言語は地域によって多様で時代とともに変化します。これが言語の「あるがままの姿」です。標準語は本来多様な表現を制限し固定化することではじめて成り立ちます。学習用の辞書や文法書は標準語の言葉使いを基本としているので「あるべき姿」です。
「あるべき姿」は変わりゆく「あるがままの姿」の一部を切り取ったもの。現代が伝わる仕組みを描くには、「あるがままの姿」の視点で「あるべき姿」を取り込めばいい。
英語の本格的な標準化は、「正しい言葉使い」「語義の統一」を求める社会的機運が高まった18世紀中ごろに始まります。その象徴は、Samuel Johnsonの辞書 A Dictionary of the English Language (1755)とRobert Lowthの文法書A Short Introduction to English Grammar (1762)です。両書にある記述をそれぞれ和訳を付して引用します。
Those who have been persuaded to think well of my design, require that it should fix our language, and put a stop to those alterations which time and chance have hitherto been suffered to make in it without opposition.
「私の構想を好意的に理解してくれた人々は、この辞書が我々の言語を確たるものにし、これまで時間と偶然が何の抵抗も受けずに言語に加えてきた変化を食い止めてくれることを望んでいる。」
――Samuel Johnson1755
The principal design of a Grammar of any Language is to teach us to express ourselves with propriety in that Language, and to enable us to judge of every phrase and form of construction, whether it be right or not. The plain way of doing this, is to lay down rules, and to illustrate them by examples.
「どの言語の文法書も最も重要な目的は、その言語において私たちが適切に自己表現できるように教え、またどの語句・文の構造が正しいのかを判断できるようにすることである。この目的を達するための分かりやすい方法は、規則を定め、それを例によって示すことである。」
――Robert Lowth1762
これらの記述から、辞書や文法書に求められている役割は、変化する言語を規則で定めて固定化することだと分かります。辞書や文法書は「あるべき姿」を示すものであることは時代が下っても基本的に変わりません。
今日の日本で広まっている「英文法」は母語話者が実際に使う「あるがままの姿」を加工して創作した「あるべき姿」が根底にあります。文法規則は、変わりゆく「あるがままの姿」を固定化するために、切り取って加工したもの「あるべき姿」です。「英文法規則」は公の場で使う文語として望ましい規則集ですから、それは英語話者が様々な場面で使う英語の「あるがままの姿」のうちの一部に過ぎません。つまり、特定の人々、地域、階層で使う表現などくだけた場面で使う言葉は、規則とは隔たりがあることは当然です。
一般に文語は変化し難く、口語は変わりやすいという傾向があります。公で使う言葉の規則を固定化するのは、社会で広く使われるようにすることが目的です。若年層の一部の間で口語として使われ始めた新たな表現がやがて社会で広く普及すると、「誤用」から「正用」へと変わる。これまでもよく見られた現象です。それは、「あるがままの姿」が変われば、それに応じて「あるべき姿」も改訂されることを意味します。
具体的な事例で考えてみましょう。「時・条件を示すif節中の動詞形」について、「あるがままの姿」と「あるべき姿」を更新していきます。その様子は、「あるがままの姿」が変化するという視点に立つとよく分かります。
19世紀の英文法の教科書では「条件を示すif節中では原形を使う」ことが正用とされていました。当時は「if節中で現在時制を使うことは誤りである」と教えていたのです。もちろん、21世紀現在では「現在時制を使用することが正用である」とされています。
具体例で言うと、「もしも~なら」という仮定を表現するのに、昔はIf it be…と言い、今はIf it is…と言うように変わったのです。If it beとIf it isの実際の使用率の変遷を比べてみましょう。
グラフから分かるように、教科書でif it beが正しいとしていた19世紀(1850年以前)はbe(原形)の使用が優勢でした。一方で誤り(false)と教えていたif it is(現在形)も一定程度使用されていたことが見て取れます。当時の「英文法」では、新興表現として発達したif it is(現在形)の使用を「言葉の乱れ」として「あるべき姿」を示したのです。
