従来、法助動詞canはよく「できる」という日本語と関連付けて教えられてきました。もちろん、そのように翻訳できる場合は多々あるわけですが、英語の基本語を特定の日本語にタグ付けするのは文法説明ではありません。

 文法化が進んだ機能語の多くは使用頻度が高く、意味が漂泊し和訳に現れないことが多いのです。学習文法の有用性は、和訳に現れにくい英語話者の使用頻度が高い文法機能を担う語の用法をしっかり説明することにあります。

 今回は法助動詞canの文法説明の仕方を検証し、法助動詞に一貫した意味変化の原理に基づいた使用実態に合ったとらえ方を提示します。

 

 いわゆる4技能のちspeakingという面から見た時の日本人学習者と英語母語話者の法助動詞の選択の違いを報告する論文があります。そこには共通のトッピクについての発話を比較して、日本人学習者(JL)と英語Native Speaker(NS)が使用する法助動詞の頻度につのデータが示されています。

 

 この表にある日本人学習者はJL(B2)は習熟度上位者とされています。また、JSとNSでは母数が異なるので絶対数の比較には意味はなく、相対的な違いを見ていきます。

 

 注目すべき点の1つは、法助動詞canの根源的用法用とされる「可能」と認識的用法「可能性」の使用頻度の差です。この論文では次のように記しています。

母語話者の使用で最も頻度の高い “can be” という単語連鎖である。この単語連鎖で用いられる can はすべて「可能性」の意味で使用されており,観察された68 例のうち,89.7%(61 例)は主語が無生物名詞であり,39.7%(27 例)は主語が it であった。

 鈴木 陽子『モノローグ発話における日本人英語学習者の 法助動詞の使用』2022

 

 次の用例(1a, b)は NSの使用例で、(2)はJLの使用例です。

 

1) a.On the other hand, I think it can be quite good for students to work

       because they need to learn, uh, the value of money. (NS)

 

    b. In that way, part time can be very stressful and I think... (NS)

                                                                               

2) So all the people can’t be happy but some people can be happy and 

    it is good to ban smoking or separate smoking. (JL)

                                                                              ――鈴木2022

 NSの論述では、(1a) it can be、(1b) part time can beのようにitまたは無生物主語を主語としています。これに対してJLの論述では人が主語になっています。

 

 英語話者が高頻度で発話に使用しているcan beの認識的用法「可能性」は、和訳で言うと「有り得る」という意味にあたります。これに対して、表のデータから日本人英語話者の発話ではcanを可能性の意味で使用している頻度が低いことが確認できます。さらに論文では習熟度の低い学習者はcan beを使用していないと記しています。

 

 注意すべきもう1つの点は、日本人学習者は英語話者が使用していないcan knowという表現を使用していることです。

 

3) For example, we can know the social habit or manner. (JL)

                                                                           ――鈴木2022

 この論文ではこのことについて、次のように記しています。「“can know” という単語連鎖は母語話者の使用には全く観察されないものであるが,B2レベルの学習者は 2 番目に高い頻度でこの連鎖を使用していた。日本語の「〜を知ることができる」(可能)の意味で使っているが,learn などの別の動詞を用いるか,あるいは can を削除する必要があり,英語としては不自然な表現となっている。」(鈴木2022)

 

 英米でのcanの使用実態はNgramのデータからも裏付けられます。。

 

  

 英米語話者は肯定can beを否定can't beよりも高頻度で使うようになっていることと、can knowというコロケーションはほとんど使わないことが分かります。これを先ほどの論文の報告と合わせてみると、日本人学習者は英語圏での使用実態に反した発話をする傾向が顕著にみられることが確認できます。

 

 こういった日英の語感の違いをしっかり説明し、そこを埋めていくのが学習文法としての役割です。ところが、従来の文法説明はむしろこのギャップを作り出しているように思えます。

 日本の認識的用法のcanに関するとらえ方が分かる論文の記述を引用します。

 

一般に認識的用法の canは「はずだj という日本語訳を与えられるが、しかし、その日本語訳からすると、「それは本当なはずだ」を表す It can be true.という文も英語として成り立ちそうであるが、事実はそうなっていない。「それは本当のはずだ」ということを英語で言うためにはcanを mustに換えて、It must be true.としなければならない。このように、canは肯定文で「はずだ」を意味しないのである。

