「正しく伝えるためには文法が大事」と言われることもあれば、一方で「会話をするときには文法的な正しさを気にしないでいい」と言われることもあります。一見すると矛盾するように感じますが、どちらにも理があるのです。

 

 文法的正しさには2つの側面があります。1つは言語学的な正しさで、もう1つは社会科学的な正しさです。

 言語学的な正しさとは、選択を誤れば正確に伝わらず、選択が正しければ伝わるという意味での正しさです。「正しく伝えるためには文法が大事」と言われるのは、主に言語学的正しさが念頭にあるものと思われます。

 社会科学的な正しさとは、標準語など社会的に決められた規則や実際に使われる慣用に合っているという意味での文法的な正しさです。「会話をするときには文法的な正しさを気にしないでいい」と言われるのは、主に社会科学的正しさが念頭にあるものと思われます。

 

 規範的規則どおりではない表現でも、言いたいことは伝わることは実際にあります。社会科学的な正しさを基準にすると文法的に誤りとされるけれども、言語学的には問題ないという場合もあるのです。

 日本語のことを考えればわかりますが、標準語ではなくても、生まれ育った地域では地方語で通用します。「~です」は標準語としては正しい表現ですが、「~だべ」と表現しても言いたいことは伝わります。

 

 例えば三単現のSは、ラテン語の動詞が屈折(語形変化)することを範とした標準語としての規則で、社会科学的に正しいとされる表現です。公的な場や文語で使用するのが適切とされます。

 一方で、現代英語は特立した代名詞などで主語を示す分析的言語なので、動詞の屈折で人称や数を示す必要はありません。言語学的には、動詞語尾の屈折-sを無視しても問題は無く言いたいことは伝わります。

 実際に英語使用国でも主語の人称や数に関係なく-sをつけたり脱落させたりして通用する地域は数多く存在します。

 

 英文法の規範的規則の大半は、ラテン語文法の原理によって決められました。しかし、不幸なことに両言語は文法性(品詞や時制など)を示す仕組みが根本的に異なるのです。

 ラテン語は語形変化(屈折)によって単語の文法性を示す屈折言語

 英語は屈折を失い語順と機能語によって語句の文法性を示す孤立言語

 

 英文法の社会科学的な正しさは大半がラテン語の原理を基準にしています。しかし、それは英語本来の文法的仕組みを基準とした言語学的な正しさとは多くの点で矛盾します。英文法は社会科学的正しさと言語学的正しさの乖離が世界で最も大きい言語の1つと言えるのです。そのため昔から文法の正誤論争が絶えませんでした。

 

 2つの異なる文法的正しさを区別することは、英語の文法事項を正しく理解するためには欠かせません。学習文法をより有用なものにするために、文法的正しさの二面性について掘り下げていきます。

 

 18世紀に英語の標準化が始まって以来、数百年にわたって公教育で規範を徹底してきました。その過程で、それまでふつうに使われていた表現を文法的誤りとして禁止します。この教育を受けた規範意識の高い英語話者は社会的正しさによって「言葉の乱れ」に対して強い不満を持ちます。

 David Crystalは1986年にBBC放送のラジオ番組English Nowに聴取者から寄せられた手紙を英文法に関する不満TOP10」として集計しています。これは規範意識の高い人たちが感じる、言葉使いについの不満をまとめたものです。下に引用します。

 

 この中から文法事項を取り上げて文法的正しさについて検証していきます。

 

 1位(1)のBetweenは前置詞だから主格Iは不適切で目的格を用いるべき、9位(9)の動詞sawの目的語にあたるからwhoではなくwhomにすべきは、どちらも社会科学的正しさが基準です。ラテン語では語形変化で文法性を示すからです。

 英語本来の仕組みでは、(1)はbetweenという機能語で、(9)は動詞の直後という語順によって目的語(格)という文法性が分かります。だから、語形変化(屈折)で文法性を示す必要はありません。言語学的正しさを基準にすると語形変化は無視することは正当なのです。

 (1)のBetweenの後の格変化が、ネイティブが不満に思う英文法の誤りの1位になっているのは、学校教育によって(1)が誤りであると教えられてきたからです。19世紀当時の文法教科書を見ると、そのことがよくわかります。原書で確かめてみましょう。

