これまでの英文法では、we、you、theyを「人称代名詞」という枠組みを基本として説明してきました。しかし、多くの学習者が人称代名詞を上手く使えていないという多くのエビデンスが示されています。これを改善するのが文法の役割、そして日本人講師の腕の見せ所ではないかと思います。

 

 実業の世界では、改善というのは、現状把握、原因分析、改善策に立案という過程を踏んで行われます。人称代名詞の使い方を英文法の力で改善するときにも使えるはずです。

 日本人の人称代名詞の使用傾向について、現状把握、原因分析を進めるのにいい資料があります。日本人学生と英語母国語話者の違いに関する論文(成田真澄2017)です。この論文の中で注目した内容は以下の通りです。

 

 使用する資料は、神戸大学の石川慎一郎氏が開発した「アジア圏国際英語学習者コーパス」(ICNALE)に収録されている英作文データの一部。

 日本の学生200名と英語母国語話者大学生100名(アメリカ人82名,カナダ人8名,がニュージーランド人4名,イギリス人3名,オーストラリア人3名)が書いた「大学生にとってのアルバイトの是非」というトピックの英語論述文に使った人称代名詞の使用頻度を調査した。

 [主格+can]の型で使う人称代名詞のうちwe、they、youの使用率と使用傾向は以下のとおり

1)日本人大学生は“we can”(45.73%),“they can”(31.88%)という順番で使用が多い

「日本人大学生は主にトピックである「アルバイト」の利点を記述するためにwe can、they canを使用する傾向がある」

2)大学生の英語母語話者は“you can”(21.09%),“they can”(16.26%)という順番で使用が多い

「英語母語話者の場合には,“you can”あるいは“they can”という定型的な表現を多く使用し,共に「アルバイト」の利点を紹介している。」

 成田真澄『日本人大学生が産出した英語論述文における主格人称代名詞使用傾向の

      分析』2017

 

 この記述から分かるように、日本人の学生はwe canの使用頻度が突出して高いという傾向がみられます。

 報告された論文で紹介されている学生の論述文の一部を引用します。

 

(1)   We would find many differences between us and them. In addition,

   we can learn how to communicate well with people and know the

   thing we don’t know. (JPN)                              ――成田2017

                               

(2)  For example, no matter how much studying you do you can never

       learn how hard it is to make money and once you have job you can

       learn this. (NES_Students)                                             ――ibid.

 

(3)  Through part-time job, they can learn importance of working, 

      a sense of  fulfillment of working, social customs, etiquette, common

      sense,  and so on. (JPN)                                                  ――ibid.                                                                                                                 

 それぞれの用例にある、アルバイトから学ぶという表現の主語に注目します。用例⑴~⑶は同じような文脈で、それぞれ[we / you / they+can learn]という異なる語を使っています。「大学生にとってのアルバイトの是非」というトピックは、論述する学生にとっては当事者であり、同時に論述するという客観的立場でもあります。we、you、theyのどの代名詞を選択するかは任意です。

 

 重要なのはwe、you、theyのとらえ方を把握したうえで、自分の意志として選択しているかどうかです。日本人大学生は(1)の型“we can”(45.73%)を多用する傾向があり、英語母国語話者は⑵の型“you can”(21.09%)を多く使う傾向があります。日本人学生が代名詞を選択するときの問題点は、多くの英語ネイティブが指摘しています。

 

「私は何年も日本で英語を教えてきて、日本人の英語学習者に、youを一般の人々の意味で使わせることが非常に難しいことを痛感しています。…現実には、人々一般を表すのに、weよりもyouのほうがずっとよくつかわれているのです。しかも注意すべきは、そのように使われたyouは I も含む概念だということなのです。I の反対語としてのyouではないのです。」

            T.D.ミントン『ここがおかしい日本人の英文法』1999

 

 この原因として考えられるのは、日本人学習者の多くは、we、you、theyの選択を「一人称複数」とか「二人称複数」といったラテン語の人称パラダイム(枠組み)を念頭に置いているのではないかということです。

 たとえ情報の発信者 I (一人称)が含まれていても 一般論を述べる論述では、youを使うというのが多数の英語のネイティブの感覚です。英語母語話者の学生が書いた論述文にある用例を紹介します。

 

(4)  If you have a part-time job, you can make money, you can gain

       skills, and you can make professional contacts. (NES_Students)

                                                                                        ――成田2017

 アルバイトをする、お金を稼ぐ、スキルを獲得する、プロの人と接触できるなど、当事者の学生のことを表すときにyouを使って表現しています。このように、大多数の英語母国語話者は書き手(一人称)を含むことであってもyouを選択します。これが一般的な感覚であることは、多くの英語のネイティブが書いた書籍などでも度々指摘されています。

 

 一般論は誰かを指すわけではないので形式的な主語を置くことになります。だから機能語we、you、theyのいずれも使うこともできます。この3語の選択は正誤ではなく任意です。その選択の仕方に人称代名詞のとらえ方が現れます。英語話者は、この3語の中でも意味の漂白化が最も進んだyouは好んで使うということでしょう。

 

 日本人が書いた論述と英語母国語話者が書いた論述からほぼ同じような内容について書いた文を引用します。

 

(5)  I think it is important for college students to have part time job. 

