クジラ構文と呼ばれる日本では有名な文があります。[no more … than~]の型をした比較表現の1つですが、多くの研究論文があります。伝統的な定訳を基本として解釈は1つで良いとする立場と複数の解釈があり得るとする立場に分かれています。

今回は、この構造を持つ英文についての論文から、用例とそれぞれの主張を見ていきます。

 

「2008年発行の高校学習参考書にいわゆる「鯨の構文」の例が挙がっている。

 

    A whale is no more a fish than a horse is.

 

 これは、宮内(1966)によると、1906年の入学試験に出題されたというくらい古いもので、齋藤秀三郎『熟語本位 英和中辞典』(1915)にも掲載されている。日本ではno more ...thanの構文を説明する際に、この鯨を用いたこの文がよく使われるが、外国では全く知られていない。

  我が国では、この文は「馬が魚でないのと同じように鯨は魚ではない」「鯨が魚でないのは馬が魚でないのと同じだ」という意味だと教えられている。しかし、この日本語は教室でしか通用しない特殊な日本語であり、日常、使うような自然な日本語ではない。

 この文の意味を考える場合には、この文は no を含んでいるという点に注目する必要がある。一般に否定文は「話の切り出し」には使えず、ある主張があって、それに反駁するという形で現れるという性質をもつ。例えば、日本語で、「雨、降ってるよ」と言って話を切り出すことはできるが、突然、「雨、降ってないよ」とは言えない。もしそう発言すれば、相手に「雨、降ってるかって、聞きましたか」とけげんな顔をされるのが落ちだろう。

 この発言の前にある人が、「鯨は魚だよね」と言ったことを受けて別の人が否定を強めるため、than以下に常識的に自明な事柄(馬は魚ではない)を持ち出して、「鯨が魚と言うのなら馬だってりっぱな魚だよ」(宮内(1966)の訳)と反駁しているという状況が考えられる。」

  柏野 健次『教えるための英文法─比較表現編─』2009

 

 柏野2009では、クジラ構文は100年以上前の説明法がいまだに続いていると言っています。以前に取り上げた「not … bothは部分否定」も同じ斎藤秀三郎が考案したものとされています。漢文を読み下す訓読の要領で英文を機械的に翻訳するための技法でしょう。情報が乏しい先達の考案した時代は重宝したのだと思います。しかし、現代の情報環境ならその妥当性を検証するが可能です。

 この論文の指摘で重要な点の1つは、言葉の意味は単文だけで決まるとは限らず、生きた文脈の中で解釈しようとしていることです。柏野2009では、単文だけの解釈ではなく、文脈の中においた用例を紹介しています。いくつかを引用します。

 

1)“Your mother!”Martine hissed. “She's no more your mother than I’m

  the Virgin Mary - ”―― U. Hall, Secret

 「(彼女が)あなたのお母さんですって?」とマーチーンは少し怒ったような声で言

 った。「彼女があなたのお母さんと言うのならさしずめ私は聖母マリアというとこ

 ろね」

 

2) Angela: You're just a kid.

   Jane:  I'm no more a kid than you are!

――American Beauty (映画シナリオ)

 アンジェラ:あなたってまだ子どもね。

 ジェイン:私が子どもって言うのなら、あなただってりっぱな子どもじゃないの。

 

 このように文脈の中でとらえると、[no more A than B]は事象Aに反駁して、否定を強めるために事象Bの例を持ち出すというとらえ方は説得力があるように思います。用例2を漢文を読み下すのと同じような発想の伝統的解釈法に従って、「あなたが子どもではないのと同様にわたしも子どもではない」とするより臨場感があります。

 

 クジラ構文について、柏野の見方に対して従来の教え方で十分とする論文もあります。

「柏野(2012)は「意味論的には、主節と than 節の程度が同じであることを表しているということを踏まえ、語用論的に文脈をしっかり理解したうえで、否定的に訳すのか肯定的に訳すのかが決定される」と述べる。

 この“no more (...) than”構文は、大学生・高校生に対して、すべての意味を教えることは逆に無用の混乱を招くだけである。「主節で表されている否定の程度と than 節で表されている否定の程度が同じ」、もっと簡単に言えば、「否定が同じ」と単純化して機械的に教える方が大学生・高校生の理解を助けることになると同時により実践的であると考える」西村 豊2019