   小野 浩司『助動詞 CANの特異性』1998

 

 このとらえ方を例文で示すと次のようになります。

 [疑問文] Can it be true?  (それは真実であろうか。いやあり得ない)

 [否定文] It can't be true.  (それは真実であるはずがない)

 [肯定文] It must be true.(それは真実のはずだ)

   [肯定文] *It can be true. 非文で一般には使用されない

 

 

  この説明によると、認識的用法のcanは、疑問・否定でそれぞれ特徴的な使い方があり、それぞれ疑問文では反語と、否定文では強意の否定として取り上げられています。一方で肯定のcan「あり得る」という表現は排除され、代わりにmustが使用されるとしています。

   この「肯定・否定・疑問という文の種類でmustとcanを使い分ける」かのような説明法は「肯定・否定・疑問という文の種類でsomeとanyを使い分ける」という説明と同じく使用実態とは違います。anyが肯定文で使われることと同じく、canも肯定文で使います。その実態を無視して、文の種類という根拠ない基準で使い分けるかのように教え込まれた学習者が適切に使えなくなるのは無理もないでしょう。

 実際、先ほどの論文のデータおよびNgramでは、英語ネイティブは発話でよくit can beを使うという傾向を示しています。また、否定よりも肯定で使うことを示していました。ところが、それに反して学習者はcan beを明白に過少使用するという明白な傾向が見られます。

 

 この認識用法のcanについて、従来の学習文法書が肯定文の用例を排除するという傾向は[法助動詞+完了]の型についての記述には顕著に見られます。

 

 過去のことに対する推量

 Mr. Brown must have been handsome when he was young.

 Jenny is late. She may have missed the bus.

 John can’t have finished the work so soon.

                                                 『チャート式デュアルスコープ総合英語』

 

 このようにmust、may、can’tに慣用が後続する過去についての認識を述べる用例には、肯定の[can+完了]が採用されていません。

 体系的な文法説明という観点からみても、肯定文の用例を排除することは一般の学習者の益とは関係ありません。

 認識的用法のcanについて肯定文の用例が、学習文法書に採用されずしばしば抜け落ちている理由は、認識的用法の[will+完了]の型が過去のことを述べる用例がしばしば抜け落ちていること、認識的用法の[may+完了]の型が未来のことを述べる用例がしばしば抜け落ちていることと同じです。

 和製の学習英文法のほとんどは、表向きは実用を掲げてはいても、入試の過去問に基づいて編集されています。[法助動詞+完了]の型のうち、実際には使われているのに、特定の用例を採用しないのは、入試の点数を取るための虎の巻という性格から抜け出せていないということです。

 

 受験業界では、2020年代になって東大入試に単数のtheyが登場したことや京大入試に分離不定詞が登場したことが話題になりました。これらは英語圏では実際に昔からよく使われていて、標準語としての正誤論争の的になっていた有名な表現です。今でも一般の学習文法書では状態動詞の進行形などふつうによく使われる表現をのせていない理由は、やはり入試に出ないからです。

 文法の誤りを気にして、多くの英語話者が使う表現を、自ら禁じてという傾向は学習者ではなく、日本の教育方針にそっています。それは、英語という言語の文法的な仕組み上言いたいことを伝えるために必要かどうかよりも、標準語としての正しい言葉使いと認めるかどうかが明白ではない場合は誤りあるいは使用を禁止するということを意味しています。

 

 以上の現状を踏まえて従来の説明法を根本から見直して、英語という言語の文法的仕組みを科学するという観点から、実使用に基づいた文法記述を探ります。

 

 法助動詞の共通点は、もともと一般的な動詞から機能語に変化した語です。もとは内容語としての具体的な意味を持っていて、文法化に伴い意味を一般化していきました。法助動詞は、文法化という言語変化の原理をもとに体系的に、その変化の過程を追うと個々の用法がよく見えてきます。

 法助動詞一般の成り立ちについて述べた論文から引用します。

 

一般的には、「法」(mood)は、動詞類の屈折変化を指して用いられる文法的術語である。例えば、ギリシャ語では、直接法(indicative)、仮定法(subjunctive)、命令法(imperative)、願望法(optative)の4つが動詞の語尾屈折に関係している。また、英語でも、OEでは直接法、仮定法、命令法が動詞の語尾屈折に関係していた。