  This is because we can get precious experience from the part time 

      job. (JPN)                                                           ――成田2017

 

(6) It is very important for college students to have a part-time job so

     that they can gain some knowledge about the real world and gain

    some experience in business before they graduate.(NES_Students)

                                                                                              ――ibid.

   用例5は日本人学生、用例6は英語母語話者の学生の文章です。どちらも学生がアルバイトをすることは重要であると述べた上で、その理由としてそこから得られるもの(経験など)を挙げています。経験等を得るのは、アルバイトをした学生ですが、日本人学生はwe canを選択し、英語母語話者の学生はthey canを選択しています。

 いずれの文も、情報として先にcollege studentsがあるので、それを受けてtheyを使うのは自然な感覚です。書き手(一人称)が含まれていてもtheyを使うことは何の問題もありません。ところが、日本人学生は、このような場合でもwe canを選択しています。

 客観的な論述として自然なthey canを選択肢から外し、わざわざwe canを選択している要因としては、書き手(一人称)を含むことを優先していることが考えられます。

 

 we、you、theyの3語とは外れますが、この用例⑸、⑹の表現の違いについて指摘しておきます。日本人学生の文(用例5)では、英語母語話者の学生の書いた文(用例6)にはない I thinkを文頭に使っています。これも日本人の代名詞の使い方の顕著な傾向としてよく指摘されます。

  (成田2017)でも次のように記しています。

 

「人称代名詞“I”の使用頻度を算出すると,日本人学生による使用頻度がアメリカ人学生の約5倍,イギリス人学生の約10倍にも達していることがわかった。さらに,クラスター分析という統計的手法に基づいて1つの論述文に“I”を7回以上使用している場合を「過剰使用」とみなすと,日本人学生の約80%が“I”を過剰に使用していた。これに対して,アメリカ人学生の場合には約20%が,イギリス人学生の場合には約15%が“I”を過剰に使用していた。日本人学生による“I think”という定型的な表現での過剰使用も明らかになった。」(成田2017)

 

 日本人学生の  I の使用率がアメリカ人学生の約5倍で、I thinkという定形的な表現での過剰使用が明らかになったことが述べてあります。この点について、SNSで見かけた次の指摘は、この記述と符合します。

「常日ごろから感じていることです。日本人は英語で意見を述べる際にかなりの確率でI think…から始める傾向がありますが、かえって自身がなさそうに聞こえて逆効果なので、冒頭に I thinkをつけるのはせいぜい5文に一つくらいを目安に。」

 

 もちろん、この I の過剰使用は、代名詞のとらえ方の問題だけではないと思います。その1つの要因として、英語話者はいわゆる無生物主語を上手く使うということがあります。

(a) "I was delayed due to traffic congestion."

(b)  "Traffic congestion caused the delay."

  この2文はどちらも「渋滞で遅れた」という意味ですが、(b)では主語に I を立てません。

 その点を別にして、人を主語にする場合でも自分のことを言うときには I を使う日本人が多いのではないかと思います。 英米の若干の違いに関して、人称代名詞のとらえ方の違いを示唆する記述があります。

 

「youがイコール「一般の人たち」を示すからといっても、じつは一般論ではなく、自分自身の意見を述べている場合もある。 

 とくに、イギリス人が口にするいい方で、youをIの意味で使う。なぜIを避けるかというと。自分の意見は一般論だ、常識だ、と考えるからだ。それでyouを口にするのだが、本人が心からいいたいことは、一般論のいい方の裏にある本心は、I think(と僕は思う)だ。

たとえば、のら犬やのらネコが虐待されていたとする。石などをぶつけられて、可哀想だ。それをいうのに、

     You don't like to see animals suffer, do you?

「痛い目にあって、君はあんな場面、見たくないだろう?」ではない。One doesn't like [Nobody likes] to see …のことで、「人間なら、あんなシーンはイヤなはずだ」。だが、結局は、「僕は可哀想だと思うな。君もそう思うだろう?」という本人の意見が込められている

                                アラン・ターニー『英語のしくみが見えてくる』1991

 

 この記述によると、言いたいことは I think なのだが、表現としてはyouを主語にして一般論として使うとしています。この感覚の違いが日本人学習者がI thinkを過剰使用することに関わっていると考えられます。また、「とくに、イギリス人が口にする言い方」という指摘は、 イギリス人が I を使う頻度がアメリカ人の約2倍という傾向とも符合します。

 

 方言学者のグロータース神父は、、ヘミング『ムーヴァブル・フィースト』の翻訳について次のように記しています。「扉の文句で、「きみ」と訳されているyouは、第二人称を指すのではなく、「一般に人は」とか「だれでも」の意味で、実際には「自分自身のことを指している。」(W・Aグロータース『誤訳』1967)これはターニーと全く同じこと言っています。日本人がyouという語が実際には I のことを指して使う場合があることが理解できていないことは、少なくとも数十年にわたって指摘されていることが分かります。

 

 このyouに対する英語話者の感覚は一般の公教育を受ける日本人学生にはほぼないでしょう。英文法書や学校英語では、「 I は一人称単数で、話し手を含む」と説明します。その説明は、ラテン語の動詞の定形変化(主語と時制によって動詞形が定まる)に基づくもので、英語の代名詞の文法機能の説明にはなっていません。だから学習者の I の過剰使用は文法教育のせいも多分にあると思います。

