主語の人称・数、時制に対応して動詞の形が定まることを定形変化と言います。定形変化は屈折言語の動詞を説明する概念です。ラテン語の標準的な動詞は6種類の主語(人称・数)と6つの時制(直説法)に対応して6×6=36の変化形があります。

  百聞は一見に如かず、定形変化がどういうものか見てみましょう。

 

 

 これに対して英語の一般動詞の変化形はlove(s)、lovedだけです。ラテン語と英語の動詞形変化の違いを比べてみて改めて考えてみます。英語の動詞を人称・時制という概念を使って文法説明することは、直説法だけで36もの変化形を持つ言語の枠組み(パラダイム)を、ほとんど語形変化しない言語の文法的仕組みに適用しようとすることを意味します。さて、そんなことが簡単にできるものでしょうか?

 

 現代英語の動詞が定形変化すると考えることには無理があります。時制が分かり難いのは教え方のせいでも学習者の理解力のせいでもありません。かつて英文法が英語使用国でどのように扱われたのかについて述べた2つの論文を翻訳して紹介します。

 

 1960年以前に、英国の学校で教えていた英文法は、ラテン語に基づいていた。ラテン語文法のために開発された文法範疇を英語に押し付けていた。それはほとんどの場合、まるで意味がなかった。なぜなら、英語は全く異なる言語だから。1920年代以来、このラテン語を規範とする方法は、酷い批判を浴び、1940年代と1950年代には、学校英文法に対する異論が、集中的に浴びせられた。」Willem Hollmann『Grammar still matters― but teachers are struggling to teach it』2021

 

「20世紀の前半には、英文法は、イングランドのほとんどの学校のカリキュラムから消えた。…英国の他の地域でも似たような歴史をたどり、‘文法教育の死’(death of grammar-teaching)は世界の英語を話すほとんどの国で、ほぼ同時期に起こった。」Richard Hudson他『The English Patient』2005

 

 英語使用国の公教育という巨大なマーケットを失った英文法は、1960年前後から、ESL、EFL向けへとターゲットをかえて学習文法へ転用されます。同時に、英語ネイティブを対象に標準化を目的とした公教育には無かったルールが、英語に疎い人を対象に新しく追加されます。

 

 上のNgramのデータから分かるように肯定文positive sentence、状態動詞stative verb、可算名詞countable nounといった用語が普及し始めるのは、‘文法教育の死’が起こった1960年頃です。 公教育から民間市場へシフトした英文法は、「肯定文ではsomeを使い疑問・否定文ではanyを使う」「状態動詞は進行形には使用しない」「可算名詞には冠詞aを付ける」など英語に疎い人を対象にした単純化ルールが考案され普及しはじめたわけです。

 このブログで詳細に取り上げて記事にしたように、英語話者はこのようなルールに基づいてことばを使うことはありません。someは疑問文、否定文に使うし、状態動詞は進行形で使うし、可算名詞とされる語は無冠詞で使います。“英文法には例外が多い”のは、学校文法が採用するルールの中には使用実態を無視して作られたものがあることがその主な原因です。

 

 ふつうに考えて、英語本来の文法的仕組みに根本的に反する例外などそんなにあるはずがないでしょう。おかしいのは英語という言語ではなく、本来の英文法に反して造られたルールの方です。ネイティブは人為的に加工された英文法ではなく、自然言語としての言葉が伝わしくみにもとづいて言葉を操ります。

 

 基本と思われている英文法ルールの中には、文法的仕組みが全く異なるラテン語文法を当てはめて創られたものや英語話者の文法感覚とは異なる学習者用に造られたものが混在しています。英語の動詞が定形変化するというルールは前者の典型の1つです。

 

 ラテン語の動詞の定形変化にもとづく「人称」、「時制」という概念の根本的意味を掘り下げます。そこから今世紀に入って英語使用国で盛んになり始めた英語本来の伝わる仕組みへの置き換えについて踏み込んでいきます。

 