ところがその後、新興表現のis(現在形)の使用がさらに広がっていきます。20世紀に入ってis(現在形) の使用が明らかに優勢になると、if it isを正用とする規則へと改めたのです。「時・条件を示すif節中では未来のことでも現在形を使う」という規則はこうして創作されました。動詞の原形(if it be)は旧表現として隠居します。勝てば官軍。「あるべき姿」の正当性は、結局のところ「みんなが使うから」。その他の一見すると言語学的ば理由はたいてい後付けです。
類似表現の新旧交替は時に数百年にわたります。完全に交替するまでの間の「あるがままの姿」は「beもisもどちらも使われていた」です。たいていの場合、新興表現は若年層の口語から広がり、やがて若年層の年を重ねるので時代を経るに従い広く社会に普及していきます。英語に限らず「今の若い者は言葉使いを知らない」とか言われてきたのです。「beが正用」「isが正用」「beとisを使い分ける」などの規則はいずれも「あるべき姿」として固定化しようという試みです。明瞭な基準によって創作された文法規則は「あるがままの姿」ではないことは言語の常識と言っていいでしょう。
一時期の使用頻度を優先して固定化するために創作された文法や語法の規則は必ず‘誤り’あるいは‘例外’例外を生みます。新興表現を‘誤り’‘例外’として扱う「あるべき姿」の規則に固執すると、時と共に「あるがままの姿」と乖離し陳腐化していくのは必然です。
「状態動詞を進行形で使う」「I’m going toをその場で何をするかを決めた時に使う」「Can I…?を許可の意味で使う」などの現象はいずれも新興表現です。そのことは情報環境が整った今日では使用率の推移を誰にでも分かります。
一部の学参を含めた英語ビジネスの売り文句「目からうろこの簡単明瞭な使い分け規則の説明」は「必ずもうかる株銘柄」と同じ類で実在しません。そもそも使い分け規則は「あるがままの姿」が明瞭ではない類似表現を対象に創作するのですから。
仮に1750年に「If it isがなぜ現在形なのか」なんて説明し始めれば、「いやいやIf it beが正しいでしょ」で終了。「状態動詞が進行形にならない理由は…」と学参に書いてあれば、「いやいやそれは状態動詞進行形が発達する1960年代頃に広まった規則。今や新興表現として状況に応じて使うでしょ」ということです。固定化するための規則が正当な理由は「みんなが使うから」の他になく、その他の理由は一時しのぎで「あるべき姿」を強化する新たなウロコを追加しただけ。そのウロコはむしろ「あるがままの姿」を見えなくしてしまうことになります。
事実を直視しましょう。類似表現の一方を禁止して創作した「あるべき姿」は「あるがままの姿」と違うのは当たり前。現在の公的な標準英語は基本的に「あるべき姿」の方。それに準じて書かれた市販の「英文法」学習書も「あるべき姿」の方。市販の文法書には現代英語の「あるがままの姿」はそもそも書いてありません。長年にわたり「あるべき姿」から排除され使用禁止されてもなお母語話者が使い続ける表現にこそ、「あるがままの姿」が反映している。
そう考えて、このブログでは標準語という狭い視野にとらわれないで現代英語の「あるがままの姿」を真正面から描くことを目指して書いてきました。「you、theyなど人称代名詞の文法的働きは指示性を失った形式的な主語」「the、that、theyなど指示詞類には特定と不特定の用法がある」「going toはその場で決めた意思で使う」「mustとhave toは主観的な想いと客観的な状況では使い分けない」などは、「あるがままの姿」の方。
これら「あるがままの姿」の説明は、古典語の仕組み「あるべき姿」を示した従来の「英文法規則」のバラバラ説明ではなく一貫した法則に基づいています。「英文法」は固定化するための人為的に創作した規則集です。一方、英語ネイティブが使う英語の「あるがままの姿」は多様で変化します。つまり「現代語が伝わる仕組み」を描くには「言語変化の法則」を使えばいい。
生成AIに「言語変化」について尋ねると即座に回答します。英語を例にして回答を求めた結果を以下に紹介しましょう。
1. 主観化(subjectification)
語が「客観的な意味」→「話者の主観的判断」を表すようになる変化。
例:must
古英語:外的な義務 "You must obey."(義務)
現代英語:話し手の推量 "You must be tired."(主観的判断)
2. 間主観化(intersubjectification)
聞き手への配慮や対人的機能を強める方向への変化。
例:please
語源:pleasure(喜び)←「~を喜ばせる」
変化後:"Please open the window."(依頼・聞き手への配慮)
3. 文法化(grammaticalization)
語彙語 → 文法的な要素へ。
例:be going to → gonna
元の意味:go(移動)+ to(目的)
I am going to the market to buy food.