  FALSE SYNTAX(誤用)としてBetween hin and I が挙げてあります。この教科書が使われていた19世紀は、公教育で英語の標準化が進められた最盛期にあたります。逆に、この時期、英国の各地方では、人称代名詞の格のルールは徹底されていなかったことが分かります。標準化する以前には、どの人称代名詞でも、ネイティブは屈折(格変化)など気にせず自由に使っていたのです。

 この教科書では、Us enjoy…Him and I wentなども誤りとして挙げてあります。以前の記事で紹介したように、地方語(方言)では実際に目的格を主語に使ったり、主格を目的語に使ったりしています。

 

 英語は語順で主語が分かる仕組みだから、ネイティブは格変化を無視し語順によって主語と目的語を判断します。言語学的には、語順をスタンダードとすれば、格の区別は無くても困りません。

 よく知られている例では、youはもともと2人称複数の目的格でした。かつては、2人称単数の主格にはthouという廃れつつあった古語があてられていました。標準語としては目的格とされていたyouは、主語にも使われていたわけです。それはyouに限らずthemも同じことで主格にも使われていました。

 ThemもYouも元々目的格複数で、どちらも主語として用いられたのは、語順をスタンダードとすれば、意味が正しく伝わるからです。つまり言語学的にはどちらか一方だけを正しいとし、他方は誤りとするのは矛盾します。

 

 現代英語は1500年ごろに屈折(語形変化)をほぼ失い、それに代わり語順によって文法性を示す仕組みの言語に変化しました。格変化も屈折の1つですから、以前は一般の名詞も格変化していました。それが今では失われ、人称代名詞に名残として残っているのです。

 今日標準とされる人称代名詞も、youもitも主格と目的格を兼ね、herは所有格と目的格を兼ねています。このように人称代名詞の格変化が不規則なのは、本来廃れていく格変化を教育によって守ろうとしているからです。

 

 鈴木雅光は、上に挙げた教科書とほぼ同時期の文法教科書にあるfalse syntaxとして生徒に訂正させる例を紹介しています。一部を引用します。

 

  Us must study.

  Him and me are of the same age.

  Whom was there.

(Systematick Lectures on English Grammar, on a New and Highly Approved Plan, 1836)

                                                      鈴木 雅光『規範、違反、批判』2014

 

  この教科書でも、目的格を主語とすることを誤りとして、矯正しているということが分かります。標準化教育について、鈴木は次のように記しています。

 

 当時は「いかなる規則やいかなる規範の例を与えるよりも、不完全な作文を適切に選ぶことの方が、文法を学ぶ若者にとってためになる」という Murray の意見が、影響力があったので、誤文訂正問題が流行することになる。

 この結果学校教育で教授されるものは、標準語と言われ正しいもの、標準語に選ばれなかったものは、方言と言われ正しくないものとして、蔑まれる雰囲気が醸成されて行った。」 

                   鈴木 雅光『規範、違反、批判』2014

 

 (1)のBetweenは前置詞だから主格Iは不適切で目的格を用いるべき、(9)の動詞sawの目的語にあたるからwhoではなくwhomを用いるべきというのは、いずれも標準化教育によって植え付けられたのです。

 

 米語辞書の編纂で有名なNoah Websterは1789年の著書『Dissertations on the English language』で「口語ではwhomなんて使わない。whomが正しいとされるのは、ラテン語の影響に過ぎず、whoを使った表現はgood Englishである」と明言しています。このwhomの正誤論争が、少なくとも200年以上続いてきたのは社会科学的な問題だからです。

 格変化はしなくても意味は伝わるのですから、ネイティブの中に目的格として主格のIやwhoを用いる人がいるのは不思議なことではないわけです。代名詞の格の区別は社会科学的正しさですから伝えるための言語学的正しさとは関係ないので、信条によってしか正しさは決まりません。

 

 現代英語は1500年ごろに屈折(語形変化)をほぼ失い、それに代わり語順によって文法性を示す仕組みの言語に変化しました。格変化も屈折の1つですから、以前は一般の名詞も格変化していました。それが今では失われ、人称代名詞に名残として残っているだけです。

 ネイティブが格変化などの語形変化をしばしば無視するのは屈折の消滅という現代英語の一貫した流れです。言語学的には正当なもので、単なる言葉の乱れではないのです。一方で標準化の論理から言えば、言葉の乱れになるので、社会科学的には文法的誤りと言うことになるのです。廃れゆく屈折をめぐる、文法規範と実使用との乖離はずっと昔からあるのです。

 

 4位(4)None of the cows (are / is) in the field.はどちらを選択しても「畑には牛は1頭もいません」という意味に正しく伝わります。試しにChat CPTにそれぞれを和訳させると同じ意味に訳しました。主語と動詞の数の一致は、標準語の規則としてされているのです。

 格変化と同じく、教育で矯正しています。鈴木は先ほど挙げた教科書について、次のように記しています。

「動詞は主格と、数と人称において一致するが、false syntax の例として、以下のようなものをあげている

 

They was here, yesterday.