 ところが、法助動詞における「法」とは、動詞の語尾屈折には無関係な概念である。法助動詞とは、「話し手の心的態度をその意味に反映する助動詞である」と定義することができる」

            林 高宣『認識の法助動詞、その意味するもの』2006

 

 英語の単語の多くは、1500年ごろには文法性を示す標識の役割をしていた屈折を失います。無標となった動詞は「法」の違いを示せなくなったわけです。屈折という文法手段の代わりとして、内容語だった動詞のうち一部の限られた語が文法機能を担うようになります。それが今日の法助動詞です。

 

 法助動詞の文法化と意味の変化について助動詞canについて見てきます。そこからコアと意味の広がりを俯瞰し、個々の現代用法の文法説明をしていきます。

 

「can は元来‘to know’を意味する他動詞でありその後自動詞としても使われた。canの語源であるcunnanは‘to have learned, to have attained (to) knowledge’の意味を持つ過去現在動詞 (preterite-present verb) であった。過去現在動詞とは過去形 (完了形) から発達しやがて現在形として用いられるようになった動詞のことである。

 OE 期の cunnan の意味の中核は「知識」である。ME 期に入ると動詞の非定形が目的語になる用法が支配的となり次第に助動詞的性格を帯びてくる。意味的には ‘know how to’, ‘be able to’など現在の能力の用法も出てくる。」

           長谷川 瑞穂『法助動詞canとmayの意味と用法』2000

 

 この歴史的経緯を踏まえて、一般の学習文法の説明用に抽象化して表現してみます。大きく3段階にすると、その意味変化は概ね次のような見方ができます。

 ①内容語の時の具体的な意味

⇒②想いを表す機能語になった根源的(root)用法

⇒③主観的な判断を示すようになった認識的(epistemic)用法

 

 この法助動詞の一般的な推移を、canに当てはめて示します。

 ①やり方を知っている(知識がある)

⇒②やればできる(潜在的可能性/能力)

⇒③できるはず(論理的な可能性)

 

 言葉にはそれぞれの歴史があり、見かけ上意味を失ったようでも実際には用法に痕跡が残っていることはあり得ます。特に法助動詞にはその傾向があり、コアと一連の派生用法としてとらえることは有用です。

 動詞のときの客観的な意味から言うとcanのコアはの日本語の「できる」「できた」とは全く異なります。事実として「実際にできた」と言いたいときは[be able]のbeを直説法の動詞 was, wereにして表現します。be able toとの意味領域の違いは、canの用法を探る鍵になります。

 

 法助動詞は歴史的に、時を経るにしたがって意味が変化し旧表現が表していた意味を新興表現へ譲り渡していくという現象が確認されています。例えば、「許可」という用法は、近年、旧表現のmayから後発の新興表現canへと交替が進行しているとみることができます。

 

 このとき、旧表現のmayが「許可」を表すのは一般に硬いという語感をもち、口語よりも文語での使用頻度が高いことが観察されます。対して新興表現のcanは口語でより多く使用され、砕けた表現という語感をもちます。この関係は新旧表現の交替期には一般的にみられる特徴で、旧表現mayが表していた意味領域を新興表現canが侵食しているのです。

 

 根源的用法の「可能」について、法助動詞canとbe ablet toは意味領域の範囲を競っている関係にあるとみることができます。

 一般的には、「能力的に可能」という意味は、かつてmayが表していて後にcanへ受け継がれ、その後新興表現のbe able toが発達して、現在はcanの意味領域を侵食しているという見方がされます。

 ところが、この経緯では、canとbe able toとの用法、語感とつじつまが合わないという事実があります。その1つとして口語では「能力」の意味でbe able toを使うと硬い表現だとされ、canの方がむしろ砕けているという語感があるとされます。

 

 「可能」を意味する表現はmay⇒can⇒be able toという順に移行しているという従来説に対して、(寺田2005)はmay、can、be able toの形態的な変化と意味変化を詳細に分析し興味深い指摘をしています。

WB(新約聖書が1382年に、旧約聖書が1388年に翻訳)の前期訳、後期訳で、mayとbe able toが対比の形で出ている例があること示し、WBにおけるbe able toはcanに先立って現代英語の‘be able to’の意味をすでに持っていたと考えることができる。

