燃える問う魂 | 日々点描

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笑え、俺

 我が子を虐待し、挙句に手にかけてしまう鬼畜の報道が、近頃恐怖ですらある。

 それが現実だろうと、見たかないし知りたかないし、知る必要などまったくないと思っている。それでも初出は何のことかわからんので、捻じ込まれるように試聴してしまい、猛烈な不愉快で吐き気に襲われ、以降関連と思われる話題は速攻目の前から排除に努めている。だから、続報や詳しくは全然知らんが、生活の不都合はまるでない。むしろ平和。

 

 嫌な事を詳しく知って私見を述べることに、凄まじい嫌悪感があるのだ。

 昨今のネットにおけるコタツ記事は、多くが無関係の他人のたわ言に終始し、しかも文句や難癖など問題提起的発言であり、そんなんが増えるのはつまり観る者が多いからに他ならない。

 攻撃や闘争心、先にある他人の転落はなかなかの蜜があるとみえる。

 

 評論家やコメンテーターを自称する似非文化人は、あちこち聞かれてもいない事象にクチバシ突込み、賛同されようと批判されようと、見られたら勝ちみたいな腐った承認欲求の亡者が群れをなしている。奴らのエサはただひたすら“反応”だけだから、“炎上”も大好物だろう。

 

 だから、文句も批判も結果連中をブクブク太らせる。承認亡者と付随する銭亡者は、無意識のうちに伝染して増殖しているように思えてならない。

 マジで嫌いなら、無視するのが最大の攻撃で防御になるのである。

 辞めろと言わず、ウザいと叩かず、馬鹿だと責めず、見てもただ”ふ~ん””あ、そ”とやり過ごしていればいい。

 反応がなければ、クズは忽ち藻屑と消え去るのは明らかなのだ。

 

 閲覧数と“いいね”が称えられる社会は、俺には不穏な未来しか見えてこない。