 英語は比較的ストレートな表現が多いことは事実ですが、いつもそうであるとは限りません。話し手の意志だからいつも判を押したように I を選択するということではないのです。

 

 英語は日本語と違って、主語をはっきりさせるという人がいますが、これも一面的な見方に過ぎません。英語の人称代名詞は、主語をはっきりさせたくないときでも、文の構成上、形式的に置く機能語です。

 現状の文法書の代名詞は、「人称」という屈折言語の内容を示す概念を、屈折を失った現代英語に当てはめて説明することがスタンダードになっていて、機能語としての視点を欠いています。日英の「あなた」とyouでは文法機能も意味のとらえ方も違います。その違いを埋めることは、和製英文法書の効用になるはずです。

 

 英語のネイティブは、「人称」という概念をもとにして機械的に代名詞を使うことなどありません。英語本来のしくみに基づいて、状況にあった適切な表現を選択して使います。「話し手を含む云々」は英語の代名詞の選択の基準にはならないのです。 「人称」パラダイムは、ラテン語用に創られたオートクチュールであって、ユニバーサルデザインではありません。現行文法は、ラテン語の動詞に基づく人称という概念を補正もせずに現代英語に当てはめて説明するため、結果として学習者に I を一人称、youを二人称に使う語だと刷り込んでいます。

 

 日本には、屈折言語の一概念に過ぎない「話し手と聞き手を基幹とする人称」を言語に普遍的な現象であるかのように考える言語学者は多いのです。そのことを示す記述を引用します。

 

「1人称および2人称の代名詞は対話の当事者に関するものであるから、いかなる言語にも欠かせないものである。……大体、伝達の発信者である話し手と伝達の受信者である聞き手の存在は、言語伝達を可能ならしめる基盤をなすものである。この話し手と聞き手の2人の人間こそが言語の‘人称’を支えるものであって、……3人称代名詞によって指示される人または物も、その材料にすぎない。それは、話し手と聞き手の間の関係とは次元の異なるものである。フランスの言語学者バンヴェニストは、3人称は人称ではないとさえ言っている。事実、言語によっては、3人称は1・2人称とは違った扱いをするものがある。」  

                                                 『言語学大辞典 第6巻 述語編』三省堂

 

 これは多くの学者が関わる言語学辞典です。「一人称」「二人称」を欠かせないものとする見方は、当時の学会に広く浸透していたことが分かります。この見方は伝統的にギリシア語・ラテン語を理想的な言語とみなす西欧の言語学に影響を受けたものです。

 これらの言語では、人称によって動詞形が決まっていて「一人称」「二人称」「三人称」は区別されます。一方でラテン語の代名詞には1人称と2人称しかありません。バンヴェニストと主張の根底にはソシュールの影響とラテン語の代名詞が影響していると考えられます。むしろ「3人称を人称ではない」というには、動詞の屈折に基づく概念の「人称」を、代名詞の説明にあてはめることの限界を意味するととらえることもできます。

 

 西欧語の動詞においても人称よりも非人称の方が言語の根源であり、「話し手と聞き手を基幹とする人称」は言語に欠かせないものではないという主張はあります。

 

「非人称動詞こそが言語の初期段階において使われた最初の動詞であり、またおそらく最初の語であったと思われる。…初期の言語創造者たちに「話し手・聞き手」という形而上的・抽象的概念を表し、あらゆる人に適用しうる一般的な語をいきなり作ることができたとは考え難い。言語の初期段階にある彼らは、人称を表わすのにまずは動詞の語尾を変化させる手段に訴えたであろう。

 このことは、例えばラテン語でvent、venisti、venitと言えば、主語を明示することなくそれぞれ語尾変化によって「私は来た」(I come)、「あなたは来た」(you came)、「彼あるいはそれは来た」(he or it came)を表わすことに見ることができる。独立した語としての人称代名詞がつくられるのは、後になってからだと考えられる(Adam Smith1761」

           宮脇正孝『動き出した品詞論―18世紀後半の英国の場合』

 

 アダム・スミスの主張は、日本語の人称詞の成り立ちとも符合します。日本語の「きみ」「ぼく」は君主と下僕という3人称から転用された語です。言語は一般に具体的で限定的な語にはじまり、社会的な広がりとともに抽象的で一般的な語になっていきます。

 言語の起こりを考えれば「一人称、二人称」という抽象的で広く一般に使える概念は三人称よりも後発であることが分かります。人称詞が言語に欠かせないというのは、事実にも論理にも反する面があり、根拠自体が薄弱です。20世紀の言語学が、そういう考えに至らなかったことを不思議に思う人もいるでしょう。

 それには理由があるのです。次の記述を見ると分かります。

 

「言語学会が言語起源論だけでなく普遍言語の創造も禁止していたのだと初めて知った.当時の言語を巡る言説や思想の迷走振りがうかがえる条文である.今考えると,言語学会が言語起源の研究自体を禁止してしまうというのは珍事どころか自殺行為とも思えるが,実際にはこの条文は効果覿面だった.その後,言語起源論は近年に至るまで科学の表舞台からほぼ姿を消したのである」堀田隆一『英語史ブログ』