文法化:未来表現
I’m gonna leave soon.
4. 語彙化(lexicalization)
語構成が固定化し、ひとまとまりの語として扱われるようになる。
例:nonetheless, nevertheless
元々:never + the + less(句)
現在:一語として辞書に載る固定語彙
5. 意味の漂白(semantic bleaching)
例:very
語源:verray(true / real)
漂白後:強意の副詞 “very good, very tall”
6. 比喩化(metaphorization)
具体的 → 抽象的な意味へ比喩的に拡張。
例:grasp
元の意味:物理的に「つかむ」
比喩的:"I grasp the idea."(概念を理解する)
7. メトニミー化(metonymization)
隣接関係(因果・部分全体など)に基づく意味拡張。
例:dish
元の意味:皿(容器)
メトニミー:"a delicious dish"(料理そのもの)
8. 再分析(reanalysis)
文法構造が再解釈されることで新しい形・機能が生じる。
例:a napron → an apron
napron(古語)
境界の誤再解釈(a napron が an apron と解釈された)
結果:apron が新しい語として定着
9. 類推(analogy)
他の語形・パターンに引きずられて新しい形が作られる。
例:helped に倣った不規則動詞の規則化
伝統的:weep – wept
類推:weeped(規則動詞化;一部方言・歴史的資料に見られる)
10. 脱文法化(degrammaticalization)
文法的な要素 → より語彙的・独立した要素に(非常に稀)。
英語では明確で強い例は少ないが、部分的な例として:
例:ish
元:接尾辞(reddish など)
脱文法化:独立語として使用
“How was it?” → “It was good… ish.”
――ChatGPT
この言語変化の法則は、「あるがままの姿」にある多くの現象を説明できます。それは、「規則とその例外」フォーマットの羅列で「あるべき姿」示す従来の“文法説明”とは全く異なる視点です。いくつかの文法事項を取り上げてみます。
上の生成AIではmustを主観化の例として挙げています。「~しなければならない(義務)」という客観的な状況を表す用法から、「~にちがいない(断定)」という主観的な判断を表す用法に拡大したということです。
主観化、間主観という用語の分類や学術的な定義はともかく、ここでは少し緩くとらえておきましょう。要は言語学用語を厳密にすることではなく言語を変化するものとしてとらえるのに利用しようというわけです。
大きく見ると、言語変化の流れの1つに「客観的事実を示すことから主観的な想いへ」があるということ。主観的な想いとは、欲求、判断、人への配慮などを含意します。
まずは、wantを例にしてみましょう。wantはもともと「欠如」という意味でした。その名残は名詞としての用法です。
For want of a better word, I’ll call it “strange.”
