時制の一致という現象は、どうにも捉えにくいものです。分かり難いものは,分かった気になるより、時には、その分かり難さを知ることにも意味がある気がします。詳細に分け入るよりも視野を広くして見ることも必要かもしれません。今回はできるだけ視野を広げて、「時制の一致」という現象の分かり難さの原因を探ります。

 

英語は、時制の一致現象を示す言語の一つで、主節と従属節両方に過去形が使用された次のような文には、二つの「解釈」が存在する。

(1) John said that Mary was pregnant.

一つは、John が自分の発話時における Mary の状態に言及しているとする解釈で、直接話法に置き換えるとすると(1a) に対応する。もう一つは、John が自分の発話時より以前の Mary の状態に言及しているとする解釈で、(1b) に対応する。前者は、同時解釈(simultaneous reading)、後者は過去解釈(backward-shifted reading)と呼ばれる。

(1) a. John said, “Mary is pregnant.”

b. John said, “Mary was pregnant.”

 英語と異なり、日本語は時制の一致現象を示さない。英語の(1)と同じように、主節と従属節両方に過去時制を使用した場合に、曖昧性は生まれず、過去解釈のみが可能である。同時解釈のためには、埋込節に現在時制を使用しなければならない。

         楠本 紀代美『時制の一致現象への語用論的アプローチ』2016

 

 (1a)の形式の文(直接話法)を(1)の形式の文(間接話法)に置き換えるとき、主節saidの時制に合わせて“ ”内のisをwasにするのが時制の一致という現象です。このとき、Johnの発話時にはMaryは妊娠している状態だったという意味になります。

 これに対して(1b)はsaidとwasはどちらも過去時制なので、(1)の形式に置き換えるときに埋め込み節の動詞の時制を変えてはいません。この場合、Johnの発話時にはMaryが妊娠していたのは過去のことだったという意味になります。

 

 さらに、(1a)を直接話法に置き換えるとき、主節の動詞に合わせずに、下の(1c)のような文にすることも可能です。

 

   (1c) John said that Mary is pregnant.

 

 この場合は、(1)のような2通りの解釈は生じないので、ジョンの発話時にMaryは妊娠しているということを意味します。

 

 仮に、英語に「時制の一致」という現象が無ければ、次のような1対1の関係ができます。

(1c) John said that Mary is pregnant. ⇔ (1a) John said, “Mary is pregnant.”

 

(1) John said that Mary was pregnant. ⇔ (1b) John said, “Mary was pregnant.”

 

 同じような内容を日本語では、次のように表現します。

 

a「ジョンは、メアリーが妊娠していると言った

 

b「ジョンは、メアリーが妊娠していたと言った

 

 日本文aはジョンの発話時点でメアリーは妊娠していたことを表し、日本文bはジョンの発話時点で、メアリーが妊娠していたのは過去のことであることを意味します。日本語には時制の一致という現象は無いので、曖昧性が生まれないのです。

 一方、英語には時制の一致という現象があるために、従属節の動詞が過去形という形態であってもそれだけでは意味が取れないのです。

 

 専門家の間では様々な説明の仕方がありますが、まずは「時制の一致」という現象は規則ではなく発話者の任意だということを押えておきましょう。別の論文から一部省略して、紹介します。

 

「いわゆる「時制の一致」という現象を、機械的に適用される「英文法の規則」であると受け取っている人も少なくない。そのような人にとっては、たとえば次のような文は非文法的にみえるにちがいない。

 

  (2) John said that Harry was leaving tomorrow.

 

 過去時制(was)と未来を表す表現(tomorrow)が共起するような文は、通例、容認不可能であるとされている。しかし、この文には何の問題もないのである。

 従属節の過去時制はJohnの発話時における予定を表しており、その後の予定がどうなったかはノーコメントである。ただし過去時制が用いられているということから、その予定は現在とは切り離された過去のものである(つまり実現しなかった)という方向に傾いた含意をもつ。そしてその予定の日がこの文の発話時点からみて明日であるはずであったというのである。すると、この従属節は、意味的に、主節の支配を受けていないことになる。

 ……(2)のような文の存在は、「時制の一致」が英文法の規則であるのではないということを、明確に示している。

 時制の問題を扱うにあたって、なによりも留意すべきは、「時制」(tense)と「時」(time)の区別である。」

              久保田 正人『英語の時制をめぐって』1996

 

 この(2)を直接話法に置き換えて考えてみます。

 

   (2)a. John said,“Harry is leaving tomorrow.”