 

 堀田の指摘するように、言語学会が言語の起こりを論じることを禁止したことは、まさに言語学の自殺行為となったのです。論理的な思考を禁じれば、アダム・スミスが18世紀に示した人称についての考察のようなことができなくなります。その影響は近年に至るもまだ残っています。一人称、二人称の対立を西欧の言語に普遍的なものという見方は、根強くあります。

 

「西洋語では、自己と他者は最も先鋭に対立しているものであり、それが入れ替わるということは想像を絶することなのであろう。…一人称詞、二人称詞の指示対象が簡単に入れ替わるということは考えられない英語の人称詞の用法は、相互行為の場の中で、個対個として自己と他者が対峙する西洋の文化的自己感と深く関わっていると言えるだろう」

   藤井洋子『日本語の親族呼称・人称詞に見る自己と他者の位置づけ』2007

 

 しかし、先に紹介したターニーやミントンの記述にもあったように、Iとyouは必ずしも対立した概念ではありません。だから、youの中には I を含んでいたり、I の代わりにyouを使って表現したりするのです。

 Iとyouは文法化が進んだ抽象的な概念なので、絶対的なものではなく容易に入れ替わります。このことは言語学的に考えると分かります。

 身近な表現を例に説明します。

 

(a)   A: “I love New York.”   A「わたしニューヨークが大好き」

      B: “me too”          B「わたしも」

 

  この会話を、代名詞を使わず、省略もしないで、意味を特定して言い換えます。このとき、me tooというのは、主語を置き換えることを意味するので、次のように表せます。

 

(a)′  A: “A loves New York.”         A「Aはニューヨークが大好き」

        B: “B loves New York, too”    B「Bもニューヨークが大好き」

 

 このように、表現を忠実に厳密に解釈することを、言語学ではstrict readingと言います。(a)ではNew Yorkの意味が特定されているので、(a) ′のようにstrict readingをしても解釈は変わりません。

 

 今度は、下の(b)のように、New Yorkを代名詞youに置き替えた場合を考えます。

 

(b)   A: “I love you.” 

        B: “me too.”

 

  この会話は、一般にA「わたしはあなたのことが大好き」B「わたしもあなたのことが大好き」と解釈すると思われるかもしれません。ところが、この解釈は、strict readingではないのです。

 では、strict readingをしてみます。(a)と同様に、me tooは、元の文の主語だけを置き換えることを意味するとして厳密に読みます。厳密な読み方をするなら、New Yorkの時と同じく、目的語はBのままです。そうすると、me tooは次のように解釈することになります。

 

(b)′  A: “A loves B”  「わたし(A)はあなた(B)が大好き」

        B: “B loves B”  「わたし(B)もわたし(B)が大好き」

 

  主語だけを入れ替え、目的語はそのままに厳密に読むと、me tooは「わたしもわたしが大好き」という意味になるのです。このように、strict readingをしたBの発話 (b) ′は(b)とは異なります。

  つまり、もとの文(b)は、厳密に読まずに、文脈を考慮して主語だけではなく目的語を読み替えるという緩い解釈をして“B loves A”と読み替えているのです。

 このように、緩い読み方を、sloppy readingと言います。sloppyは厳密の反意語で緩いという意味です。

 

 また、同じに状況でyou tooと返すこともありますが、この場合はI loveを省略したと解せます。どちらにしても、“I love you.”と言われたら、“I love you, too”と返せば誤解なく伝わります。

 もとの話し手の発話に人称代名詞が含まれていたとき、“me too”とか“you too”とか人称代名詞を含んだ表現で返せば誤解される場合もありうるということです。

 

 New Yorkのように意味が限定される語が容易に入れ替わらないことと比較すると、代名詞は容易に入れ替わることが確認できると思います。機能語は元の具体的な意味を失い文法性を示すことに特化して広く自在に使えるようになった語です。具体的に指示する意味を限定しないのは機能語の特徴です。英語の人称代名詞は文構成上形式的に置かれる機能語なので、抽象的で汎用性が高く、slopy readingが成り立ちやすいのです。

 「一人称詞、二人称詞の指示対象が簡単に入れ替わるということは考えられない英語の人称詞の用法」というのはまったくあてはまりません。英語の人称代名詞は絶対的に揺るがない性質のものではないのです。「人称」が揺るがないのは、ラテン語のように動詞の屈折で人称が決まる言語の特徴で、それを英語の代名詞に当てはめれば、このような事実誤認が生じます。

 

 旧来の思考の枠組みを壊し、英語の代名詞の文法機能をその根本から見直しましょう。「人称」は屈折言語の特徴に基づいたものに過ぎません。英語のwe、you、theyは「人称」とは全く性質がことなる概念と働きを持った語です。

 

 例えば、2人の間の話し合いで合意ができて、「そうしよう!」となった。このような場合には主語は要りません。だから日本語では、ふつう主語を置きません。ところが、英語は構造的にSVを置く言語なので、ふつう何らかの主語を立てます。

 

   It's a deal. / You've got a deal.