 「人称」の基本は話し手と聞き手です。日本語では動詞形を変えて話し手と聞き手のどちらを指すか示すことができます。例えば、二人で話をしていて「先に行くよ」と言えば、行くのは話し手です。また、同じ状況で「先に行けよ」と言えば、行くのは聞き手だと分かります。このように日本語では状況と動詞語尾によって主語の人称が分かる場合があります。

 ラテン語の動詞が主語の人称を示すのはこれと似ています。動詞amo/amasでは、語尾の-oと-asの違いでそれぞれの主語が話し手/聞き手であると分かる仕組みになっています。動詞形が変化して「愛する」という内容と主語の種類を表示する機能を持っているのです。これが定形変化の1つ、人称に対応した動詞形変化です。

 

 では、英語の動詞loveの場合はどうでしょう?この形から主語が話し手か聞き手か判断できるでしょうか。IもYouもloveを使うのだから、動詞形を見て人称を判断するのは無理ですよね。動詞が主語の人称に対応して変化しない現代英語では、代わりに独立した代名詞など動詞とは別の語が主語の人称を表示します。

 ネイティブはこの英語本来の文法的仕組みに従い、独立した主語によって人称を判断します。例えば、He don‘t…やWe am…のように独立した主語と動詞の変化が一致しない場合、ネイティブは動詞形を無視して独立した代名詞で主語を判断します。仮に独立した主語と動詞形の両方を文法のスタンダードとして等価にすると、一致しないときにはダブルスタンダードとなり解読不能となります。つまり動詞の変化形を無視するのは文法的誤りではなく、英語本来の言葉が伝わる仕組み上必須の文法感覚なのです。

 

 実際に標準化する以前の英語では、地方によって動詞形は人称に関係なく使われていました。

 

「イギリスでの使用地域を EDD(English Dialect Dictionary)で概観すると,まだ文法が確立していなかった頃のイギリスでは地域によっては “are” が単複にも用いられていたことが記述されている。 例えば,“I are, he are” はイングランド南東部の州Essex, Kent, イングランド南部の Berkshire, 中部の Bedfordshire, 西部の Shropshire, Hereford で,ウエールズ南西端の Pembroke やイングランド中部の Warwick では単数,複数にも “are” が用いられていたようである。また “They is” はイングランド中東部のLincoln, イングランド南西部の Gloucester で ,“We am, They am ” はイングランド南東部のSurrey, 中部の Warwick, 中東部の Lincoln, 南西部の Gloucester で普通一般に用いられていたことが記されている。

 

Yo’ am (= You am = You are) a poor soul. ――EDD(Warwick, Hertford).

 

We’m’ (= We am = We are)and they’m’ are common. ――Ibid.

 

 三人称単数現在形に “does, doesn’t” の代わりに “do, don’t” が用いられることがある。この用法は OED によれば,“The form he do is now south west dialect.” であるとのことである。OED には,1547年からの引用例が多数挙げられている。 EDD もイングランド南東部の州 Surrey では三人称単数形に “do” を用いていたことが記されている。

 

 He don’t know you. ――Samuel Richardson, Pamela

 

 I doesn’t know a single letter in the ABC’s. ――DARE.

 

 DARE(Dictionary of American Regional English)によれば,三人称複数現在形に “has” を用いるのはアメリカの北東部のMassachusetts 州,北西部の Montana 州,中西部の Ohio 州であるようであるが,三人称単数現在形に “have” を用いるのは主としてアメリカの北東部諸州のようであり,多くはilliterate の人によく見られる speech のようであると同研究書は明言している。

 

 I has a grandson ――DARE.

 

 She just have a part-time job. ―――Ibid.  