Visser(1963)は、canの代用とみなされるようになったbe able toが、canに後続して‘You can never be able to pay me all’という統語形式になることが、16世紀から17世紀末にかけて、少数ながら見られることを指摘している

                            寺田 正義『ウィクリフ派聖書におけるMayについて』2005

 

  この中にある用例you can never…は「あなたは私に対してすべてを返済することは決してできない」という意味です。canとbe able toが共起している時期は、Ngramで探ると17世紀末よりもさらに後の19世紀前半ごろまで見られます。  

 このようにcanとbe able toが共起していることから、それぞれの表す意味領域はそれぞれ異なっていたという推測が成り立ちます。意味が接近してくるにしたがって、二重になることを避けるようになっていったと考えられるからです。

 

 このほかにも寺田2005では詳細な検討を重ねています。ここではそのすべては紹介できませんが、結論として次のような分析結果を述べています。(下記のmow(e)はmayの古形)

「大胆に推測するならば、mow(e)が担っていた‘be able to’の意味とその統語的な特徴を、mow(e)自身の消失によってbe able toというコロケーションに譲り渡し、その結果、be able toは準助動詞として、canの補完形としての役割を果たすようになる。

 古英語から近代英語への中間点にあたる中英語期のこれら助動詞の意味用法の変化が従来言われているほどには進んでいない。結論を簡潔に述べるならば次のようになる。Canは、本動詞から助動詞への移行はかなり進んでいるが、大部分が古英語以来の「知的に出来る」(to know how to)という意味に留まっている。

 今や、現代英語としてのbe able toは広い範囲の統語的文脈において使われていて、その持つ意味の範囲もcanをしのぐほどになっている。後期中英語の時代は、そのようなbe able toの発展の端緒となった時代を位置付けることができるであろう。」

         寺田 正義『ウィクリフ派聖書におけるMayについて』2005

 

 この経緯をもとにすると、現代のcanとbe able toそれぞれが表す意味領域と語感や用法がうまく説明できます。

 通時的に長いスパンで言うと、mayが持っていた「可能」という意味領域のうち、canとbe able toで別の意味をそれぞれ受け継いだとみることができます。canは元の「知的なできる」ということから根源的用法として「論理的には可能」という意味を主に受け持つようになり、be able toは「現実的に可能」という意味を主に受け持ちようになったと考えることができます。

 

 canとbe able toの意味違いを端的に表す記述を引用します。

 

「BE ABLE TO(do)は、過去、現在、未来の時間における可能性を表現することができるのだが、同時に、それぞれの時間において、その述語の動作・状態が実現することもふくみとして表現する。したがって、おおくの場合、特定の時間での、その場かぎりのできごとをあらわしていて、現実表現の文へ移行している、とみることができるであろう。一方、CANは動作・状態の可能性だけを表現していて、その実現についてはなにもいってはいない。」

渡辺慎晤「英語のモーダルな助動詞CANについて」1989『ことばの科学3』むぎ書房

 

 現代英語のcanの用法には、「知的なできる」「論理的には可能」という用法を示す傾向があり、「現実的な可能」を嫌うという傾向があります。

 canの過去形couldは「やろと思えばできた」という潜在的な能力が基本で、実際に1回の現実の行為として実行できたということはwas able toの方が好んで使われます。

 

 He was able to solve the difficult puzzle in record time. 

(彼は難しいパズルを記録的な時間で解くことができた) 

 

 He will be  able to solve the difficult puzzle in record time.   

  (彼は難しいパズルを記録的な時間で解くことができるようになる)

 

 以上のような用例では、ある時点でパズルを解くという行為の実施を意味します。canでは子のような具体的な行為の実施を意味せず、潜在的できる能力があるという意味です。

 

 叙想法のcanはあくまでも頭の中に在る想いを表します。その上もともとが「知っている」というコアから派生しているため、実際に行ったことを述べることに抵抗があるのです。叙想法過去のcouldは、「現に在る」present realityからさらに距離を置いたremoteを意味するので、なおさら個別のことが実際にできたという事実を表すことには適さないのでしょう。

 

 このcanの論理的な用法への志向は認識的用法の可能性「あり得る」の使用にも見られます。事実に基づいて現実的に「~のはずだ」という用法よりも、すでに知っている知識をもとにして「~は有り得る」という用法の方が適します。前者のように事実に基づく判断はmustの方が適します。

 

 “You must be a great sorceress.”