 

 この文ではjohnが発話した「時間」timeと、“ ”内の文が述べることが起きた時間(出来事時)timeは別です。このとき、tomorrowの示す出来事時はJohnが発話した日の翌日を意味します。

  Jhonが発話したのが今日であればHarryが出発するのは、明日tomorrowということになります。その場合もとの(2)の文の埋め込み節動詞は過去時制wasですが、出来事時は未来ということになります。

  また、Jhonが発話したのが2日前なら、tomorrowはその翌日つまり昨日を意味していることになります。もとの(2)の文の埋め込み節の出来事時は過去ということになります。

 

 この現象を説明するのに「絶対時間」と「相対時間」を区別するというアイデアがあります。しかし、それによって一応の説明がついたところで、学習文法に取り入れるには一般的には理解しにくく実用的だとは思えません。

  現状、時制にまつわる文法事項は、時制、助動詞、仮定法、時制の一致と細切れにして説明され、決して体系的でもなければ、分かりやすくもないでしょう。文の構造に焦点を当てて詳細に分け入っていくと視野を狭くして、ますます体系的な理解から離れることにつながります。

 

 「時制の一致」という現象自体が、規則でもなく、必ず起こるものでもないのです。むしろ文意を曖昧にする場合があることをまず理解しましょう。

 ここでは、現象そのもの詳細を見るより、視野を広げて根本的な見方を変える方向を考えていきます。

 

「予定は現在とは切り離された過去のものである(つまり実現しなかった)という方向に傾いた含意をもつ」と言っても、Johnが発話した時間が分からなければ、文の意味は確定しません。文の意味は、それ自体だけで決まるわけではなく、言語に表せない文脈に依存します。

 実際に使われる言語は、たいていの場合いつ、どこで、だれが、だれと、どんな状況で使うかは言葉を交わす当事者の間では分かっているものです。実際に発話された時間は、動詞形という形態だけで決まるわけではありません。

 先に挙げた(2)John said that Harry was leaving tomorrow.のように、wasという過去時制が、文脈によっては未来のこと述べることがあるのです。このことは、現代英語は、「過去時制は過去のことを表す」ということを基本と考えていては理解できないということを示しています。

 

「過去時制なのに過去のことを表さない現象」は現代英語にはいくらも存在しています。法助動詞の「過去形」は過去のことを述べるよりもむしろ現在や未来のことを述べる方が断然に多いことは、たいていの学習者は気づいているでしょう。和式の文法用語「仮定法過去」は現在の反現実や確実性の低い未来のことなどを述べます。そして「時制の一致」という現象でも(2)のような過去時制Past tenseと述べる時間timeとの不一致が起こります。

 

『実践ロイヤル英文法』には「本書の構成」として「省の配列は、取りつきやすいように従来の英文法書の項目と同じようにしてある」と書かれています。和製の学参の基本的な章立てがよく似ていることを示しています。なぜでしょうか?

 神羅万象である「こと」をある基準で割ることを「ことわり」と言い、漢字では「理」と書きます。本の章立ては、対象とする現象が起こる「こと」を根本的な「原理」を基準として、割ることで決めます。章立てを見ると、その見方の原理が分かるのです。

 

 和式英文法の基本的な章立ては、「時制」「法助動詞」「仮定法」「時制の一致」など、別項目ごとに分かれています。「時制」という項目の実態は、時制tenseと述べる時間timeが一致する直説法を基本としています。つまり「過去時制は過去のことを述べる」ということを「基本」としています。これは文科省の文法観に合わせているので学参はどれも似通っているわけです。