 

 西村2019では、柏野が「教室でしか通用しない特殊な日本語」と批判した「鯨が魚でないのは馬が魚でないのと同じだ」という訳で十分だと主張します。「肯定的に訳す」という必要はなく、常に「否定的に訳す」べきという考えです。その根拠の1つとして、次のような例を挙げています。

 

オバマ前アメリカ大統領が 2013年 1月 21日に 2期目の大統領就任演説を行った際の表現の中に、下記の表現があった。

(1) But we have always understood that when times change, so must we; that fidelity to our founding principles requires new responses to new challenges; that preserving our individual freedoms ultimately requires collective action. For the American people can no more meet the demands of today’s world by acting alone than American soldiers could have met the forces of fascism or communism with muskets and militias. - Text of Obama’s Inaugural Address(読売新聞 2013.1.23)

 

この日本語訳について読売新聞では

(2) 「だが我々は常に、時代が変わればわれわれもそうしなければいけないことを理解してきた。建国の精神に忠実であるには、新たな試練に新たな対応を取る必要がある。個人の自由を守るには、結束して行動することが最後には必要となる。かつての米兵は、小銃を携え、民兵とともにファシズムや共産主義に立ち向かうことが出来た。だが、米国民はもはや単独に行動していては、今日の世界の要求に応えることは出来ない。」-オバマ米大統領就任演説(読売新聞2013.1.23)

となっていた。

 

しかし、日本経済新聞の日本語訳は

(3) 「しかし、時代の変化とともに我々も変わらなければならないということも常に理解してきた。建国の精神への忠誠は、新たな挑戦への新たな対応を求めている。個人の自由を守るためには、最終的に集団行動が必要となる。米国民が今日の世界の要求に単独の力で応えられないのは、米兵がマスケット銃(旧式歩兵銃)や民兵組織でファシズムや共産主義の勢力と戦えなかったことと同じだ。」 -「我々の旅は終わらない」オバマ大統領就任演説(日本経済新聞ホームペとなっていた。

 

(2)と(3)の下線部の訳は全く正反対の意味であり、どちらかが“no more (...) than”構文を正確に日本語訳していないということになる。

  西村 豊『“no more ~ than … ”構文についての一考察』2019

 

 ここで対比している和訳では、読売新聞の方は肯定的に訳し、日本経済新聞の方は否定的に訳しています。西村は文脈には関係なく肯定的に訳す必要性は無く、機械的に否定的に訳せばいいという立場です。だから、否定的な訳が正解の用例を見つけて選んだのでしょう。自説に都合のいい例だけを選んで根拠とするというのは、論文を書くときに初心者がまず初めに気を付けなければいけないことです。

 

 西村2019では、このあとno more ~ thanを使った用例をいくつか取り上げて、従来の訳で足りるとします。この(2)と(3)では従来訳の(3)の方が正しいと述べます。

 しかし、普通に考えて、この2つの訳の正誤には、全く異なる他の用例の訳し方は関係ありません。読売新聞(2)と日本経済新聞(3)の訳は単純な事実誤認の問題です。米国がファシズムや共産主義勢と戦ったのは第二次大戦とその後の冷戦で、旧式歩兵銃(マスケットは18世紀ごろまでに使用されていた)と民兵組織が戦ったわけではないのは一般の米国民には周知の事実でしょう。構文の解釈以前に、読売新聞は歴史認識ができていなかったということです。

 構文の構造の問題ではなく、歴史的事実に反するので否定に訳すのが適するように思えるだけです。ちなみに、この英文を「米国が単独で自由のために戦うという世界の期待に応えるのは、民兵組織が旧式銃を手にファシズムや共産主義勢力と戦うようなものだ」と形式的に主節とthan以下をどちらも肯定文で翻訳すれば、矛盾なく文意は十分伝わるでしょう。

 

 この no more …than ~は、主節で述べている事象を否定することを主張するために、than以下の事象を例を持ち出すレトリックとして用いています。オバマ演説は「米国が単独では戦えない」ということを主張するために、米国民なら誰でもわかるように「旧式銃と民兵組織ではファシズムやソ連と戦えない」と例えたのです。大統領の演説ですから十分準備をした上で大衆に訴える効果的な例を選んでいます。

 

 次のような用例もこの構文を効果的に使っています。

 