 When was you there.

 I were there yesterday.

 We was disappointed.

                   鈴木 雅光『規範、違反、批判』2014

 

 近年標準用法と認められたtheyの単数使用では、単数を表す場合でも対応する動詞はare、wereとされています。これはもともとが複数であったyouも同じで、単数を指す場合でもare、wereという本来複数に対応する動詞のままです。

 動詞形変化も名詞の格変化と同じく語の屈折です。現代英語は代名詞や他の名詞や文脈で主語が分かるので、動詞を主語に合わせて屈折させる必要はないのです。上に「誤り」としてあげられているthey was、we wasなどは、実際に地方語で通用しています。標準語では、youもtheyも単数を指す場合でも動詞はare,wereのままで通用しています。

 

 正しく伝えるために、屈折はたいして問題にはならないので、ネイティブでもくだけた会話では、標準語の通りに使わない人はいます。つまり、格や主語の数に応じた動詞の一致は、言語学的な正しさを基準にすると、特に問題はないわけです。

 しかし、ラテン語文法に準じる学校文法では、屈折を社会的な規範として重視します。だから、標準語として社会的に教育して普及させてきたのです。主語の数と動詞の一致は、noneには単数のisを対応させるべきという標準化のための社会科学的な正しさです。

 

 10位(10)の二重否定について、「否定の否定は肯定になるはず」ですが、それを否定の意味で使うと、聞いた相手は肯定なのか否定なのかわかりづらくなるという問題です。実際に使う人はいるのですが、言葉の選択によって意味が正しく伝わらないことがあるので、基本的には言語学的な問題ということになります。

 ただし、言語学者によっては、notとnothingを使うのは強意の否定文で、二重否定ではなく多重否定とする人はいます。実際にかつてはふつうに使われていました。言語学的に正だしいとする主張も誤りとは言い切れないのです。

 

 文法的正しさは、その言語話者の間で意味が通じるかどうかで結局きまります。言い換えると、その時代の社会的コードとなっているかどうかです。長いスパンで見ると、言葉は変化するので不変の規則や絶対的な正しさはないのです。英語は屈折言語から孤立言語へ変化した事実は、そのことを物語っています。

 いずれにしても、多重否定という現象があるということを知っておかないと解釈するときに戸惑うかもしれません。母国語を考えると分かりますが、言葉には知っているけど自分では使わないということはだれしもあるはずです。このような場合もそう理解しておくといいと思います。

 

 5位(5)について、以下の例文をもとに考えていきます。

(a)   My taste in music is different (to / than / from) yours.

(b)   He ran (to / from) the house.

 

 用例(a)では(  )内のどの前置詞を選択しても「私の音楽の好みはあなたのとは異なります。」という意味だと正しく伝わります。言語学的な正しさではなく、社会科学的な正しさの問題です。

 用例(b)では、toを選択すると「彼は走って家へ帰った」という意味になりfromを選ぶと「彼は家を出て走った」という異なる意味になります。この場合は言語学的な問題で、正しく使わるためには適切な選択が必要です。

 differentの後の前置詞は標準語ではfromとすることになっています。実態として口語で、toを使うのは主に英国でみられる用法です。thanは中でも主にScottish、Irishで使われます。最近の調査によると、英国では語彙、文法形式で標準語を話す人は全人口の15%としています。

 

 3位(3)only、8位(8)hopefullyはどちらも副詞の適切な位置の問題です。

  (a) I only saw Fred.

  (b) I saw only Fred.

 「フレッドだけを見た」という場合onlyはFredを修飾するという意図なので、修飾する語の直前にonlyを置く(b)が正しい選択だということです。これに対して(a)ではonlyはsawの直前にあるので「見ただけ」というような意味に解釈される場合もあり得ます。適切な位置に置かないと意図が正しく伝わらないあるいは意味が曖昧になるということです。副詞の位置の問題は基本的には言語学的な正しさと言っていいでしょう。

 ただし、onlyの位置を正しいと認識するのは社会科学的な価値観がないとは言えません。文法書『A systematic text-book of English grammar』1839にはFalse grammarとして次の2文が挙げられています。

 He only struck me.