 

  後藤弘樹『現代アメリカ口語英語の文法と言語思想史的歴史的背景』2016

 

 動詞が「主語の人称・数に対応して変化する」という現象は、もともと現代英語には無かったことが分かります。英語本来の文法的仕組みでは、独立した主語によって人称を表示するのですからそれは自然なのです。英語の動詞を主語の人称に対応させるという規則は標準化を進めるときにラテン語の定形変化を英語にあてはめて創作されたわけです。

 標準化が進んだ現代でも、地方によってはHe don‘t…のような表現を使うことがあります。それはStandard Englishではありませんが、本来の伝える仕組みとしては合理性があり、単なる文法的誤りではないのです。

 

 動詞の定形変化ではありませんが、現行英文法では代名詞は格変化するとされています。しかしyou、your、youは主格と目的格が兼用で、she、her、herでは所有格と目的格が兼用です。だからと言って、困るというネイティブはいません。

 それは、代名詞の格変化は本来の伝わる仕組みではないからです。主格とは動詞の主語になりということを意味し、目的格は動詞や前置詞の目的語になるということを意味します。現代英語は、語の配置によって格を表示する仕組みなので、格変化を情報としては必要ないのです。せいぜい所有格はあれば便利くらいのものです。

 

 現代英語はSVOという語順がほぼ固定化し、Sの位置にある語句が主格、Oの位置に配置すると目的格になります。前置詞という機能語に後置したときも目的格です。基本的にSVOという英文のどこに配置するかで格を表示するのが現代英語の伝わる仕組みです。仮に配置と格変化を同時に文法性を示す仕組みの等価のスタンダードにすると、配置と格変化が一致しないときにはダブルスタンダードになり、言語として機能しなくなります。

 ネイティブは、本来の伝える仕組みとは関係ない格変化を無視し、語の配置をもとに格を判断します。つまり、格変化を無視することは、ネイティブ感覚としては自然でむしろ必須の文法感覚なのです。

 コーパスデータを分析した論文で紹介されている紹介します。

 

(142) Him and I ain’t been fishing for these last six weeks.

 

(125) I did give she a’and and she did give I a’and and……

 

(124) So he said, I could do with he for a fortnight.

Bernd Kortmann他『Personal Pronouns in the Dialects of England』2011

 

 (142)では主語に目的格のHimを使い、(125)では動詞giveの目的語に主格のshe、Iを使い、(124)では前置詞withの目的語に主格のheを使っています。ネイティブは英語本来の言葉が伝わる仕組みのコードに従い、配置によって格を判断し主語か目的語かを読み解きます。かつて地方語ではこのようにしばしば格変化を無視しまていました。配置で語句の文法性を示す現代英語のコードに従い、格変化を無視することでダブルスタンダードになることを回避しているのです。

 ネイティブの多くは、標準語で規則とされてきたwhomを使うことを嫌い、目的語でもwhoを使います。それは文法にいい加減だからではなく、英語本来の伝わる仕組み上、格変化を無視することは健全に言を操るために必須の文法感覚だからです。

 

 SweetはModern Englishを「屈折を失い、発達した機能語と内容語を配列して文法性を示す言語」と定義しました。ネイティブが、屈折を無視して、語句の配列を言葉を読み解くコードのスタンダードとする文法感覚は、Modern Englishが成立した1500年ごろから今日まで500年以上変わっていません。それは現代英語の言葉が伝わる仕組みの根本原理なのです。

 

 動詞の定形変化や名詞の格変化といった単語の屈折(語形変化)は古英語の特徴でした。その後時代を経るに従って豊富だった語形が失われていきます。屈折は品詞など文法性を示す標識として機能します。屈折という文法標識を失って、無標になった英単語は文法性を示す手段がなくなったことを意味します。

 失った文法性を回復するために、英語は語順を固定化して、文中に置かれた位置で文法性を示す仕組みへと大転換したのです。また、内容語が文法化して機能語が発達します。英語の人称代名詞は、動詞が屈折を失ったかわりに、機能語として働くようになった語なのです。

 

 ラテン語には三人称の人称代名詞はありません。動詞の屈折で人称表示できるから代名詞は不要なのです。日本語にも三人称の代名詞はありませんでした。英語を翻訳する時に困るので「彼」という言葉を使うようにしたのです。つまり英語の人称代名詞はラテン語や日本語とは異なる文法的働きを持った言葉なのです。現行英文法では、人称代名詞の文法機能については全くと言っていいほど説明していません。