 “Why?”asked the girl.

 “Because you wear silver shoes and have killed the wicked witch.  Besides, you have white in your frock, and only witches and  sorceresses wear white

                    ――The wonderful wizard of Oz

 「あなたはすごい魔法使いに違いないわね。」

 「なぜですか?」と少女は尋ねました。

 「なぜなら、あなたは銀の靴を履いていて悪い魔女を倒したからよ。それに、

  あなたのドレスには白がある。白は魔女や魔法使いだけが着るものだからね。」

 

 初めの文で認識のmustが使われています。なぜかと聞かれて、そう判断した理由を具体的事実をあげて言っています。これらの事実は、すでに持っていた知識ではありません。だからcanではなくmustを使っていると考えられます。

 

 canにはもともと「知識がある」というコアがあり、「論理的にあり得る」というやや硬い響きがあります。「学んだ知識」をもとにした文脈に適します。

 

 This ilIness can be fatal. 

   (この病期は死に至ることがある)

 

 Sports can be harmful to the health. 

  (スポーツは健康に悪影響を及ぼすことがあります)

 

 このような用例は知識と関連があり、mustのように具体的事実に基づいて確実だ判断するという文脈とは違うことが分かると思います。

 

 canの持つ「知的な」語感は、次のような用例から伺えます。

 

「英語の法助動詞canは,他の法助動詞と同様多義的であり種々の用法を持つが,その一つとして次のように「主語名詞句の指示対象の例となるもの」を示す用法がある:

 

(1)A real number can be an integer,a fraction,or a decimal.

 

(2) A parallelogram can be a regular polygon in the form of a square.

 

(3)Allergy medicine can be pills,liquids,or even sprays for your

   nose.

 

(1)は「実数(real number)」の例として「整数(integer)」「分数(fraction)」「小数(decimal)」などがあることを述べている。

 

(2)は「平行四辺形(parallelogram)」の例として「正方形(square)の形の正多角形(regular polygon)」の場合があることを述べている。

 

(3)は「アレルギーの薬(allergy medicine)」として,「錠剤(pills)」「液体薬(liquids)」「噴霧薬(sprays)」などの形のものがあることを述べている。

 

                 友澤 宏隆『法助動詞canの〈例示〉機能と存在的モダリティ』2007

 

 このようにcan be という型で「習得した知識」をもとにした判断は、先にあった英語のネイティブが発話によく使用した表現のベースにあるのでしょう。無生物主語の文が多いというのも論理的な語感を持つcanとの親和性を感じます。

 

 現代のcanの用法には、内容語の時の「知っている」「知識を習得した」というコアがいまだに影響しています。そういうと、すでに使われていない意味が現代用法に残るというのは考えにくいと思われるかもしれません。しかし、現代用法と言ってもそれは公的な標準語という狭い範囲にしかすぎません。

  UKは階級社会であり階層によって言葉使いは異なります。また、連合王国であることから分かるように地方によって言葉は多様です。地方語には昔から使われていた言葉が残っているということはよくあります。

 

「スコットランドの一部の地域では、そこの言語に慣れていない人だと戸惑ってしまうでしょうね。東海岸や北部では特にそうだと言えると思いますが、例えば誰かに「タムさんをご存じですか?」と聞いたとします。そうすると相手は「I ken. I ken Tam fine.」と答えるのですが、kenは「知っている」という意味なんです」

 (ネット記事より)

 

 このkenは現代語のcanの元の使い方でしょう。チョーサーのカンタベリー物語にある用例を紹介します。

 

  Who kan sey bet than he, who kan do werse ?

                    ――Jeoffrey Chaueer (?1340-1400), The Canterbury Tales

 

                         長谷川 瑞穂『法助動詞canとmayの意味と用法』2000

 

 現代英語では、Who can say better than he, who can do worse ?になります。当時のkanが現代語のcanになります。このkanは「いったい誰が~し得るだろうか?」という反語として使われていいます。

 

 これらの事実から、canは法助動詞へ移行してからも「知的に出来る」という意味を保持し、派生としてbe ableの意味への発達は遅く、「論理的にはあり得る」という意味が先行していたという見方ができます。一貫して、身体的な能力よりも知的な思考との関連が強い言葉ではないかと考えられます。canが論理的な思考によって「あり得る」という認識を示すことから、現実・事実として「できる」「できた」という文脈には適さないということになります。

 特に問題になるのは過去のことを述べる場合です。もし実行すればできる能力はある(あった)、あるいは可能性としてあり得る(あり得た)という場合は肯定でcan、couldを用いることができます。また、結果として「できなかった」場合は、能力が無かったということを示すので否定のcouldn’tは使えます。

 

 この点について、日本人学習者の理解度を検証した論文から引用します。

 

「(11) Paul felt much better on Saturday, and so he was able to play in the match. 

