怒りの傘下 | 日々点描

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笑え、俺

 例えば、レコードの買取依頼を頂く際に「綺麗なレコードが沢山あります」という文言の“綺麗”を信用してはならない。

 “綺麗”の基準が、人それぞれに驚くほど違うからである。

 恐らく多くの若人は、新品のレコードを見たことがないだろう。親世代のレコードを掘りかえして、その中で平均値を出すわけだから、劣悪判断は限られた中での比較論でしかない。

 

 大雑把な者が“綺麗”と称するレコードを、病的品質偏向マニアが見れば、救いようのない傷だらけのゴミと唾棄される確立は極めて高いのである。

 

 何が言いたいかちゅうと―――。

 ネットの評論コメントや評価口コミの類の理不尽である。

 飯が不味い。店員が無愛想。代金が高い。店が暗い。雰囲気が悪い。

 手前勝手な悪口雑言を吐き散らす輩が後を絶たないが、どんな奴がほざいているのかを、読む側はほとんど知らない。

 

 先般も、悪口書かれた病院が怒り心頭に訴えていた。

 書いた奴が、病院にどこまでの対応を期待していたのかがわからない以上、不平不満に同調する根拠がない。

 金払う患者様はお客様扱いして手厚く接待するものだと盲信している馬鹿なら、医者から事務的に対応されたら、なんて無愛想で不愉快な医者だと感じるだろう。

 でも、コメントは後半部の“無愛想で不愉快”だけを摘んで出すから、読む側は自分の基準に照らして解釈してしまう。対人レベルが温厚な人ほど、ガサツで野卑な医者が恫喝する様子を想像しても無理はないのである。

 

 表の公園で遊ぶ児童達は、そこにあるブランコや滑り台ですら、きっととてつもなく楽しいに違いない。だから彼らは、「八幡パークには興奮満載の素晴しいアトラクションがある」とコメントする。

 それを、東のネズミ公園や西の映画遊園地で遊び倒した行楽プロが読めば、どれどれと興味を持って来訪するかもしれない。そして、彼らがど~思おうと児童のコメントに嘘はない。“素晴しい”の認識基準が違うのである。

 

 怒っている君、文句垂れてるあんた、悪口並べるおみゃさん。

 俺はあんたを知らん。趣味も好みも容姿も性格も、そして人間性も何も知らん。

 どこの馬の骨かもわからん他人の戯言を、自分基準で参考にするとロクなことにならんのだ。