 He struck me only.

 このように誤った例として注意が必要になるということは、実際にはこのような語順で使う人もいたということになります。Chat GPTで翻訳させると、正しい位置とされる文と同じ訳になりました。だから意味が曖昧ではあっても通じないわけでもないから使われているのでしょう。一応は言語学的な正しさに根拠があるとしても、教育によって正誤を教えられたことからonlyの位置について文法的な不満が生まれていると言えます。このonlyの位置が3位に入っていることから、教育による矯正がいかに強かったかが伺えます。

 

 8位(8)hopefullyの位置が問題になるのは異なる2通りの使い方があるからです。

(a) She smiled hopefully at the audience, hoping to win their support.

(b) Hopefully, the weather will be nice for our picnic tomorrow.

 

(a)「彼女は期待を込めて観客に微笑みかけた。」

(b)「明日のピクニックの天気が良ければいいのですが。」

 

 用例(a)では動詞smileを修飾しているためにその直後に置かれています。それに対して(b)では文全体を修飾しています。動詞を修飾するときには動詞の直後に置き、文全体を修飾するときには文頭に置くというのは、言語学的には正しいと言えます。先にみたonlyの位置によって修飾関係を明確にすることと同じですから。

 ではなぜ(a)は容認され、(b)が問題とされているかというと、文修飾のhopefully は1960年ごろから使われ始めた新しい用法だからです。Crystalによる調査は1986年のものですから、使用され始めてから一世代しか経過していなことになります。言葉は世代によって語感が変わることが多々あるので、一世代というのは言葉の変化の歴史という尺度ではとても短いと言えます。

 言語の厳格な使い手たちは、文修飾の「hopefully」が流行することを好まず、後に「hopefully」が文を修飾することが日常的な会話表現として普及しても、反対意見を持ち続けているのです(American Heritage Dictionary)。

 

  現在ではどちらの用法も辞書に載っています。ロングマン英英辞典から引用します。

 

1 [sentence adverb] used when you are saying what you will happen

2 in a way that shows that you are helpful

 

 1の意味として文修飾副詞が載っています。頻出度はS1となっていて口語では再頻出語に属します。この2つの用法はそれぞれ語を修飾する副詞と節(文)を修飾する副詞ですから、修飾する用途に応じて適切な位置に置かれています。にもかかわらず、文法に対する不満8位に入っていたのは、聞きなれない新しい用法だからという社会科学的な正しさが基準だからです。

 

 ただし、文法的に正しいとは認めない人たちにも言い分はあります。hopefullyと同じような意味を表す表現として元々we hope thatという表現があるので、文修飾副詞として使う必要がないとも言えます。新興表現が言葉の乱れとみなされるのは標準語を持つ言語には付き物です。流行していることは知っているけど自分では使わない、ということがあってもいいと思います。

 

 2位(2)の「分離不定詞は避けるべきである」と6位(6)の「前置詞を文末に置くべきではない」について、生成文法の立場の言語学者スティーブン・ピンカーの記述から紹介します。

 

 現代英語の話し手に、ラテン語がそうなっていないという理由で分離不定詞を禁じるのは、現代の英国人に月桂冠と寛頭衣を着けさせるのと同じぐらい無意味なことだ。ジュリアス・シーザーは、不定詞を分離したくてもできなかった。ラテン語の不定詞はfacereとかdicereのように、統語体系の原子としての単一語だったからだ。

 英語はラテン語とは言語の種類が違う。複雑な構造の単語を自由に並べる言語ではなく、単純な単語を構造的に配列する孤立言語である。不定詞も補文標識のtoと動詞の二単語で構成されている。単語はその定義上、配列しなおせる単位であり、二つの単語の間に副詞を入れてはいけない理由など、なにもない。

 

  宇宙――最後のフロンティア……宇宙船「エンタープライズ」がはるかな宇宙

 を目指して、五年間の旅に出る。未知の新世界を探索し、未知の生命体や未知の

 文明を発見するという使命を帯びて、人間が未だ足を踏み入れたことのない世界

 へ、勇敢に乗り出していく(to boldly go)。

 