 

(12) Paul was ill. He couldn't (wasn't able to) play in the match.

 

 (13) We could see the village in the distance. (Eastwood, 1992) 

 

  could は,人が過去に持っていた一般的な 能力を表す (11)。be able to は,ある特定の 状況で具体的に何かをした場合に用いられる (12)。さらに , 過去時制で知覚動詞を伴う場 合は could を用いる (13)。

 

 中学生用の英文法参考書や問題集から準動詞と疑似助動詞の用法の違いについて

 I was able to read this book. = I could read this book.

can = be able to(〜できる)とほぼ同じ内容を表す表現と解説があった。

 Nancy is able to dance well. = Nancy can dance well.

「can (= be able to) 〜は,「〜できる」という意味で,can の過去形は could。 be able to の be は主語の人称や数と時制(現 在・過去・未来)によって変化する」という 解説がある。

 

 高校レベルでは,どのような解説をしているかを,最も発行部数 の多い英文法参考書で分析する。

 a. She could play the violin at five. 

 b. I was able to swim 200 meters yesterday.

 過去形において「~する能力 があった」という過去の能力を表す場合は, could と was able to の両方を用いることが できる。しかし,「~することが(実際に) できた」という過去に実行したことを表す場 合には,could を用いることができない。

 同様の法助動詞と疑似法助動詞の用法の違 いについて記載は,複数の文法参考書に もあった。

 

 文献調査の結果から,中学校用の文法教材 が,高校用教材や ESL の文法教材と比較し て,大幅に記述が単純化されていることが明 らかになった。入門期に過剰に単純化された 文法規則が定着してしまうと,大学生になっても,法助動詞と疑似法助動詞の使い分けを誤解している学生が多いと予測される。

 

 次のような英文でcan / be able toの選択を問う20問の正答率は、50.1%にとどまった。

 Luckily I had my camera with me, so I (  ) take some photos. 

  (was able to;過去の実際に起こった行動 )

相澤 一美, 原田 依子『文法教材における法助動詞の提示法と学習者の理解』2015

 

 canは「できる」という日本語とは想像以上に離れた語です。後々困るような文法説明ならやめた方がいいでしょう。学習の初期段階でcanを「できる」という訳語とタグ付けするのは問題があること示しています。

 

 また、日本人学習者が使うcan knowという言い方を、多くの英語のネイティブは使用を避けるという指摘がありました。学習者は「知ることができる」のつもりで使うのでしょう。しかし実際にはcanには「知っている」という含意があると考えれば、knowとは重複することになります。だから英語話者は共起すると奇異に感じるのではないでしょうか。

  同じような現象として、法助動詞willはwantやhopeなど意思を示す動詞とは一般に共起しないことが知られています。提案などの意思を表すwillをwouldにすると距離を置いた(remote)響きになり「遠慮」した表現になりますが、Did you want…?というと「遠慮」した表現になるなど類似点があります。現代語のwantは法助動詞willの根源的用法「意思」に意味が近いことから重複するため共起しづらいと考えられます。

  もちろん、言葉は変化するので、今後文法化が進み元の意味が薄れて、それまで共起することに抵抗がなくなることもあります。現状、法助動詞canが、knowとの共起に抵抗を示すのは、根源的用法に近い語感が残って影響していることを示唆します。

 

 学習文法が生産的だった20世紀当時の学習文法は、学校の教科書でも通時的、共時的な視点を持っていました。当時は文法の主な役目が規範による標準化であり、情報環境から実際に使われる用法をデータとして収集することは困難でした。今は、学習文法に求められる役割も情報環境も変わってきています。

 現代に活きて使われている表現を一貫した原理で説明する文法は意味のあるものではないかと思います。それは言語変化を前提とした原理をもとにしたものになります。法助動詞の文法記述はその典型的な在り方を示すものになるでしょう。