(もっとよい言い方が見つからないので、「strange」と呼んでおく)
このブログで何度も言ってきたように、現代英語は「語の配置」が文法性を持ちます。for wantという配置から、wantが名詞と見做していいでしょう。wantを動詞に替えるには、配置を変えるだけで大丈夫です。
話し手がSVOの型のVにwantを配置して I want waterとすればwantは動詞となります。この表現から「私(は)、欠いている、水(を)」という事実が伝わります。この言葉を聞いた人が、「この人、水が無いから困っているのでは」と話し手を思いやることはありえるでしょう。
日常交わされる言葉は、字面の意味だけにとどまらず、場面に応じて言いたいことを伝えます。元は話し手が「わたしのところには水が無い」という事実を述べたI want waterを、聞き手が「私は水が欲しい」という話し手の願いと解釈することがあるわけです。
今日広く知られるwantの用法は「必要とする」「欲しい」という意味の動詞です。つまり、元の「モノがない」という客観的な事実から「モノが欲しい」という主観的な想いを表す語に変化したとみることができます。
wantの意味変化を反映した表現の使用率の推移を見てみます。
グラフから、「欠如」という客観的事実を示すfor want ofと比較して、「欲しい」という主観的な意味を示すI want toは比較的新たな表現だと分かります。wantの名詞から動詞へという新旧用法の交替が起きたのは1700年頃から20世紀にかけてです。
このことから、辞書にある単語の品詞とはある時期に優勢は用法を「あるべき姿」として分類し固定化したものだと分かります。単語の品詞の「あるがままの姿」は分布し変化するのです。「今は願望を示す動詞として使う人が多い」という見方になります。
また、Do you want…という表現が顕著に発達するのは21世紀になってですから、動詞のwantはまだまだ新興表現であると言っていいでしょう。Do you want…は字面の「~したい」という疑問から、今日では「~しようよ」という勧誘表現へと用法を広げています。
これは、上で生成AIが示していたpleasure(喜び)から"Please open the window."(依頼・聞き手への配慮)への変化と同じ「間主観化」です。その変化の裏にあるのは、新たな用法を生む人の創造力、新たな解釈をする人の想像力ということ。
言語変化は特定の語についてだけではなく、動詞形についても当てはまります。たとえば、想いを表す動詞を、単純形から進行形にした場合です。
I’m hoping you can help me with this.
「これを手伝っていただければと思っているのですが。」
I’m wondering if you could join us.
「ご参加いただければと思っているのですが。」
これらは、単純形のI hopeやI wonderと比較して、「聞き手へ配慮した」表現になります。これは「間主観化」です。つまり「事実」から「想い」へなどの言語変化は、特定の語に限らず、動詞の語形にも起こることを示唆します。
これらの事例を改めて一般化すると、「客観的事実を示す表現が、主観的な想い(意思・判断・配慮など)へ派生あるいは変化する」と言っていいでしょう。
他にも生成AIは言語変化の法則として「語彙化」を取り上げていました。その例として、nonethelessを挙げています。これはnone+the+lessという構成が固定化し、ひとまとまりの語として扱われるようになった例です。その一部であるnoneがそもそもno+oneがひとまとまりになって語彙化した語です。
面白いことにno oneは単数扱い(be動詞ならis、wasで受ける)しますが、語彙化が進んだnoneは単数・複数のどちらにも扱います。19世紀の文法規則では、「Noneは語源的に単数形(古英語ではnot one)だから単数扱いが正しい」(Seath1899)とし、教科書では矯正の対象にしていました。今日では「あるがままの姿」を認めてnoneは単数・複数のどちらも正しいとされているのです。この現象は以前の記事で詳細に考察していますから、今回は次のように結論のみ説明しておきます。
no oneは、oneの「1」というイメージが英語ネイティブの間に残っていて単数とすることに抵抗がない。ところが、noneは語彙化の過程で「1つもない」からひとまとまりの「何もない」になり、「1」というイメージがなくなってしまった。だからnoneは状況に応じて単数、複数のどちらにも扱う。