 科学的文法では、時制tenseと時間timeは別の概念として区別することが基本になります。学校文法とは基本的な原理が異なります。「時制」「法助動詞」「仮定法」「時制の一致」という項目を別々に分ける必要は無く、1つの一貫した原理をもとにこれらを見ていくことになります。そのような見方を示す1つの論文を紹介します。

 

「(3)は,「Maxがたとえば東京に居る」という場合には反事実文として理解されるであろうし,「はっきりはしていないが恐らくNew Yorkにはいないだろう」と思われる場合には,やや反事実的なニュアンスを持った文として,また,「彼がどこにいるのか見当もつかない」という場合には,単に直接法の可能性を表す文として受け止められるであろう。(4)も同様である。

 (3) Max could be in New York

 (4) If the Redfords were home, the lights would be on.

ここで使われている形式は,一般に仮定法(HYPOTHETICAL)に関わるものとして扱われることが多く,また,接続法(SUBJUNCTIVE)表現の一部として捉えることがある。だが,単なる推論や過去の事実に関する推測を表現するという意味では,直説法の世界にも股がって関わっているわけである。そのおかげで,一般的な文法書では,助動詞や条件文,時制といった,個別の項目によって様々に取り扱われている。

そこで本稿では,一つの言語現象と見なして,その形式を中心に据え,それに対応する概念を素直に捉えてみようというわけである。この概念は一見とりとめがなくて輪郭が掴みにくいのであるが,本稿ではこの概念をfree thought spaceと名付けた世界を形成するものとして捉えてみる。」

 樋口 万里子『仮定法に関わる形式のFree Thought Space Builderとしての意味機能』1990

 

 樋口1990では、「Joos(1964,120-1)は,過去時制を’remote tense’と呼び,命題が話者の把握する発話時点での現実世界についてのことではないこと」を引いて、過去形の根源的な意味は、present realityからを距離を置いた remoteness であり、それによってpresent realityに束縛されることがないfree thought spaceを形成するとします。

 そのことに関連して、「過去形の機能を,「思考を現実の呪縛から解き放つ、自由な思考を表す」として捉えてみる」と表現しています。

 このfree thought spaceという原理によって、従来の英文法では別々に取り扱われていた、if条件文に現れる過去形、wishなどの構文に現れる過去形、法助動詞の過去形、時制の一致に現れる過去形などについて1つにまとめて説明します。

 過去形の機能が自由な思考にあり、「事実と事実でないものとの間は連続的である」としたうえで、自由だから反事実的な言及が可能になると考える」と述べています。

 

「wouldやcould,shouldの用法は,文法書で説明されている以上に,多岐にわたっているよう思われる。通常使用されているときには,印象が変わる程度で,正しいと信じていることをほんのちょっと控え目に呈示する為のvarlationとしてwouldが使われていることがよくある。

  (5)a. That would be true.

    b. That will be true.

    c. That is true.

would等の全貌が捉え難いのは,このfree thought spaceの様々な点で自由であるという意味での,定まらぬ性質によるものであり,従って,解釈にあたってコンテクスト(文脈)に依存する度合いが大きいことにも因るのではないかと思う。

 

  法助動詞やif節の過去時制のものは,それに対応する現在形のものに比較して,より希薄な可能性(tenuous possibility)を述べている。(勿論,同じような文脈での話である)

    (6) a. He might improve.

      b. He may improve.

 

    (7) a. If John comes tomorrow, I shall be pleased.

      b. If John came tomorrow,I should be pleased.

 

    (8) a. That can be true.

      b. That could be true.

 

 reported speechにおいても,過去形が表していることは,本質的に,話者の命題に対する認識的遠さであること。たとえば,主語が話者以外の人であれば,発言の命題内容に関する責任は,普通主語のほうにあるわけで,その分話者の認識からは遠いことになる。

 

 (9) a. Mary said;“If John can come,the party will be a success.”

 

    b. Mary said if John could come the party would be a success.

 

 これは,通常は時制の一致として文法の規則のように扱われているが,実際はremotenessによる一現象として捉える事ができる。何故ならば,次の(a~d.)はどれも可能だからである。

 

  (10) a.Marvin says he is sad.

 

     b.Marvin says he was sad.

 

     c.Marvin said he is sad.