 

 この2つの表現はどちらも意味するところは同じです。二人の間で合意ができたことを表せばいいので、主語を明示する必要はないはずです。つまり、主語に立てているitもyouも特定の何かを指すのではなく、英文を構成するために形式的に置いているだけです。

 形式的に置かれる語と意味内容を示す語との違いは、発音の仕方に現れます。伝えたい内容語dealはしっかり発音します。それに対して意味内容が無い機能語itもyouも早く弱く発音します。It'sやYou'veのように短縮(リンキング/リエゾン)するのも意味内容が無いからです。

 

  語によって強弱をつけるのは、文法化して意味内容が薄れた機能語と、意味内容を示す内容語に機能分化した現代英語の文法的特徴に基づきます。このストレスのおき方は、英文の構造と密接にかかわり、ネイティブ感覚として刻まれています。

 人称代名詞は、ふつうは早く弱く発音し、特に意味内容を示すために使うときに限り、しっかり発音します。このことからも、人称代名詞は第一義的に内容を明示する語ではないことが分かります。

 英語の文法的仕組みと発音の仕方は、一貫した原理でがっちりとかみ合っているのです。科学的な見方とは、このように事実を論理によって裏付けられるものです。

 

 人称パラダイムはラテン語の動詞の屈折に合わせてデザインされたものです。現代英語は、屈折を失い、語の配列と機能語を文法的な仕組みとする言語です。屈折言語から借用した人称パラダイム(枠組み)は、本質的に機能語である英語のwe、you、theyとはミスマッチなのです。

 

 英語の代名詞は「人称」とは性質が異なります。英語話者は「人称」を基準に代名詞を使うことはあり得ません。その言語の話者は、幼少期に接した用例からその文法的特徴を解釈して身に着けます。

 英語のネイティブがもつ真の文法感覚は、実際に使われる英語を観察することによって養なってきたものです。

 

 A magician never gives away their secrets.

                    ――Ben and Holly's Little Kingdom

  (マジシャンは決して秘密を洩らさないものなんだ)

 

 この用例ではtheirは単数のa magicianを受けています。このようにthey、their、themを単数を指して使う用法は幼児アニメではふつうに使われています。しかもそれは数百年前から使われているのです。その歴史的編変遷が分かる記述を翻訳して紹介します。

 

言語学者であるデニス・バロン教授は、オックスフォード英語辞典の投稿で、単数形の「they」の知られている最も古い例が1375年の中世の詩『ウィリアムとウェアウルフ』に見られると述べている。…1386年に、単数の「they」が印刷物に初めて登場してからわずか10年ほどしか経たない内に、ジェフリー・チョーサーは『カンタベリー物語』でそれを使用した。ウィリアム・シェイクスピアもこの用法のファンで、『エラーの喜劇』や『ハムレット』を含むいくつかの劇作品に取り入れた。2世紀後、ジェーン・オースティンは『マンスフィールド・パーク』で単一の実体を指すために「they」を使用した。彼女は1814年の小説で次のように書いている。

  “I would have everybody marry if they could do it properly.”

 何世紀にもわたり、この「they」の用法は文法的に受け入れられていた。状況に応じて、代名詞「they」は複数から単数に移行することができ、それは代名詞「you」と同じだった。18世紀になって初めて文法学者たちは、単数形の「they」が無効であると言い出した。その理由は、複数の代名詞が単数の語を指すことはできないというものだった。しかし、一方でかつては完全に複数形であった「you」がまさにこの変化をしたことは容認されていた。

  Michele Debczak『The 600-Year History of the Singular They』2022

 

 theyもyouもどちらも単数・複数を問わず昔から今に至るまで使われていました。これが生きて使われる英語の事実です。規範文法家たちはyouだけは単数の使用を認める一方で、theyの単数使用は誤りとします。英国では法律で禁じるなど、ラテン語の人称パラダイムに収めようとしてきたのです。

 しかし、結局今日ではtheyの単数使用は容認されています。

 

 もっとも、they、youに限らず、weも単数を指して使います。auther's weと言われる用法は、著者が1人のときでも I の代わりに使うことは一般に認められています。

 

 We have distributed these parts of grammar, in the mode which we think most correct and intelligible.

                                                                                  ――ブラウン1851

(もっとも適切で明瞭であると考える法において、これらの文法上の振り分けを行ってきた。)

 

 この用例はブラウンの文法書から引用したもので、「リンドレイ・マレーは、I(自分)のことを指して、しばしばCompiler (編集者)、まれにAuthor (著者)、ふつうはweを使う。」という解説があります。情報の発信者は一人であってもweを使うのです。

 

  もっと日常的な例では、次のような使い方がよく知られています。

 

  How are we this morning, my boy?  ――CLED

    (ぼうや、今朝の気分はどう?)