 二人の話者で話をしているときに、「先に食べるよ」といえば主語は無くても伝わるので人称代名詞は情報としては不要なのです。ところが英語では I という主語を立てます。それは動詞の屈折で人称表示できないからです。それは内容語としての働きで文法機能ではありません。

 

 一度話題に挙がった主語は、内容としては不要なので繰り返す必要はありません。だからラテン語や日本語では代名詞を主語に立てないのがふつうです。ところが英語では内容としては不要な主語たてます。それは現代英語が文中の位置で文法的働きを示す言語だからです。情報としては不要でも、SVOという語の配列を構成するため、Sの位置に仮置きする語が必要なのです。仮置きにする主語はitだけではなくすべての人称代名詞に共通の文法機能です。

 この人称代名詞の最も重要な文法機能を説明した学習用文法書は見たことがありません。つまり現代英語本来の言葉が伝わる仕組みという視点が、現行の学習文法から抜け落ちているのです。学習英文法は、ラテン語文法をもとにした規範文法を転用したものです。ラテン語では仮置きする主語は不要なので、現代英語に不可欠な人称代名詞の文法機能が全く視野に無いのでしょう。

 そのことは、現行の学習英文法がラテン語の論理にもとづいてつくられたもので、英語本来の言葉が伝わる文法的仕組みを説明したものではないことを象徴しています。定形変化という現象を現代英語の文法にあてはめることが妥当かを検証することは、真の英語の文法的な原理を探るうえで必要なことなのです。

 

 では、最後に動詞の定形変化「時制」について検討しましょう。時制とはラテン語の動詞が屈折によって出来事が起こった時間を表示する仕組みです。ラテン語の時制は冒頭で示したように直説法だけで6つあります。ところが屈折を失った現代英語はlove(s)、lovedだけです。しかも先ほど見てきたように三単現のSは本来の文法コードではなく無視しても困らないものなので、実際の動詞の変化形は2つだということです。

 屈折が消失した現代英語の動詞形の説明に、屈折が豊富な言語の枠組みを適用とするのですから、そう簡単にはいきません。では、実際に使用例から現代英語の動詞の屈折が起こる出来事を表示できるか考えてみましょう。

 

A: I was thinking of starting a book club. Interested?

B: Definitely! I love discussing books.

 

 この用例では考えているのはいつでしょう。この場合は文脈から判断して今だと分かります。このときwasという動詞の屈折は時間を表示するという機能はありません。

 

A: We could meet up for coffee tomorrow morning.

B: That sounds good. What time works for you?

 

 会ってコーヒーを飲むのはいつのことでしょうか。言うまでもなくtomorrow morningという時を示す語句によって表示しています。このときcould という語形変化には時間を示すという機能はありません。

 時間の表示は動詞の屈折ではなくyesterdayやtomorrowなど独立した語で示すというのは、主語の人称表示は動詞の屈折ではなく代名詞など独立した語で示すことと同じです。それが古英語期にあった単語の屈折を失い文法性を示せなくなった現代英語が成立して以来500年以上変わらない一貫した本来の伝わる仕組みです。

 

 言語の仕組み上、ネイティブは実際には述語動詞の形つまり時制によって述べる時間timeを判断してはいないのです。仮に動詞形によって時間timeを表示することを時を示す副詞や文脈と等価の文法コードとすれば、両方の表示法が違ったときダブルスタンダードになり解読不能になります。現代英語は時を示す副詞を時間timeとすることを優先コードとするので、動詞屈折形である時制tenseと述べる時間timeを切り離すことがは言語の仕組み上、健全詞を保つために必須なのです。

 

 英語に未来時制があるかという論争は、標準化が始まった18世紀から今日まで続いています。18世紀当時の時制はラテン語に合わせて6時制とされていました。それは下のように、実質的にはラテン語文法の直説法の定形変化を翻訳したものだったのです。

 

 法助動詞shallが未来時制とされたのは、元々翻訳上の都合です。後年になって、Websterはヘブライ語の聖書を翻訳する時に未来時制が無いと困るという根拠で未来時制を認めています。未来時制の英語への採用は、ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語などで書かれた聖書を翻訳することと深くかかわっています。

 

 18世紀当時、実際に使われている表現を観察して英語本来の仕組みに基づいた文法書を記述しようとしたPriestleyは激しく非難します。

 

 We have no more business with a future tense in our language than we have with the whole language system of Latin moods and tenses.