つまり、元の「1」という具体的な意味が薄れ一般化した意味に変わったといこと。これは先に生成AIが示した「意味の漂白」という現象が起きたとも言えます。
語彙化(複数の語がひとまとまりの意味をもつようになる)による意味の漂白は広く見られる現象です。例えばas long asで考えてみましょう。
元々はas+long+as Xという型で「Xと同じ長さ」を意味する比較表現です。このとき、longは「長い」という具体的な意味をもちます。しかし、as long asが語彙化すると「〜する間は」(時間)を意味し、さらには「~する限り」(条件)を示す接続詞として使います。特に条件ではlongから「長い」という具体的な意味が漂白しています。この「Xと同じ長さ」という具体的な意味が変化し条件を示す接続詞という文法的役割をもつという面から見ると先に生成AIが示した文法化という言語変化ととらえられます。
このような語彙化の例は他にもあり、tomorrowは、元はto-morrowと綴られtoが「~へ」という意味をもった前置詞でした。ことを知らない人は多いのではないでしょうか。Noneにone「1」というイメージが無いことは、todayのtoに「~へ」と言意味は無いのと同じく意味が漂白化したと考えられます。
言語変化の法則はそれぞれが独立しているとみるより関連しているとらえた方がいいでしょう。このブログで取り上げた例では、「文法化の過程で意味の漂白化が進行する」といった具合です。
I want to go.では、toは直後に不定詞が来ることを示す文法的役割へと文法化し、to「~へ」という意味が漂泊化しました。
I think that he knows.では、thatは直後に節(SV構造)が来ることを示す文法的役割へと文法化し、指示詞の「あの」という意味が漂泊化しました。
He will come tomorrow.では、willは直後に不定詞(原形動詞)が来ること示す文法的役割の未来標識へと文法化し、一般動詞の「意思を残す」という意味が漂泊化しました。
to、that、willはいずれも「和訳に表さない方が自然です。それは、文法化に伴い具体的・語彙的な意味(方向、指示、意志)を失ったと解せます。前置詞、指示詞類、助動詞とされる現代英語の基本語は意味内容をもたない機能語として使用されるのです。
漂白化とは意味は薄れていくことです。意味が漂白化した語は用法が広がり、他のとの区別がなくなることもあります。例えば、be different form/toでは、前置詞toもfromも方向の意味が漂白化していてその区別はありません。指示詞のthatは複数のthoseと区別しますが、意味が漂白化した関係詞のthatは単数・複数の区別がなくなります。目的節so thatで使うcan、may、willはどれを選んで使っても大差ありません。
生成AIが回答した言語変化の法則は、英語に限ってではなく言語一般に適用できるものです。ただし、とりわけ現代英語に適用するのに有効だと考えられます。それは現代語が古典語文法から変化した語だからです。英語の文法的仕組みは、簡単に言うと、1500年頃を境に「語の形」を重視する古典語から「語の配置」を重視する現代語にシフトしました。
現代語でも比較級を示すとき、語尾を-erにする方法と、moreを前に置く方法があります。比較級という文法性を示すのは、clearerは「語の形」で、more clearは「語の配置」です。このときmoreはmany/muchの比較級ですが、元々の「数量が多い」と意味が漂白化して、-erと実質的に同じで、他の語clearが比較級であることを示す標識と言えます。
人称・格・時制・法・品詞などの文法性を示す主な仕組みは、古典語は「語の形」で、現代語は「語の配置」です。語の配置で文法性を示すことがスタンダードとなった現代英語は、moreのように意味内容を漂白化させて文法機能を担う語(機能語)を発達させました。前置詞、指示詞類、助動詞などが方向、指示、意思などの元の意味を漂泊化させて、「語の配置」によって後続する語句の文法的働きを示す標識として多用されるのは現代語の特徴なのです。
現代語の文法的仕組みの特徴は単語の構成や発音の仕方にも反映しています。古典語にあった文法性を示す語尾を失ったために現代の基本語は一音節です。現代語で言えば2音節のclear-erから-erをとればclearは1音節になります。clearは語の形だけでは品詞が分かりません。そこで「語の配置」をして、is clearなら形容詞、you clearなら動詞と分かります。このときisやyouは後の語clearの品詞を示すために形式上配置する機能語なので一般に音が弱化します。
