正解の片隅に | 日々点描

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笑え、俺

 例えば、モナリザの顔の上半分だけ観て、絵画全体の感想なんて言えない。長い小節の途中や結末の一章だけ読んで、面白いもクソもない。

 書く方だって、頭からケツまで、隅から隅まで全体を作品として心血注いでいるわけだから、その一部分だけで評価されるのは甚だ不本意だとも言える。

 

 やたら数だけで勝負しているような昨今の音楽番組では、楽曲全部を流すことは希で、酷い場合は1コーラスとサビだけである。

 それだけでは無理だといくら訴えようと、聴衆はそれだけで楽曲から歌手までを名刺代わりとして判定してしまうのだ。

 ダイジェスト垂れ流しでごった煮されてるような、歌手が気の毒でならない。

 

 時々、若い衆と話をしていると、殆ど聴いてもいない歌手なのに、“嫌い”だと拒否反応おこしているケースが実に多い。“知らない”ならばまだ可能性は残されているのに、どこかで聴いた断片がお気に召さなかっただけで、簡単にアレルギー反応を示すから、楽曲全体はおろか他の曲を未来永劫聴くことはなくなる。

 

 今でもあるのかどうか知らんが、昭和では音楽番組出演に際して「楽曲全部流せないなら出ない」という歌手が、少なからず存在した。

 好きも嫌いも、全部聴いてから判断せよという、至極真っ当な正論である。だから、少々長い名曲の数々は、そもそもが垂れ流し音楽番組で聴くことがなかった。

 情報は押し寄せることがなく、こっちから探しに行かねばならなかったのだ。

 

 カレーライスの添え物の福神漬けだけ食ってカレーの評価してたら、美味いカレーにはたどり着けないのである。