3) It was also, one must remember, a situation of continuing revolution which had no more ended in August 1945 than the French revolution hand in July 1789.――BNC

 深谷 輝彦『クジラの公式とコーパスの相性』2004

「また、忘れてはならないのは、革命が継続している状況は1945年8月には終了しなかった、それはフランス革命が1789年7月に終了しなかったのと同じことだ」(しんじ訳)

 

 第二次世界大戦後の状況について、フランス革命後の混乱になぞらえています。史実として、1789年以降のフランスは、立憲君主制(1789-1792)、共和制(1792-1799)、ナポレオン第一帝政(1799-1814)、復古王政(1814-1830)などその後も王政、共和制、帝政と政権が目まぐるしく変わっています。

 欧州の歴史を知っている英語話者にとってフランス革命後の政治的混乱はよく知られた事実です。この用例では、読み手にこの混乱期を想起させて、第二次大戦後の状況も同じようなものだということを訴えています。

 

 オバマ大統領の演説も、米国が単独で世界の警察という役割を担うのは不可能であることを伝えるための同じ手法です。広く大衆に訴えるために旧式の銃や組織では現代のより大きな相手と戦うことを想起させて、不可能性に説得力を持たせているのです。読売新聞の誤訳は構文の構造とは関係ない歴認識の誤りです。

 西村が「否定的に」訳す文を持ち出すだけでは、柏野の反証にはなりません。ここには挙げていませんが、柏野の論文にある用例は「肯定的」に訳すと誤訳になると言い切れいものが多いので、のちほど他の論文の分かりやすい用例を紹介します。

 その前に、西村2019が、学習文法はレトリックに使うクジラ構文だけ扱い、その対訳は従来の定訳だけで充分である主張する理由を見ておきましょう。

 

「あくまで私の個人的な高校教師時代の経験に基づくものであるが、大学入試問題の英語長文問題における“no more (...) than”構文の日本語訳において(従来の定訳以外の)日本語訳をしなければならない問題に遭遇したことは皆無であると言える。

 また、私自身一英語学習者としては恥かしい話であるが、(従来の定訳以外の)日本語訳をしなければならない英文に出会った記憶もない。この構文について、多くの学習参考書が、従来の意味のみを記述し、単純化しているのは妥当な判断であると考える。

 この“no more (...) than”構文は、大学生・高校生に対して、すべての意味を教えることは逆に無用の混乱を招くだけである。「主節で表されている否定の程度と than 節で表されている否定の程度が同じ」、もっと簡単に言えば、「否定が同じ」と単純化して機械的に教える方が大学生・高校生の理解を助けることになると同時により実践的であると考える」西村2019

 

 要するに入試に出る問題は従来の定訳をさせる英文だけであること、自らもその他の訳が必要な英文に出会った経験がが無いことが理由です。学生なら出会った経験がないから、そうなるのは仕方ないと言えるかもしれません。

 しかし、この論文は2019年のもので、元教師が他の論文を反証しようとするものです。コーパスデータを使って事実を調べるとか、先行研究の論文を読むとかいくらでも情報を取るはできたはずです。私が調べたWeb上で公開されている論文の中には、コーパスデータから百例以上のこの型の用例を集めて分析したものもあります。

 

 「否定が同じ」と単純化して機械的に教えることを否定する立場の論文は、多くの用例を集めて実態を分析しています。まず、そのうちに1つを紹介します。

 

(クジラ構文について)「これはイディオムだから意味の仕組みを考えても仕方ない」と諦めるという発想には問題があります。したがって本稿ではそのような立場はとりません。

 …X is no more (...) than Y の構文は意昧論的には、「主節で表されている程度と than 節で表されている程度が同じ」であることを言っているだけであって、… (柏野 (2012)) これはクジラ構文の基本的な意味を的確に捉えていると思われます。

 

4) President Obama says marijuana use is no more dangerous than alcohol, though he regards it as a bad habit he hopes his children will avoid.