 

     d.Marvin said he was sad.

 

 報告文であれば,発言自体は,論理的には必ず過去のものであるはずだが,実際の使用においては,必ずしもそうではなく,命題に対する臨在性やそれに伴う経験の直接性が,現在形で表され,それが薄れて,間接的になったことを,過去形が表していると思われるのである。

 その目で確認した発話や,その場に居合わせた雰囲気などを伝える場合,また時間的にいえば過去の出来事を伝えるのに現在形を用いると生き生きした感じがするのもそのような,時制の機能の現れのように思われる。」

樋口 万里子『仮定法に関わる形式のFree Thought Space Builderとしての意味機能』1990

 

 ここで紹介した内容は、専門的な用語や詳細な内容をできるだけ省いているので、特に解説要らないかと思います。それよりも、英語という言語の述語動詞VPのしくみの根本を概観してもらうという目的で引用しています。

 この中で1つだけ取り上げると、(9b)の間接話法の文では、埋め込み節でcould、wouldが現れています。これは(9a)を置き換えて、時制の一致によって置き換えた文としてみれば、十分起こり得る現実的なことを述べていることになります。しかし、元の文(9a)が無ければ、時制一致が起きたのではなく、もともとcould、wouldであったという解釈も可能です。その場合は、(9b)現実的ではないという心的態度を示した文ということになります。

 この用例(9b)は、法助動詞の過去形、仮定法、時制の一致がすべて関係しています。従来の学習用英文法書ではこの種の用例は、ほぼ取り上げられません。規則に従って解釈可能な文ばかり取り上げ、文脈が無いと意味が取れない文は避けられます。

 

  生きた言葉は文脈の中でこそ意味を持つのが普通です。樋口が(10)で示しているのは、時制の一致を硬直的にとらえていては、真の英文法のしくみか決して見えないことでしょう。

 樋口は、20世紀当時の時制の一致について広く流布していた文法説明を詳細に検証し、次のように記しています。

 

「問題は、時制の意味機能を無視し、defaultにしろ部分的にしろ、時制の一致という機械的なルールがあたかも存在するかの様に考えている点である。

 

 (11) John said that Mary is tired.

 

 Johnの発話時点は話者から見て過去だから過去の状態として過去時制を用いればまず間違いはない。これが英語を母国語とする人々の直感として、文脈なしに文が単独で示された場合、時制が一致していた方が安全と感じられる理由であろう。

 けれども例えばJohnの発話がほんのちょっと前のことでJohnの頭の中ではMaryの疲労状態がまだ続いていると思われる場合等、現在の事柄として位置付けてもJohnの伝えたい内容や意図からはずれないと話者が判断できれば、現在形が選択され得る。

 或いは、文脈によっては何等か誤解を生む可能性があるのでそれを避けたい場合等では寧ろ現在形の方がいいという場合もある。

 

 これがルールの様なものと考えられた背景には、他にも例えばI didn't know you were here.等の補文で過去形の方がより自然だという場合があるからだろうが、それは過去の自分の意識には補文の命題が存在しなかったと言う事を表している。これは例えば、if節で表したことが仮定や現実としては十分認識されていないことになることや、仮定法とされている現在のことなのに事実に反することが過去形で表現されるのと、似たところがあって、驚いていることをしみじみと言う場合は、補文が現在形でも問題ない。

 

 無難で典型的な文のパターンのみを学習者に植え付けることが目的の学校文法では相変わらず時制の一致はルールであるかの如き扱いを受けているが、最近では、一致しなくても例外視されることもなくなってきたというのにそれでも尚、時制が一致していなければどうしても容認可能性が低いと見られる幾つかの例を巡っては、時制の一致のルールが働いているとして、ある場合は機械的に、ある場合は怪しい理由で、時制の意味機能が正しく考慮されずに片付けられている憂慮すべき現状がある。」

           樋口 万里子『認知文法から見た時制の一致現象』1993

 

 学校英語は直説法を「時制」と考え、時間timeの数直線上でとらえています。「過去形は過去のことを述べる」のを基本とします。だから「過去形が過去のことを述べない」現象を含む「法助動詞」、「仮定法」、「時制の一致」はそこからは外れた文法事項ということになり、別々に隔離されます。

 「時制の一致」には例外があると言いますが、実際には和式の「直説法」の例外が「時制の一致」という例外で、そこにもまた例外が……という例外の連鎖になっています。考えてみましょう。英語がもともと例外だらけの奇妙な文法的な仕組みの言語なのでしょうか?