 これが「to go boldly」では少しも勇敢そうに聞こえない。「ここには知的生命体はいないらしい、帰還するぞ」とさっさと帰ってしまいそうだ。

 文を前置詞で終わらせてはいけないというルールにしても、ラテン語の格標識体系ではこれができない立派な理由があるが、格が乏しい英語にはその理由は通用しない。そんなルールに縛られる必要など少しもないだろう。

         スティーブン・ピンカー『言語を生み出す本能(下)』1995

 

 この記述にあるように、(2)「分離不定詞は避けるべきである」と(6)前置詞を文末に置くべきではない」はラテン語にはないからという理由で、規範文法が禁則にしたのです。ピンカーは同書で、規範文法の不合理なルールを「ラテン語の鋳型」にはめた「化けものルール」と呼び、その典型例としてこの2つのルールを挙げています。これらは、理想の言語とされるラテン語に合わせて決められた規則、つまり社会科学的正しさを基準としています。

 

 (2)について、ラテン語と英語の不定詞を比較すると次のようになります。

  dice-re  (動詞現在幹+語尾re)  to say (機能語to+内容語)

 

 ラテン語は語が屈折(語形変化)して品詞を示します。英語は独立した機能語toが後置する内容語が不定詞であることを示します。語尾-reが機能語toに相当することになります。ラテン語の不定詞は1語だから分離するのは不自然ですが、英語は2語だから、間に修飾語を入れることができます。

 (3)の「副詞は関係する語の隣に置くべき」という理屈が正しいとすれば、「to boldly go」も語順には問題ないはずです。ピンカーは「to go boldly」では「少しも勇敢そうに聞こえない」と言っています。英語は語順が重要なので、言語学的に正しいのにその自由を制限されるのは不満なのでしょう。

 

 英語では[機能語+内容語]は一般的な型です。例えば、進行形[is+~ing] はこの構造です。」このとき、[is always complaining]のようにisとcomplainingの間に副詞alwaysを入れるのは自然です。 [機能語+内容語]で一つのまとまりがあるとしても、その間に修飾語を入れることは自然で、それを分離進行形とは言いません。

 ピンカーが指摘するように、英語は単純な単語を構造的に配列する言語なので、その論理に従って語を配列します。語順によって文法性や意味が変わる英語にとって、語を適切な位置において意図を伝えようとすることは言語学的には正しいと言えるのです。

 

 (3)について、[前置詞+名詞]も[機能語+内容語]という2語構成されます。機能語と内容語は独立した語なので、分離することは可能です。記述文法では、informalではあっても、実際に使われるとして認めています。

 

a. He was the one with whom she worked.  (FORMAL) 

b. He was the one she worked with.  (INFORMAL)

  Rodney Huddleston, Geoffrey K. Pullum『A Student's Introduction to

   English Grammar』2005

 

 この例ではa.の規範的な型ではwith whomを分離しないで一体として前に出しています。

 b.の慣用される型では、He was the oneで文がいったん完結し、その後に続くSVはthe oneを説明していることが分かります。英語は基本的に語の配置で文法的働き(品詞)が決まるので、whomはなくても問題ありません。

 意味的にはwithの後にはthe oneが来ますが、前出なので必要ではありません。結果として分離して残っています。しかし、worked withは一緒に働くという意味のまとまりになっていると考えれば不自然ではありません。

 

 全く仕組みの異なるラテン語文法にはないからという理由で、分離不定詞や前置詞の文末に置くことを禁則にするのは、言語学的には正当とはいえません。規範文法が規則で禁止にしても、英語の文法的特徴には合致しないので、多くのネイティブは、実際にはどちらも使ってきたのです。

 言語コーパスと情報環境の変化によって、実用されることが明白になっているので、近年では(2)も(6)も慣用を認めるようになっています。

 

 以上「英文法に関する不満TOP10」にある文法事項をいくつか見てみましたが、総じて、言語学的な正しさよりも社会学的な正しさを基準に問題とする方が多いことが分かります。標準英語は、実際に使われてきた表現を文法的誤りとして教育により徹底して排除しているのです。それは言語の標準化にとって必要なプロセスですから、その言語の話者が是非を言うべきことではありません。

 

