その影響もあって本来の言葉使いが容認されるようになったもの。
「アメリカ人は文法的誤りに寛容」というとらえかたを改め、「アメリカの地方語には標準化以前の英語が残る」とすべき。日本語にも地方語は残るが、口語で地方語を使うことを「文法誤り」とか「教養がない」とはいわない。そんな見方をするのは、言葉が伝わる本来の仕組みとしての英文法がわかっていない、「規範文法」あるいは受験英語しか知らないという無知からくる発想。外国語学習種が他国の地方語の真似をする必要は無いが、批判するのは筋違い。
斎藤 2017
「1927 年,アメリカて‘はパート・トーキーの映画『ジャズ・シンガーJが公開されて大ヒットし,アメリカ映画はサイレントからトーキーへと急速に移行することになった。その記念すべき映画には,今でもよく引用される名セリフがある。ユダヤ人のラビ(聖職者)の息子に生まれながら,ジャズ歌手になった青年が一曲歌い終わった後で,客席に向かつて言う言葉だ。「ちょっと待て,ちょっと待て。お楽しみはこれからだ」。
“Wait a minute, wait a minute. You ain't heard nothing yet." ――これは決して模範的な英文ではないというか,文法に厳しい人なら,眉をひそめたくなるセリフだろう。まずここでは二重否定が使われているので,文法的には間違いと見なされかねない。英語の教員なら赤を入れたい誘惑にかられ,“nothing" を“ anything" に変えたくなるだろう。また,“have not" の代わりに使われている“ain't" にも落ち着かなくなるだろう。それはいわゆる標準英語 (Standard English) とは見なされない表現なのだから。
しかし,このセリフはユダヤ教の聖なる世界と挟を分かつて,流行歌の俗なる世界に生きている主人公の心意気をうまく伝えているように思う。
映画『輝く鐙』(1934) には,二人の少女が出てくる。。一人は,当時6歳だったシャーリー・テンプルが演じるシャーリー。若い母親が女手一つで育てている女の子で,母親は成金一家と思われる家庭で家政婦として住み込みで働いている。もうひとりは,その金持ち一家の娘のジョーイ。シャーリーと同じ年頃だが,いかにも甘やかされて育てられたわがまま娘という感じで,性格も意地悪なら言葉遣いも荒れている女の子だ。この娘が“ain't" をやたらに口にするのだ(いかにも育ちが悪いという印象の話し方だ)。
Anita (Joy's mother): You must practice your piano. Then you won't have to practice again till after Santa Claus has been here.
(ピアノの練習をしなくてはいけません。今やれば,サンタさんが来て去るまでもうしなくていいから)
Joy: There ain't any Santa Claus!
(サンタクロースなんていねえよ!)
Anita: Don't say “ain't,”darling. Say “isn' t"
(「いねえ」ではなくいない」と言いなさい)
Joy: Ain't, ain't, ain't! (いねえ,いねえ,いねえ! )
わがままで憎まれっ子の少女が“ain't" を好んで使うのに対して,母親は“isnγ というもっとまっとうな言葉を使うように命じる。しかも,可愛らしいシャーリー・テンプルは“ain't をまったく使わない。当時,ハリウッドはすでに中流階級のための娯楽・芸術を提供していたが,どんな言葉遣いが中流にとっては好ましいのか,ハリウッドはそのお手本を無自覚に示していたとも言えるだろう。
斎藤 英治『“Ain’t”に関する覚え書き』2017
【2025.8.6】ハリウッドはその時代の価値観を反映しているから。ain'tを教養がない黒人が使う表現とする差別意識はいかがなものか。The Magic School Busで使われているain’tは決して嘲笑的ではないと感じる。
Ms. Frizzle:“It ain't gonna rain no more, no more, no more, it ain't gonna rain no more!”
Tim “Miss Frizzle,don’t say that.”
Carlos “What good is my rain catcher if it ain’t gonna rain no more. ”
――The Magic School Bus Kicks Up a Storm
(歌いながら登場)「もう雨は降らない、降らない、降らない、もう雨は降らないのね!」
「フリズル先生、そんなこと言わないで。」
「もう雨が降らないなら、僕の雨キャッチャーは何の役にも立たないじゃない。」
破天荒というか自由奔放というか、Ms. Frizzleらしいと思う。