 

 言葉は神羅万象である「こと」を切り取った「端」だから「こと(の)は」といいます。言葉は複雑な「こと」を抽象化して経済的に出来ているものです。その言葉をうまく伝えるための社会的なコードが自然言語としての文法です。

 動詞の屈折が豊富な言語はその1つの形態の意味が比較的に厳密です。多くの形態があると、役割を分担できるからです。英語という言語は、屈折という文法標識をそぎ落として、語順と機能語を駆使して文法性を示します。しくみはシンプルで、その分1つの機能語が多機能であるというのは当然のことです。
 屈折をほとんど失った末に残った「過去形」が過去のことを述べるという単機能であるということが本当に基本だと思いますか?それで英語という言語が機能するでしょうか?英語の知識が豊富だとか権威だとかは関係ありません。もともとのしくみがいびつで例外だらけなのか、基本とする原理によって多くの例外が生み出されているのか、常識的に考えてみればわかることです。
 

 人が言っていることとやっていることが違う場合、やっていることを見る方が本質に近いことが分かるものです。実用的な用例を集めて実践的にしたと書いてあっても、それはあてになりません。採用する原理によって説明しようとするとうまくいかない現象、つまり都合が悪い用例は載せなければ学習者は気づけません。

 たとえば、Does anyone try some?のような用例は、従来の学参には無いでしょう。かつては(と言っても実態に合わない規則が流布したのは20世紀の後半からですが)「文の種類でsomeとanyを使い分ける」ことを基本としていたので、1文にsome、anyのどちらも出てくる用例は説明できません。「依頼を表すときとか、Yesを期待する時はsomeとかいう文意に応じる」という説明も通用しません。

 英文法説明の性能は、どの用例を載せているかより、何が欠けているかを見ることで分かるのです。以前は、われわれ一般の学習者が真相を探ることは容易ではありませんでした。現代は言語コーパスやYouTubeやSNSなど一次資料から生きた用例を知ることは可能です。

 

 学習用英文法書がどのような原理(ことわり)にによって書かれているかはその章立てを見れば見当が付きます。「時制」「法助動詞」「仮定法」「時制の一致(話法)」という章立てになっていれば、時制tenseと時間timeが一致することを基本原理として、「過去時制が過去のことを述べない」その他の項目は基本から外れたものとして扱っていることを意味します。

 過去形が現実から離れたこと意味することを基本原理とし、用法は多機能であるとする文法書では、和式の「仮定法」という独立した項目は無く、あっても形態上の区別に限り消滅過程になるという扱いになります。

 学校文法式の基本原理、章立てが有用なら問題は無いのですが、「法助動詞(の過去形)」「仮定法」「時制の一致(話法)」は学習者が使えないあるいは苦手とする文法項目の上位を占めます。説明の都合がいいことは学習者の有用性とは相反することもあるでしょう。

 

 従来の英文法が悪いというわけではありません。欧米列強による植民地化の脅威にある状況で、科学的知見を取り入れるために文法訳読で書物を翻訳することは十分に意義のある事でした。その成果によって日本語は世界の中でも数少ない大言語の1つとなったのです。現行の学校文法の基本的な時制モデルは、100年ほど前に普及しはじめたものですが、20世紀にはそれなりに機能してきたと思います。

 しかし現代では、学ぶ目的そのものが変化してきています。それに合わせて、海外の学習文法書の記述は上書きされています。生きて使われる表現を取り上げていくというのは大きな流れになっています。その一環として[would/might/should+have+p.p.]の型が過去だけではなく現在・未来のことを述べる用例を取り上げています。今後の100年を見据えると、この21世紀に学ぶべき学習文法のパラダイムは今シフトする方が良いと思います。