 

 オバマ大統領は、マリファナの使用はアルコールよりも危険性がないと述べていますが、それでも子供たちが避けることを願う悪い習慣だと考えています。

 この下線部をいわゆるクジラの解釈の例と考えることはできません。元の Web 記事を読めば明らかですが、オバマ大統領(当時)はアルコール摂取を危険でないと言っているわけではありませんし、マリファナ摂取を推奨しているわけでもありません。ただ、マリファナ摂取が非常に危険だと思われているのに対して、「実はそれほどでもない」と言っているわけです。

 

 a. × マリファナの使用が危険でないのはアルコールが危険でないのと同じだ。

 b. ○ マリファナの使用が危険だとはいってもそれはせいぜいアルコールが危険なのと同じ程度だ。

 

5) `Miranda, dear boy, is beautiful. Whether she can sing a note or nine don't matter three damns, she is beautiful.’ Teddy frowned. `Now you're going too far, Dick. I know she's tall and all that, and her figure's quite good, but she's no more beautiful than you or I.’

 ――Google Books

「ミランダってかわいいよなあ。どのくらい歌が歌えるかなんてどうでもいい。とにかくあの子はかわいい」テディーは眉をひそめて言った。「ちょっとそれは言い過ぎだろ。たしかにミランダは背は高いしスタイルもまあいいしだけど、でも外見がいいって言ったってお前とか俺とかと変わらないレベルだよ」

 

 作中でミランダはモデルの仕事をするくらいの女性なので、いわゆるクジラの解釈の例と考えることは適切ではないでしょう。テディーにとってミランダは妹のような存在なので、「美しい女性」という見方で見ることが困難ということのようです。ということで、上のオバマ大統領のマリファナについての発言と同様の解釈が妥当でしょう。

 

a. × でもミランダは別に外見がいいわけではないよ。それはお前とか俺とかが外見が

   よくないのと同じだ。

b. ○ でもミランダが外見がいいっていっても、お前とか俺とかと同じぐらいのものだ

   よ。

           本多啓『クジラの公式の謎を解く』2017

 

 同じ柏野(2012)の見解について、西村2019の従来の単純化した機械的な「否定」の訳で十分と反対する主張とは逆に、本多2017は機械的な「否定」の訳をすると問題のある用例を挙げています。定訳以外の訳が必要な英文に出会った経験が無いとする西村に対して、本多はその出会ったことが無い英文が存在することを示しています。

 

 柏野と同じく機械的に「否定的に」訳すということに問題があると主張する論文から一部を引用します。

 

6) Nuclear weapons are no more a threat to the world than an epidemic

  of bacteria spreading.

核兵器は誰にとっても脅威であることは自明であることから、この用例を否定的に解釈するには無理がある。

 

7) Does she --- have a husband? She is very beautiful.” Female intuition

  was a remarkable thing. “Yes. She does.

 And she is no more beautiful than you, Anne” I meant it sincerely but  she waved away the compliment.

「あの人…旦那さんいるのかしら? とってもきれいな人よね」 女性の直観というのはすごいものだ。「ああ、いるよ。で、確かにあの人はきれいだけど、アン、君だって負けてないよ」…。)それは本気で言ったのですが、彼女はその賛辞を振り払いました」

廣田篤『No more A than B構文の意味と機能—「クジラ構文」とはいかなる構文か—』 

 

 この用例6をChatGPTに翻訳させると次のようになりました。

 

ChatGPT「核兵器は、細菌の流行と同じく、世界にとって脅威ではありません。」

 

 まさに文字通りの機械的な訳で、人が訳せばおかしいと感じるはずです。もちろん価値観は人によるので、核兵器も最近の流行も脅威ではないと主張する人がいる可能性は皆無ではありません。特に他の文脈がなければ、解釈は常識の問題なのです。

 

 また用例7を機械的に訳すと「彼女が美しくないのは君が美しくないのと同じだ、アン」となります。これもそういう人がいないとは言い切れませんが、普通に考えればいくらなんでもこれは酷いでしょう。

 

 

 西村2019が主張する「「否定が同じ」と単純化して機械的に教える方が大学生・高校生の理解を助けることになると同時により実践的」でしょうか?「すべての意味を教えても混乱する」よりも根本的なとらえ方も教えない方が、このような用例にあたったときによほど混乱するのではないかと思います。

 入試対策として頻出の英文をしっかり教えるのは教師の責務であるという立場は十分理解できます。私自身も入試の過去問は数千問あつめて分析し、傾向と対策を受験生に教えてきました。

 しかし、その構文の持つ意味をしっかり解説し、他の訳し方があることを教えて高校生が混乱すると思ったことは一度もありません。もっともそれ以前に、他の訳し方をすると不適切になる用例にあったことがばければ教えようもないでしょうが。言葉は人の思いを表すものです。機械的に訳すという発想がそもそも根本的におかいいと感じない人が何を教えたいのか分かりかねます。

 

 実際のところ入試でも、「肯定的に」訳す過去問はあります。

 

 As we grow older we discover that what seemed at the time an absorbing interest was in reality an appetite or passion which had swept over us and passed on, until we come to see that our life has no more continuity than a pool in the rocks filled by the tide with foam and then emptied.