 ただし、学校文法は標準英語をベースにしているため、その文法説明には社会科学的な正しさと言語学的な正しさが混在していることは基本として知っておくべきです。標準英語はラテン語を理想として文法規範が創られています。だから英語のネイティブの中には、言語学的正しさを直感的に理解し、規範は実際に自分たちが使っている言葉とは違うと、反発する人がいるわけです。

  一方で教育で教え込まれた社会科学的な正しさを受け入れている英語話者は、標準語にはない表現をことばの乱れとして不満に感じます。英国では、ドイツやフランスのように文法的正誤を判断するアカデミーのような公的機関は、設置されませんでした。英文法規則に関して、時に数百年間激しい論争になってきたのはそういった事情もあるわけです。

 

 これまでのわが国の英文法では、規範文法の影響を過小評価しているのではないかと感じることがあります。ネイティブの間では論争があり、なかなか無視できなものなのです。ピンカーは次のように記しています。

 

規範的ルールはいったん導入されてしまうと、いかに滑稽でも根絶することが難しい。…身をもってルール破りの手本を示す勇敢な人がいたとしても、読者は自分の行動の意味を理解してくれるだろうか、単に無知なやつと思われるのではなかろうか、とつねに不安でいなければならない。告白すると、これが理由で、分離してしかるべき不定詞を分離しなかったことが何度かある(ピンカー1995)

 

 分離不定詞は、アニメPeppa Pigのネタにもなるくらいある意味有名な文法事項です。英米では昔から論争の的になっています。しかし、日本では2022年の京大の入試に分離不定詞(split infinitive)が登場ことで教育業界の話題になりました。入試に出題されない文法事項はほとんど注目されないのです。

 『言語を生み出す本能』が出版されたのは1995年です。京大入試に登場する27年前です。また、 QUIRK et al が文法書CGEL(1985 :496-498)で、分離不定詞の持つ特長を評価してその使用を擁護してから37年たっています。CGEL1985は20世紀の最高峰と称される文法書で、専門家ならだれでも知っているはずです。

 

 情報化進んだ現代で、英語教育に携わる人たちが、その英語に関する情報に疎いのは、なんとも皮肉な現実だと感じます。

 今世紀に入り、従来の規範的規則は見直されています。状態動詞は進行形で普通に使うし、英米の文法書では使用を認めています。be going toはその場で決めたことにも使います。英語で書かれた論文や記事、アニメや映画などからでも情報は取れるのです。

 

 納得できない文法事項の多くは、実際に詳しく調べてみると、標準語として決まっている規則で、言語学的な根拠ではないものが多いものです。標準化は、まちまちに使われている表現を、規範的規則を作って統一するということです。規範から外れた表現は、社会科学的な正しさを基準にして、誤りとします。つまり、その多くは実際には使われているということです。

 その典型例が三単現のSです。それは廃れてきた動詞の屈折を規範で守ってきたものです。言語学的な正しさではないので、違和感を抱く人が多いのはもっともなことだと言えます。むしろ言語感覚が優れている証拠です。社会的に標準語ではsを付けることになっているので使うことに越したことはないのですが。

 

 言語は変化するもので、人の語感は世代や地域、社会的立場などによって異なります。本来の自然言語は多様です。それを標準化しようとすると、必然的に社会科学的な正しさを基準にした文法が生まれます。その文法事項が言語学的正しさと矛盾することもあるのです。

 文法的正しさに二面性があることを意識することは、文法学習を進める上で重要なことです。2つの文法的な正しさを区別れば、文法的な正しさをめぐる不毛な正誤論争を避け、建設的学習文法にすることができます。21世紀に相応しい英文法を構築するには欠かせないと考えています。

 

 最後に科学的な知見をといれた海外の英文法学習書の前文にある記述を抜粋して紹介しておきます。

 

 This book is mainly concerned with the first kind of ‘correctness’: 

the differences between British or American English and ‘foreign’ English. However, there is also information about cases of divided usage in standard English, and about a few important dialect forms.

 Note also that ‘mistake’ is a relative term. The mistakes listed in this book are wrong if produced by someone aiming to write standard British or American English. They would not necessarily be incorrect in some other varieties of the language.

                                            Swan『Practical English Usage』2016

 

                了

 

 

 

 

 英語の格については、以下の記事で詳しく解説しています。

なぜ、英語のネイティブはwhomを使わないのか | しんじさんの【英文法を科学する】脱ラテン化した本来の英文法はシンプルで美しい! (ameblo.jp)