 

 これは医者や親などが子供に話しかけるときによく使う表現です。weは話しかける相手つまり二人称単数を指しています。weは一人称複数だけを指す言葉ではないことは、英語のネイティブは幼少期から身に着けています。

 他にもPlease give us a kiss.(キスしてちょうだい)では、usはmeと同じように一人称単数に使います。

 

 このようにラテン語の人称パラダイムという特殊フィルターを通さないで、生きて使われる英語を直視すれば、we、you、theyはいずれも単数・複数に、あるいは人称の枠にとらわれないで自在に使われていることが分かります。

 20世紀の英文法教科書を紹介します。

 

          『A high school English grammar』1922

 20世紀のはじめ頃までは、二人称単数はthou、複数はyouとして位置付けることが主流でした。thouの退潮はシェイクスピアのころにははじまっています。しかし18世紀から20世紀当初ごろまでの文法書では、we、you、theyは複数扱いすると明記していました。

 これら3語に対応する動詞がいずれもareなのは、どれも昔から変わらず複数扱いされていたからです。単数と認識されればyou isのように動詞が単数呼応してもおかしくないはずですが、現在に至るもそうなってはいません。

 

 二人称単数(聞き手)が言語に欠かせないものならthouが消失するという現象と矛盾します。二人称単数が消失しても、複数だった語を代用すれば済むという程度なわけです。形式的に置かれる語だから、二人称単数という意味内容は重要ではないのです。we、you、theyはいずれも単数としても使います。この3語は意味内容を1つの人称に限定して使う語ではありません。

 

 youだけを単数として喧伝するのは、二人称単数として位置付けていたthouが退潮し、一二の三人称と単数・複数によって6つに分類したラテン式人称パラダイムに欠けが生じたからです。「二人称単数は言語に不可欠」としてyouを二人称単数と位置付けたいのです。

 youは単数であるという根拠として、複数の時はyou allを使って区別するというもっともらしいことがよく言われます。一方でthey allがずっと使われてきたという事実は触れられません。

 事実は一目瞭然です。you allをyouが単数である根拠に持ち出すのなら、they allをtheyが単数であるという根拠にすることもできるはずです。自説に都合のいい現象だけを示し、都合の悪い現象は無いことにする。これでは正しい判断はできません。情報化社会の現代に、木ばかり見て森を見ない主張はもはや通用しないのです。

 どちらにしても、現代語のwe、you、theyはいずれも単数・複数を問わず数百年間変わらず、適宜使われ続けてきた語であるという事実、一般論など人称の枠を超えて使われるという事実は動きません。

 

 学生たちの論述文でも見たように、書き手(一人称)を含むことを述べる場合も、we、you、theyを任意に使うことができます。このときtheyは話し手(一人称)を含むときにも使うという事実は見落とされがちです。用例を紹介しておきます。

 

ウェイター:Mr. Garison, we haven’t seen enough of you lately.

ギャリソン:Been too busy, Paul.  Elected men, they can’t have as much

       fun as they used to be.

                               ――『JFK』

ウェイター:(ギャリソンさん、ご無沙汰でしたね。)

ギャリソン:(ずっとヤケに忙しくてね、ポール。選挙で選ばれる身になると以前の

      ようには楽しんでおれなくなるのさ。)

 

 映画JFKからの引用です。ケビン・コスナー扮する、ギャリソンは、地方検事なので、選挙で選ばれます。つまり、このtheyの中には、話し手であるギャリソン自身を含みます。というよりも、実際には自分のことを言っています。

 

 このように従来のラテン式パラダイムから見ると、例外のように見える用例にこそ、we、you、theyの使い分けの原理を探る手掛かりがあるものです。

 

「Exclusive‘we ’と Inclusive‘we ’

 

(a)Let us go back to Spain.(スペインへ帰らせてください)

 

(b) Let’s go back to Spain,(スペインへ帰りましょう)

 

 (a)と(b)は同じ意味になる場合もあるが、(a)のLet usを明確に発音する場合には、話し手を含めない表現になることが多い。

 これをExclusive useと呼ぶ。Let’sの場合は相手を含める。これをInclusive useと呼ぶ。一人称複数の代名詞は日本語においてもExclusiveとInclusiveの両方があり、それが話し相手を含めるかどうかはsituationまたはcontext次第である。」

 村田 年『personal Pronoun ‘We ’の意義と用法及び日本語の相当語との用法の

     ずれについて』1976

 

 村田は「例えば、WeのInclusive useは相手を含めていて、our countryといっても差し支えない。しかし、外国人に対して使うweは相手を含めないExclusive useとなりこの時には注意が必要だという。日本国内で使うときには、自国のことを紹介するという意味になり、基本的には問題にはならないが、外国でour countryというと相手を違うという主張になる場合があるので注意が必要である」と述べています。

 

 これはWe Japaneseと言う表現と同じで、こちらをwe、相手theyとして排除するような表現になるので注意が必要だということです。ミントンは「weを使うとその反対語―つまりthey―が想起される」と指摘しています。

 

 JFKのギャリソン検事がウェイターとの会話でweを避けたのは、Exclusive weとして相手を排除する表現になり、「あんたら庶民と違って選挙でえらばれる身になると」という響きになるからです。公の役人をtheyと表現することで、反対語のweが想起され、ウェイターと同じ側に立つようなニュアンスが生まれます。

 

 weとtheyは機能語として意味が薄れている場合は良いのですが、youほど意味の消失がすすんでいないので、注意が必要ということです。weは発話者に近い存在、それと対立するtheyは発話者から遠い存在であることを示す、ととらえることができます。