意味内容を伝える語(内容語)に強調を置き、他の語の文法性を示す標識(機能語)を弱く発音するのは現代語の特徴です。前置詞、指示詞類、助動詞類などが強音と弱音を持つのは、意味内容を強調するときとしないときで使い分けるから。意味内容が無いから弱化することを機能語の縮約と言います。機能語がリンキングしたり、時に省略されるのは現代語が伝わるために重要なのです。
以上のような言語変化という視点から現代英語の「あるがままの姿」をとらえると。「あるべき姿」として創作された「英文法」がすっきりと説明できるようになります。
言葉を固定化する「英文法」と、言語変化をもとにする「現代語は伝わる仕組み」の違いの象徴はtheという語の説明法です。「英文法」では「冠詞」という分類を採用し、「theは特定のものに付け、aは不特定のものに付ける」という規則を基本とします。
theを「定冠詞」と呼んだのは18世紀の標準化時に、当時英語に先駆けて標準化が進みリンガフランカとなっていたフランス語の文法から借用したものです。多くの文法用語は「語の形」を元にした古典語の文法用語を採用しましたが、theか「語の配置」を元にした現代語の特徴なので古典語文法にはなかった。だから、フランス語文法から借りることになったわけです。
いずれにせよ、「theは特定のモノに付ける」は「あるべき姿」として創作された規則で、「あるがままの姿」ではありません。だから英語の「あるがままの姿」を観察すればtheは特定しないモノにも使うのは不思議なことではないのです。
theの基本を「定性」とする規則は「唯一のものにはtheを付ける」「固有名詞にはtheを付けない」という相矛盾した規則を生みます。しかし、固定化するための規則は、「あるがままの姿」ではないので論理的一貫性は必要ないのです。標準化で重要なのは「規則をみんなで守ること」ですから、実際に変化する現象を説明しているわけではありません。
theの「あるがままの姿」を観察すると、その基本は「他との区別」であり、「特定する用法と特定しない用法」があると言えます。このブログで多く現象を実証してきたように、誰もが唯一のモノと認められる名前は、「他との区別が不要になるからtheが取れる」というのが「あるがままの姿」です。知名度の上昇に従ってtheが不要になる現象は100年以上前にイェスペルセンが指摘しています。
theの使い方は人々の意識を反映して時代とともに変化します。19世紀頃はplay the guitarは「1つに特定しないギターという楽器」という意味でした。「楽器名にはtheを付ける」という規則は当時みんなが使っていた「あるがままの姿」を反映しています。しかし20世紀に入ると「1つに特定しない楽器名」はplay guitarと無冠詞での使用が一般化してきます。それと同時に今日ではplay the guitarは「特定のギター」を指す言い方へと変化しました。
the guitarは「他の楽器との違い」を意識する「特定しない」theから、「他のギターとの違い」を意識する「1つに特定する」theへと変化の過程にあるのです。「楽器名にはtheを付ける」という旧規則は「あるがままの姿」の変化に対応できず陳腐化が進んでいます。
theの使い方が時代つまりそれを使う人々の意識に応じて変化していくことは、このブログの数多くの事例で示してきたとおりです。theの基本を「特定のモノに付ける」とするのは、言語を固定化する「あるべき姿」をフランス語文法を真似て創作したから、言語が変化する「あるがままの姿」の説明には向いていません。
theの「あるがままの姿」が「特定のモノを指す」ことではなく、「他との区別」にあること。そして「特定のモノを指す」という指示的な用法の他に、「後の語の文法性を示す標識」としての形式的用法があること。それは「冠詞」というフランス語文法からの借り物を一旦外して、現代英語の特徴に基づいた体系の中に置くと誰にでも分かります。
「ありのままの姿」のtheは「あの」「その」という指示詞類が、語の配置で文法性を示す現代語の特徴に応じて文法化して意味を失い「特に何も指さない」標識へと拡張した語です。だから、次のように説明できます。
「the、that、there、theyなど指示詞類には特定のモノを指すと不特定の用法がある」
現代英語に一貫した原理は、「英文法」には反映されていません。それは用法を固定化するための「品詞分類」によってばらばらにされているからです。以前に紹介した論文の品詞分類の一部を紹介します。
