多少の知識や技術があるにせよ、概ね“運”だけで明暗を分けるのが“賭け”だとするなら、人生の選択はほとんどギャンブルだと言える。
計算通り予定調和のままに暮らし続けている者など、おそらく皆無だろう。
だから、勝った喜びも負けた悔しさも、そこに確固たる根拠がない。どっちがデカイかが人の資質を創っているのだ。
激辛ラーメンを“辛いけれど美味い”と汗だくで嬉々として食べる奴も、間違ってはいない。
“どれだけ美味くても辛いの嫌”と、手を出さないのだって正解である。
負けた悔しさを勝った喜びで上書きしようとする者が、おそらく依存症になるのだろう。
稀にあぶく銭手に入れた嬉しさよりも、俺は意図せず損した悔しさの方が遥かに凌駕するので、世間のギャンブルにまるで魅力を感じないだけのことだ。
それでも毎日、当てのない選択を迫られながらずっと生きていられるのは、こっちはしくじった悔しさよりも、転がり込んだ喜びのほうがずっとデカイからである。
後悔はあっても、やり直したいなどとは微塵も思わない。