  ――Priestley1772

 いわゆるクジラ構文のお手本のような英文になっています。ラテン語のmoodとtenseのシステムは直説法だけで36の動詞の変化形があり、仮定法も入れるとさらに多くの変化形があります。それを英語にあてはめようとすることを非難したのです。shall、willは他の助動詞と同じで、この2つだけを未来時制として特別扱いすることに異議を唱えます。

 このPriestleyの主張は二百年以上英語時制モデルの主流にはなりませんでした。この文法書には「未来の文法化は、私が示した仕組みを称賛することになるだろう」と記しています。そして今世紀の包括的英文法書CGEL2002は、Priestleyの予言した通り、willは時制ではなく、mayなどと同じ法助動詞の1つに過ぎないと明言しました。

 

 英語と同じく孤立言語といわれる中国語には語形変化という現象がありません。だから屈折言語のような時制システムは存在しません。動詞の形態によって時間を表示するのは言語に不可欠な手段ではないのです。屈折を失った現代英語の動詞が人称表示できないように時間表示ができないのは別に不思議なことではありません。

 

 従来の英文法がラテン語文法の概念に依存し、現代英語本来の文法的仕組みに無頓着だったからです。20世紀に公教育でも廃止された理由を考えてみればわかることです。規範文法をESL、EFL向けに転用した人たちとじゃ異なり、文法教育の死を受け、まさに1960年頃に実際に使われる英語の表現を採取し始めた人たちがいました。カークらが採取した表現はやがてコーパスという言語データベースへと発展します。それが実証研究を基本とした今日の科学的英文法の基盤になっているのです。

 カークらのCGEL1985、ハドルストンらのCGEL2002といった記述文法書はこのような実際に使われる表現の分析をもとに書かれたものです。CGEL2002ではwillはmayなどと同じ法助動詞であり、現代英語は2時制とすべきとしています。それは二百数十年前のPriestleyの主張と一致しています。英語の時制tenseが2つということは、実際の3つの時間timeとは別の概念であることを意味します。

 

 英語の時制論では2時制かwillなどの未来表現を含めて3時制かという時制の数に焦点が当たっているように見えます。本質はそこではなくて時制tenseと時間timeを区別するかしないかが肝心なのです。

 ラテン語の準じた6時制モデルを改良して、学習者用に基本3時制×4形態=12時制モデルを世に広めたのは、インドで英語の普及に実績があったNesfieldです。これが20世紀後半の学習文法の主流モデルになります。18世紀の6時制モデルをもとにしたGreenwoodと基本3時制モデルを採用するNesfieldの時制のとらえ方には共通点があります。原書を見ると分かりますが、どちらの文法書にもtense or timeという記述が出てきます。これはtenseとtimeは同じものだから区別せずどちらで呼んでもいいということを意味しています。

 

 科学的文法の立場をとるBerryは、時制を時間を混同することをtense=time fallacy

(時制と時間を同一視する錯誤)と呼んでいます。未来時制を未来表現と呼び変えたところで、fallacyから抜けなければ意味はありません。「未来のことはwillなどの未来表現を用いるのが基本」という発想がfallacy(錯誤)なのです。「条件のif節中は未来のことでも…」というのは、その基本に従った発想です。

 時制と時間は全く別の概念だと厳密に区別することが科学的英文法の基本です。現代英語には未来時future timeを表示する特別な表示法はない、というのが基本的な考え方になります。だからCGEL2002では、次のように条件を示すif節中で現在時制を用いるか法助動詞will(伝統文法の単純未来)を用いるかは選択できると例示しているのです。

 

If the price comes down in a few months, I'll buy one.

