ここで登城路は左に亀の甲羅を周ります。そこには防御ライン3の曲輪があります。

そこから本丸への急斜面を登ると、4の横矢掛りが…側面の曲輪からの攻撃があります。

ここで、本丸から降りてくる人とすれ違いました。

挨拶をかわすと、「20年前にも長谷堂城に来たことがある」という男性。

古城めぐりが趣味で観光化されていない古戦場は、昔の面影を感じられて良いとの事。

お名前を聞くと…なんと伊達さん。宮城の亘から来たそうです。

宮城出身のサンドイッチマンの伊達みきおさんも伊達政宗の子孫だそうですが、

この戦いでは伊達政宗は3000名の軍勢を最上氏支援で派遣…奇遇な出会いでした。

本丸直前の防衛ライン 5虎口を越えて、本丸広場につきました。

出発から20分ほどの山城トレッキングです。 … 続く

現在地は右下広場、案内図に従い八幡崎口から進みます。 

亀の頭の部分、比較的緩やかな登りです。八幡神社部分は郭になっていて、

登城路はその下を巻いてゆきます。

 1の案内帯曲輪群、

亀の首の側面にあたる部分の階段状の防御ラインです。

長谷堂城攻防戦のときは、この曲輪の真正面、水堀を挟んで西側の丘に

上杉軍の中核部隊1万8千程の直江兼続軍勢が布陣したそうです。

守る軍勢は1200名程、10倍以上の戦力差があります。

この10数段のひな壇みたいな曲輪は、少ない人数を多く見せたのではないでしょうか。

 2 亀の甲羅の入り口の土塁

防衛上重要な場所ですが、小さな城なので石垣はありません。

もっともここまで攻め込まれたら多勢に無勢、あっという間に落城でしょう。

ではどうやって2週間もちこたえたのでしょうか … 続く

山形市郊外南西に少し走ると、長谷堂城址があります。

山形市漆山志村地区から車で30分もかかりません。

亀形の頭の部分に大きな駐車場。案内板があります。

 

地図で見ると城山と書かれている小山ですね。

頭の部分に八幡神社、お尻の部分に観音堂があります。

案内板に 長谷堂城跡公園のパンフレットがありました。

この山で、北の関ケ原と言われた天下分け目の合戦が行われたこと、城主

志村伊豆の守光安(あきやす)をはじめとした志村一族の存亡をかけた戦いがあったと思うと

感慨ぶかいものがあります。では亀の頭の部分、左下から本丸に登ってみましょう。

武士は出処地名を名字にする例が多いと聞きます。

東北で志村と言うとこの場所でしょうか。

秋田県由利本荘市の私の家(本荘駅東)から3時間程のところ、

最上領内 山形市の漆山志村です。志村光安の出生地と言われています。

山形市街地北の田園地帯です。そこへ行ってみました。

地図でゆくと、志村の文字の左下に神社のマーク。通称志村稲荷神社です。

 

小さな児童公園、そして志村集会所があります。稲荷神社の境内地だったのでしょう。

 

志村稲荷神社は小さいですが、漆山にある大きな稲荷神社から420年程前に分社して設立。

ちょうど関ケ原の合戦の頃ですね。長谷堂城の攻防戦に勝利した事と関係があるのでしょうか。

現在志村地区には、志村を名乗る人は住んでいません。

最上の知行の拡大に伴い、志村一族はこの地から酒田へまた由利本荘へ移住していったのでしょう。

志村伊豆守光安は 1611年に没する。その後継ぎの息子光惟は

最上騒動に巻き込まれ1617年に暗殺されます。

その弟が前出の志村八左エ門であるが、最上の改易・没落で一家は離散します。

 青原寺収蔵の光安の鎧兜

 明治建立の光安追壊碑

その子孫の存在は定かではないが、東根の有名な造り酒屋の主人の話では

志村から横尾姓になりその血を継いでいるそうです。

藩がなくなれば、家老といっても浪人になるか、生活の為帰農するかなどの

選択に迫られたのでしょう。

秋田の本荘の地でも本城氏が転出し、家臣であった志村も一時路頭に迷ったに違いありません。

しかし、六郷氏が1万石から2万石に加増されて入居。

その際、任用され数十年後分限帳に載るような立場になったとも考えられます。

最上本城氏の家臣の志村、六郷氏の家臣の志村

それぞれ2家が記録に残っているのは偶然ではないでしょう。

また、志村一族の中には戦国時代城主まで勤め歴史を動かす人もいたという、

志村姓の私にとっては嬉しい話ですね。

今迄 志村という名前からその由来を考えてきましたが、

もう一つ家紋から追ってみたいと思います。

 これがわが家の家紋、

書き直してみると左側 「反り亀甲に揃い二つ引き」です。

 