この中に含まれるthe、that、there、theyには「強音」と「弱音」があります。現代英語は、意味内容を持った語にストレスを置き、他の語の文法性を示す標識にはストレスを置かず弱く発音することを反映しているのです。
thereには、特定の場所を指す「そこに」を意味する副詞的用法と、特定の場所を指さず存在構文の文頭に置く形式的な標識としての用法がある。
thatには、特定のモノを指す「その」を意味する指示代名詞的用法と、特定のモノを指さず後に節が来ることを示す標識としての接続詞的用法がある。
theyには、3人称の複数に特定する「それら」を意味する人称代名詞的用法と、特定の人称や数を指さず「誰か」を指す形式的用法がある。
theは、これらと同じ指示詞が弱化した語です。だから、「そのギター」という特定のモノを指す用法と、特定のモノを指さず単に「ギター」という形式的用法がある。後者の特定のモノを指さない用法が弱化し、時に省略されるのはこれら指示詞類に一貫した特徴です。もともと特定していないからplay the guitarがplay guitarになっても意味は同じ。
これが「語の配置」で文法性を示す現代英語の文法化に基づいた「あるがままの姿」です。
では、今度は他の言語変化の法則の1つ「客観的事実から主観的想いへ」を通して、述語動詞に関わる規則を見直してみます。
「英文法」では、義務を意味する2つの表現について、mustは「主観的な想い」を表し、have toは「客観的事実」を表すとします。しかし、「客観的事実」を表していたhave toが法則に従い「主観的想い」へと用法を広げていきます。そうして、旧表現mustの意味領域へ新表現have toが進出していくと、結果として明瞭な使い分けなくなるのです。これが現在の「あるべき姿」と言えます。
なお、元の意味用法に拘るのは言語変化を言葉の乱れと考える「あるべき姿」志向の固定観念です。have toが発音上リンクするのは語彙化により元の意味を漂泊化させることを示唆します。
「英文法」では、未来を表す2つの表現について、willは「主観的な想い」を表し、going toは「客観的事実」を表すとし、意志を示す場合はその場で決めたときはwillを使うとします。たまに見かける説明は、going toは「~へ向かう」という意味だから、be going toは「事実に基づいてあらかじめ決めてあること」に使うというもの。言語が未来永劫変化しないのならその理由は成り立ちます。しかし、残念ながらそんな絵に描いた餅のようなことは、言葉にはありません。
「客観的事実」を表していたgoing toが法則に従い「主観的想い」へと用法を広げていく過程で文法化が起こり「~へ向かう」という意味が漂白化します。口語でgonnaと発音することがそのことを示唆しています。noneからoneというイメージがなくなったようにgonnaからは「~へ向かう」というイメージが消えたということ。そうして、旧表現willの意味領域へ新表現going toが進出していくと、結果として明瞭な使い分けなくなるのです。今のところgoing toは「今何をするか決めたとき」にはwillと同様に使う。これが現在の「あるべき姿」と言えます。
「英文法」では、if節中の2つの動詞形について、原形beは「主観的想い」を表す仮定法とし、現在形isは「客観的事実」を表す直説法だとします。しかし、「客観的事実」を表していたisが法則に従い「主観的想い」へと用法を広げていきます。そうして、新表現if it isが旧表現if it beの表していた意味領域へ進出していきます。これが時・条件を示すif節中の動詞形の「あるべき姿」です。
言語の変化の法則を使う利点は一貫した原理で多くの現象を説明することです。これは科学的視点と言ってもいいでしょう。科学的見方をすることの利点は、類似の未知の現象にも拡張できることです。
では、次の学参の文法説明について検討してみましょう。
{if I wereについて}「I wereの代わりに、I wasの方が現代風です」って聞いたけど…… 確かにwasもよく使われるようになってきましたが、やはりwereを使うのが大原則です。そもそも変な形(I were)を使うのは、現実と違うこと→あえて変な形で表現→形からも「妄想」だと伝えるからです。きちんと使う場面ほど(ライティング試験など)I wereという形を意識してください」『真・英文法大全』