 

If the price will come down in a few months, I’m not going to buy one.

 

     ――Huddleston他『Cambridge Grammar of the English Language』2002

 

 学校文法は、ラテン語の動詞の定形変化に準じた規範文法を転用したものなので、述語動詞は時間を表示することが基本と刷り込みます。そのため、いくら時制tenseと出来事が起きる時間timeは一致しない用例を見ても、それを例外と考える人が数多くいます。

 その結果、英語ネイティブが多用する今、これからのことに使うwouldやcouldがまるで使えていないというデータがあります。またwillは未来に使う特別な表現とすることで、実際に使われる用例を誤りだと感じてしまうという弊害もあります。例えば、次のような用例です。

 

 As it was cloudy, few people will have seen last night’s lunar eclipse.

 

 His maths may have improved by the time the exam comes round,

 

     Martin Hewings『Advanced Grammar In Use 3rd Ed.』2014

 

 この用例の出典はそこに示したようにGIUというよく知られた学習用文法テキストです。上の用例の述語動詞はwill+have+PPですが、last night’s lunar eclipse(昨夜の月食)が時間timeを示しています。下の用例の述語動詞の型はmay+have+PPですが、述べる時間timeは未来時です。現代英語の述語は述べる時間timeを表示する機能はなく、will/would+完了も、may/might+完了も過去・現在・未来のことを述べる時に使います。しかし、旧来の学参文法書ではwill+完了を未来完了とよび未来のことを述べる用例だけを載せ、may+完了を過去の推量とだけ説明し、過去のことに述べる用例しか載せていませんでした。

 要するにwillは未来を表す特別な表現という説明に都合がいい用例を優先して載せていたのです。これを見た学習者が実際に使われる用例を知らないということが実際によくあります。

 

 時制モデルについては3時制VS2時制という構図で論争があります。しかし、時制はラテン語の動詞の定形変化に基づくもので、それを全く仕組みの異なる現代英語へあてはめようとすることの是非を論じることも活発になってきています。その主流は、英語の動詞形は時間を表示するのではなく、事柄に対する距離感を示すという考え方です。

 現在形と呼ばれる動詞形は屈折を失った無標性に本質があり、過去形と呼ばれてきた-ed形の本質はremote(遠在)ととらえます。過去形は-edという標識により「いま・ここ」から距離を取った表現に限定されます。過去、現在、未来を問わず今の現実から距離を取り客観的な描写をするということです。

 

 If it were my birthday today, I'd be celerbrating.

 

 If it were my birthday tomorrow, I'd be celerbrating.

 

 この2文は、現代英語の仕組みによって時を示す副詞todayとtomorrowが出来事時timeを示します。wereは現実とは離れていることを客観的に認識していることを示します。非現実だから規則によって過去時制にするのではありません。

 

 例えば、I wish I were a bird. Wereという距離を取った動詞形によって現実には鳥ではないことを認識していることを示しているので、安心して非現実的なことを述べることができます。これを聞いた人も、話し手は客観的な認識ができていると分かります。

 これに対して、I am a bird.という表現はどうでしょうか?この表現を子どもが楽しそうに演じて言っているのならいいでしょう。しかし大人が真剣に言っていたらどうでしょうか?このamは客観的なwereとは異なり現実感のある主観的な想いを示します。だから、この人、大丈夫かと心配になります。

 

 非現実的なことを言うのに現在形と過去形のどちらを選ぶかは話し手の選択の問題です。非現実的なことを言うときに、聞き手にどう思われるかを想像してみましょう。

 言葉は想いを表すものです。その時の表現の選択は、話し手が聞き手に伝える効果を考えて使うものでしょう。英語ネイティブは英語本来の文法的仕組みに従って言葉を選択するはずです。それが生きて使われる言葉なのですから。