左側は江戸時代の家紋なので、きれいに整えられていますが、

戦国時代は旗印なので、元は書きやすい右側のような形だったのではないでしょうか。

六角形の亀甲文様は亀の甲羅の文様で、縁起が良いので良く醤油メーカーのマークとなっていますが、

書いてみると反り亀甲は、とがってる上下が頭と尾、そして4本脚で亀そのものの姿のように思えます。

ここでこの文様を読み解きますと…

写真にある最上の家紋が 「二つ引き両」です。

戦国武将らしくシンプルで書きやすいですね。

もしかして、この「二つ引き両」を最上の家来として取り入れているのではないでしょうか。

更に反り亀甲は、志村伊豆守光安に縁の深い「亀が城」

および「亀ヶ崎城」の亀を意味しているのでは…思われます。

同じ家紋を調べてみてもどこにもありません。志村伊豆守光安の家紋も記録にはありません。

「反り亀甲に揃い二つ引き」志村家の記録に残るこの文様が 

志村の出処の手掛かりの一つになることは、確実でしょう。

志村伊豆守光安の居城跡を見に行きました。

酒田亀ヶ崎一丁目 現在の酒田東高等学校の場所です。

 

校門の左隣に案内板が立っています。現在城跡として残っているのは、西側土手のみ。

水利を巧みに利用した平城で、堀が幾重にも周っています。

以前は東禅寺城と呼ばれていましたが、最上領となってからは亀ヶ崎城。

その亀ヶ崎の名の由来が、説明されていました。

 

右の写真は もっと本荘寄り遊佐町にある永泉寺(ようせんじ)の入り口。奥に山門。

ここに志村伊豆守光安に関する文化財があるというので行ってみました。

永泉寺は古いお寺ですが、奇しくも本荘志村のお寺と同名、読み方・宗派も同じ曹洞宗です。

 

没後に家臣達が建てた慰霊の為の九重層塔があるというのです。

本堂の裏山の断崖に、古めいた墓石の中その塔はひっそり立っていました。…続く

志村伊豆守光安が、慶長6年(1601年)開基となった菩提寺に行ってきました。

青原寺さんは酒田の亀ヶ崎4丁目にあります。

 

私の祖先のお寺と同じ、曹洞宗。本堂の後ろに夫婦の墓が並んで立っています。

 

また門脇には地蔵さん…これは光安が没した時、殉死した家来を弔って設置されたものだそうです。

酒田の街や港の整備や社寺の改修など飽海3万石の城主として、徳のある行政を行った方のようです。

本荘から1時間程のところに、志村のこんな歴史があるなんてびっくりです。

… 続く

志村家の出処が、山形市漆山地区志村であるらしいという話をしました。

在所を姓とするのは昔はよくある話で、

本城氏も以前は湯沢氏や赤尾津氏を名乗りました。

漆山地区志村出身の「志村伊豆守光安」の話をします。

この人酒田3万石を最上氏から拝領し、亀ヶ崎城の城主だった人です。

詳しくは http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=187449 を読んでください。

1ページから10ページまで、丁寧に記述されています。

 長谷堂城 別名 亀ケ城

最上義光の腹心で、長谷堂城の戦いでは上杉の直江兼続の2万の軍勢を

城主として2千の兵を率いて防いだという猛将です。

その後上杉勢を追って庄内に侵攻、最上領としました。

そこで長谷堂城城主から、酒田亀ヶ崎城城主となったわけです。

鶴ヶ岡城は鶴岡にあります。鶴亀で縁起を担いだそうです。

亀に縁がある人ですね。  つづく

これが本城氏の持っていた、本城城の城下町の武家屋敷 慶長(1610年代)の頃と思われます。

字が小さいですが、外堀北側中央現在の表尾崎町に志村七左ェ門の文字が見えます。

また右上現在の東町にも 志村勘七の文字が見えます。最上家家臣の本城氏の家来です。

大きな屋敷の志村七左ェ門という名前は、志村豊前守光安の次男

志村八左ェ門と一字違いですので、何か関係がありそうです。

これは宝永・正徳(1710年代)の頃の 本荘城の武家屋敷の配置図

なんと中央右側、現在の中堅町に志村六左ェ門の名前があります。

これは六郷藩の分限帳に載っているもう一つの志村家で初出が元禄十四年(1701)です。

私の先祖、志村源内の屋敷は上の方現在の美倉町渡辺ガラス店の場所にあります。

最上家の家臣本城氏は、元和8年(1622)に改易になり家来も転居となりました。

ここから100年間程 本荘の志村家は歴史の表舞台から消えて、

浪人ないしは足軽として生活していたと思われますが資料はありません。

しかし八左ェ門・七左ェ門・六左ェ門 面白いですね。…つづく