この説明は「英文法」の見方をよく示しています。要はif節中で非現実的なことを示す時は「語の形」を重視する「あるべき姿」をもとにwereの方を公式な場での正用とするということでしょう。
この現象を使用率の推移を示すグラフをもとに「あるがままの姿」として描いてみましょう。
20世紀まではif I wereやif it wereなど、直説法とは異なる特殊な動詞形wereを使い「想い」を表す方が優勢でした。これは「語の形」によって法の違いを示すという古典語文法の仕組みです。
日本の学校文法では「直説法」は「客観的事実」を表し、「仮定法」は「非現実」を表すという考え方が主流と言っていいでしょう。これは、I wasは「客観的事実」を表し、I wereは「主観的な想い」を表すというとらえ方です。
では、ここで言語変化の法則を思い起こしましょう。もともと「客観的事実」を表していた表現が「主観的な想い」を表すように変化するという法則です。
「客観的事実」を表していたhave toは「主観的想い」へと用法を広げ、旧表現mustの意味領域へ新表現have toが進出していきました。
「客観的事実」を表していたgoing toは「主観的想い」へと用法を広げ、旧表現willの意味領域へ新表現going toが進出していきました。
「客観的事実」を表していた現在形(is)は「主観的想い」へと用法を広げ、旧表現の原形(be)の意味領域へ新表現の現在形(is)が進出していきました。
「客観的事実」(過去の事実)を表していた直説法過去形wasは「主観的想い」(現実と離れていること、相手への配慮)へと用法を広げ、旧表現の仮定法過去wereの意味領域へ新表現のwasが進出しています。
なお、和製の「英文法」では「想い」を表すIf I wasを「仮定法」と呼びますが、英米のテキストでは、If I wasはIndicative、if I wereはSubjunctiveとするのが主流です。
つまりIndicativeはもともとは「客観的事実」を表していましたが、言語変化の法則にしたがい今日では「主観的な想い」へと用法を広げているということができます。「あるべき姿」志向の英文法は、言語変化を言葉の乱れとしてきらい旧表現を正用とする傾向があるのです。やがて新表現が優勢になると手のひら返しで、旧表現を古風な表現とよび新表現を正用とするのは歴史上繰り返し起こってきたこと。
直説法は元々は「客観的事実」を示していました。直説法現在形は「現在に当てはまる事実」を示し、直説法過去形は「過去に起こった事実」を示していたわけです。ところが言語は「事実」から「想い」へと変化します。それは短期間で起こるものではなく徐々に進行してきました。
直説法が「事実」を示す用法では起こる時間を「動詞の形」で区別します。しかし「想い」を示す用法では起こる時間(事実)にはとらわれません。それは主観的な遠近感で使い分けます。
I was hoping you can help me with this.
「これを手伝っていただければと思っているのですが。」
I was wondering if you could join us.
「ご参加いただければと思っているのですが。」
これら過去形のwasと、現在形のamとの違いは時間ではありません。「遠慮」という聞き手への配慮を示すために「過去形」を使っています。これも「間主観化」で説明できます。if節中に限らず、直説法過去形が客観的な「過去の事実」を示す表現から、主観的な「想い」として「現実からほど遠いという判断」や「聞き手への配慮」を示す領域へ広がっていく過程にあると言えます。それらは‘例外’ではなく、言語変化の「あるがままの姿」の一コマなのです。
「あるがままの姿」以降の現代英語が伝わる仕組みでは、言語編を法則としてとらえます。「あるがままの姿」が見えていれば「あるべき姿」の変節は見通すことができるでしょう。それはバラバラの規則によって「あるべき姿」を植え付けられている人には決して見ることができないのではないかと思います。少なくとも過去の私はそうだったことは告白しておきます。
追記:私事ですが最近体調が思わしくなく、治療の見直しのため入院することになりました。しばらくは記事を更新できないかもしれません。再開については治療の経過次第になるので一旦区切りとします。これまでブログを読んでいただきありがとうございました。
目からウロコを落とすのは神の御業ですから到底人にはできないとおもいますが、ここまでに書いてきたことがお読みいただいた方にとってほんの少しでも透明度の高いウロコへと置き換わるならば幸いです。