[京都大学1960年入試問題(1)「全文和訳問題」]

(全訳)「我々は、年をとるにつれて、その当時は夢中になるくらい興味深く思われたことも、実際には我々を襲っては消え去った一時の欲求や情熱であることがわかり、ついには、人の一生も、泡立つ潮にみたされてはやがて空になる岩礁の水たまりと同じく、……ことを知るようになる」

 

 点線部のno more ~ than…の解釈は、当時の「入試問題正解」のK社とO社の解答は異なっていた。片方の解釈は、「岩礁の水たまりが連続性がないように、人の一生も連続性が無い」とあり、もう一方は、「人の一生の連続性は、(寄せては返すつかの間の)岩礁の水たまりの程度の連続性しかない」つまりour life as ephemeral as ~と考え、「人の一生は、岩礁の水たまり同様にはかないものである」という解釈があった。

 前者は、than以下の内容を否定、後者は肯定の意味にとっていた。確かに専門家でも意見が異なるほど、この部分の意味は南海である。

 この京都大学の全訳問題は、than以下が公邸になる例に初めて出会った入試問題だった。a pool以下は、岩のくぼみの水たまりの連続性は、あっという間の短い時間であるにしろ連続性は持っているのであるから否定とはいえない。

京都大学の全訳問題が、出際されている以上、私たち高校教師にとって、than以下が否定にならない例があることを無視することはできない。

 旭 美輝夫『no more ~ than…の構文についての考察―than以下の内容が否定にならない例について―』

 

 レトリックとしての効果を狙ったのなら、多くの読者に共感を得られる例えをするのがいい文章です。オバマ大統領の演説のように訴えかけたい対象に効果的に使うのが表現者の腕の見せ所です。

 入試問題は差をつけるためにあえて分かり難い文を選ぶ傾向があります。専門家でも意見が分かれるような文章ばいい文章といえるでしょうか。少なくとも多くの読者に伝わるものではないでしょう。普通に言うと稚拙な文ともいえるわけです。

 巧拙は別として、この型の構文の意味は文脈依存なのです。この論文は元高校教師のものです。やはり文法として教えるかどうかの基準は、入試に出るかどうかになっています。受験指導に当たる教師や講師は職業倫理上仕方ない面があります。現状では、英語教育のボトルネックは入試にあることは間違いありません。入試に出ない=学参にも記述がないことになりがちなので、このブログでもこれまでいくつもの事例を取り上げてきたように、和製文法書に用法がのって無いからといって誤りではないことは知っておいた方がいいでしょう。

 

 クジラ構文については、レトリカルな構文として「否定的」にとらえられる文と、構文というよりも元々の比較として程度が同等であることを述べ「肯定的」にとらえる方が適するものまで幅があることをおさえましょう。同じ構造の文を様々に使い回すのは言語として当たり前のことです。構文として他の用法には使わないと言い切るには多くの生きた用例にあたることが必須です。

 根本的なとらえ方については、このブログでいつも行っているように、他の英語の表現と合わせて一貫した体系の中に位置づけて説明したいと考えています。未だ数多くの用例を求めて取材中なので、近く改めて記事にする予定です。

 今回は柏野論文の結論にある記述を紹介して終わりにしたいと思います。

 

「教えられたように教えるな」とよく言われるが、日本の英語教育界にあっては、かたくなに新しい知識の導入を拒み、従来の教え方を断固として変えようとしない教師が多いと聞く。英語研究も医学の研究と同じように、分からなかったことが次第に分かってくるという性質を帯びているのであるから、教える側の人間の研鑽が切に望まれる。生徒が「なるほど」と目を見開くような授業をしたいものである。」

  柏野 健次『教えるための英文法─比較表現編─』2009

 

             了