 内容で区別するなら、近称のwe、遠称のthey、中立のyouと考えるいいと思います。here、thereのように指示語の類が遠近に対応するのは言葉として自然です。日本語の「おまえ」や「あなた」も場所、遠近に関する語を転用して使っています。

 weが近しい存在を示すとらえれば、子供に声をかけるときにweと呼ぶことも理解できます。ギャリソンが自分が属するはずの選挙でえらばれる人をtheyとしたのは、あえて遠い存在としたという解釈ができます。 

 ある言語の動詞形変化のしくみの説明を、全く別の言語の代名詞の説明に使えば齟齬が出るのは十分あり得ることです。話し手を含むかどうかという人称を定義した概念はラテン語の動詞のパラダイムです。英語の代名詞we、you、theyはラテン語の動詞とは機能も用法も異なり、話し手を含むかどうかに関係なく遠近に応じて使うのは不思議なことではないでしょう。

 

 以上のことを考慮すると、言語環境も教育事情も違う我が国が、ラテン語の動詞の屈折にもとずく6つの主語に分類するパラダイムにこだわる理由はないということになります。一人称、二人称を基盤としたパラダイムは、1つの類型にしかすぎません。現代英語に合ったパラダイムをデザインすればいいでしょう。次の論文の記述は、その参考になります。

 

「もともと補充法的パラダイムを形成していなかった原来の(活格)独立代名詞がその活格的な地位を失ったのちに、新たな1人称独立代名詞egoHが出現した。新しい独立代名詞の出現、とくに1人称代名詞eg/H egoHの特異な構造―最古の印欧祖語代名詞に特徴的な開音節構造に対して複雑な構造―が自己中心的・主体的な性格を示している。したがって、最古の対立は対話的人称―非対話的人称のそれであり、主体的人称―非主体的人称の対立は後の段階に属するものであると推察される。

  [1・2]―3 ⇒ 1―[2・3]

        千種眞一『印欧語における人称表示をめぐって』2009

 

 この論文にあるegoHが現代英語の I にあたります。実は I / my  me  mineと分けると分かりますが、I は他のm-で始まる人称詞とはもともと別語源で、あとから単独で主格に収まったのです。これは標準英語のことで、地方語にはme系の語が主格であった痕跡が残っています。

 

 このように、19世紀のIrishの文法書では一人称単数主格がméになっています。標準英語でも、一人称単数に呼応するbe動詞の現在形がamなのはm-系の名残という説もあります。つまり、I とweは語源的には本来の単数・複数の関係にはないのです。

 補充法的パラダイムとは、本来別々の語を寄せ集めて補充したというような意味です。

 この表は、ラテン語の動詞用にデザインされたパラダイム(枠組み)の中に、語源が異なる英語の代名詞を寄せ集めて創られたものです。色の違いが語源の違いを示しています。例えば、heとherは綴りも発音も極めて近いと分かります。heとherはもともと同じ語源でその変化形なのです。しかしsheはその他の語とは別語源です。人称代名詞は意味内容を失った機能語なので、このような現象が起こりえるのです。

 

 英文法書には英語の人称代名詞の明確な定義がありません。あっても名詞の代わりにするという全く的外れなものです。「人称」と冠していますが、人を指すこととも関係ありません。itは非人称なのに人称代名詞とされ、everybodyやsomeoneは人を指す代名詞なのに人称代名詞とはされません。定義するなら、格変化する代名詞ということになります。なぜ、そうなるかというと、英文法の用語はラテン語文法からの借りものを使っているからです。

 

 「名詞」はラテン語の概念で、その定義は「格変化する語」です。ところが英語の名詞は屈折を失い語形が変化しません。唯一昔の名残で、格変化すると言えるのは人称代名詞だけです。それもshe her herはもともと別語源の語のつぎはぎ、you your youはもともと目的格だったyouを主格にあてたものです。

 上の表から分かる通り、I 、we、sheは他の語とは別語源です。音韻上のつながりがないことは、素人でも発音の違いで分ります。それと気づかないのは、学習の早い段階で I my me mineとお経のように唱えて刷り込まれてしまうからでしょう。つまり、実際にはこれら I 、we、sheは格変化していないのです。だから英語の人称代名詞は、「格変化する代名詞」とは言えず、結局その定義さえできないのです。

 

 「人称代名詞」と呼ばれる語群は、ラテン語の原理に合わせて、寄せ集められたのです。文法用語で補充法と呼ぶのはそういうことです。まともな定義もできず、仮に格変化を定義にしたところで、語源からすれば定義から外れてしまうのです。この表は、現代英語の特徴に基づいたものでもなんでもありません。

 西欧ではラテン語は古典としてなじみがあるので、英語という言語と比較するのに有用だから「人称」を英文法にも使うのです。ところが日本では、ラテン語の知識が無い上に、英文法がラテン語文法をもとに創られていることすら知らない人がほとんどです。もともとラテン語の動詞の変化形に合わせて、寄せ集めて創ったものなので、日本の英文法の説明に使うことに、こだわる理由はありません。

 

 ラテン語の「人称パラダイム」に基づいた表を百年以上使い続けた結果、英語のネイティブとはかけ離れた使用の仕方しか生んでこなかったわけです。英語の人称代名詞の文法機能は、「人称」という内容を示すことではないのです。わが国が学ぶべき英文法を英語の文法的仕組みに合ったものにすることをためらう理由は、惰性の外にはないでしょう。

 

 教育の現場では、現実的な代替案があった方がいいと思います。要は、学習者よりもむしろ指導者の意識改革のためです。では、英語本来のパラダイムを考えてみましょう。

 英語の人称代名詞は、2人称単数主格thouを外すと、2人称単数を欠きます。そうすると、現代英語の人称体系は、この千草論文の1―[2・3]の類型と見ることができます。主体的人称―非主体的人称の対立としてパラダイムをデザインすればいいことになります。

 これはちょうど、動詞形変化に対応する、3つの主語と一致します。つまり、1人称単数 I を主体的人称とし、その他を非主体的人称の単数・複数とすることです。この現象は、現代の標準英語だけでなく、通時的変化からも十分裏付けられるのです。

 中期英語に見られる英国の各地の主語に対応する動詞形変化を見てみましょう。

 

表5.1 中英語におけるsingan(=sing)の直説法現在形の人称変化(南部方言)

      単数     複数

 1人称  singe          singeth

 2人称    singest        singeth

 3人称    singesth      singeth

 

表5.2 中英語におけるsingan(=sing)の直説法現在形の人称変化(中部方言)

      単数     複数

 1人称  singe          singeth

 2人称    singest        singeth

 3人称    singesth      singeth

 

表5.3 中英語におけるsingan(=sing)の直説法現在形の人称変化(北部方言)

      単数     複数

 1人称     sing(e)        singes   

 2人称     singes         singes

 3人称     singes         singes

 

  田辺春美『英語史は役に立つか?―英語教育における英語史の貢献―』2017

 

 南部、中部の動詞変化は同じで、1人称単数singe、2人称単数singestで、他はsingethです。言語類型では[1・2]―3にあたり、対話的人称―非対話的人称に対応していると見なすことができます。

 北部は、1人称単数sing(e)で、他はsingesです。言語類型では1―[2・3]にあたり、主体的人称―非主体的人称とみなすことができます。

 二人称単数thouが退潮したあとの現代英語の人称パラダイムは、対話的人称から主体的人称―非主体的人称へと移行したとみなすことができます。

 

 いずれの地方でも共通しているのは、複数の動詞形は1・2・3人称を区別していないことです。これは、現代の標準英語でも同じです。代名詞のwe、you、theyも、実際の用法では、話し手を含むか含まないかということには関係なく使われます。

 

 現代英語の代名詞を3つの動詞形変化に注目して、主体的人称―非主体的人称パラダイムもとにデザインすることは十分に根拠があります。改めて示すと次のようになります。

 

   主体的人称             I             am

 非主体的人称(単数)  he、she、it                               is     

 非主体的人称(複数) we、you、they                          are

 

 このパラダイムでは、I と youは 対立しません。we、you、theyは「人称」による違いではありません。機能語としては意味内容を失っていますが、内容としては近、中、遠という位置づけになります。

 動詞の変化形が最も多いbe動詞の現在形は、この3種類の主語に対応します。I amが主体的人称で、その他の非主体的人称では、単数扱いする語にはis、複数扱いする語にはareが呼応します。

 

 この新たなパラダイムは、従来の出来合いの英米のものとは異なる説明をするためのものです。英語の人称代名詞の働きとして、「人称」という内容を表示するのは二の次です。パラダイムの位置づけを気にしないデザインの方がその本質が損なわれません。英語の代名詞の文法機能は、英文を構成するための標識なのです。

 従来のパラダイムは、ラテン語になじみのある学習者が使うツールだから有用なのです。従来のツールを使うのなら、ラテン語文法の仕組みを知らない日本人英語講師が教える意味はありません。我が国の英語習得のためには、英語と日本語の人称代名詞の文法的役割の違いを理解することが大切です。ここで示した新たなパラダイムを使って、英語本来の文法的特徴に基づいた文法説明をすることは、日本人講師こそふさわしい役割だと思います。

 

 旧来の人称パラダイムでは、we、theyはそれぞれ一人称複数、三人称複数とされていました。その定義に当てはまらない、話し手を含むかどうかは関係なくまた単数にもつ使う用例は例外とみなされていました。従来のパラダイムでは例外のように見える表現には、真の原理を探るカギが潜んでいるという好例です。

 これは科学の世界ではありふれたことです。惑星の運行が、文字どおり星の数ほどある宇宙の他の星の動きの中では、ほんの一握りの例外現象に見えるのは、地球を中心に回っているという天動説という原理をもとにしているからです。しかし、天動説という枠組みを外して地動説に移行することで、初めて惑星の運行の謎は解けます。

 

 旧来のパラダイム(枠組み)から新しい思考の枠組みへ移行することをパラダイムシフトといいます。この用語法はトマス・クーンが『科学革命の構造』で使用して広まりました。

 実は、それ以前にはパラダイムとは、ラテン語の人称や時制の枠組みなどを意味する用語だったのです。つまり人称や時制の枠組みは元祖パラダイムなのです。

 人称という枠組みを外してwe、you、theyを解き放ちましょう。そうして生きた英語を直視すれば、真の原理が見えてきます。

 

 アインシュタイン革命に遅れること100年余り、学習英文法のパラダイムシフトはまだ始まったばかりというところでしょうか。まあ、ぼちぼち行きましょう。