調査結果を見てみますね。配置に従ってSWー1、SWー3下段SW-5、SWー2となっています。

先ず安心したのは、地盤は弱いなりに同じような地層になっていること。

地中1m程までは造成の為、客土された地盤と思って良いでしょう。

ここだけ見たら大丈夫そうに見えますが…

それから2m程まではかなり弱い地盤。長い年月で沈下を起こす可能性があります。

必要な地耐力が確保できる地層まで地盤改良が必要です。

3m~5mは、安定して換算N値が3となっていますね。それ以上は徐々に数値が上がっています。

弊社もそうですが、西方設計は基本ベタ基礎構造ですので沈下には均等に対応できる構造となっています。

さて必要な改良杭の長さがわかってきました。

明けまして おめでとうございます。弊社の年賀状をアップします。

西方設計のN邸。設計事務所の撮る写真はどうしてこんなに綺麗なのでしょう。

実物が良いからと言えばそうなのですが…私も広告・宣伝の為、少しは勉強しなきゃね。

ところで弊社のつたないホームページを見て、志村建設に興味をもつ人が増えてきました。

弊社は12月末決算なので、去年の概算の事業規模を紹介しますね。

2022年の総売上高は 2億2千万程 新築住宅は5軒で計1億2千万

その請負額は3千万~1千7百万の範囲で4軒は弊社設計でした。

大規模改修や修理工事・公共工事の売上が1億程。

付帯事業としての不動産業で2百万程でした。

設計業務は工事高の中に含まれています。

弊社の損益分岐点は総売上高1億8千万なので、

上出来の決算になりそうです。

これも皆様の御蔭と感謝しています。

N邸の施工についてみてゆきましょう。

先ずは土地条件の把握から…地盤調査報告書からの抜粋です。

志村建設は地盤調査は秋田の(株)住宅地盤技術研究所に依頼しています。

ハウスメーカーによっては、住宅地盤改良施工会社が無料で調査するというので、

地盤調査と地盤改良を同時に依頼する場合があるのですが、基本NGです。

調査結果によっては地盤改良工事が必要なかったり、

地盤改良の方法を検討し直す必要が出たりします。

また、地盤が明らかに丈夫だからと言って調査をしないのもNGです。

地中のことですから、地質の変化や残存物などの確認も必要です。

N邸は現在は街中ですが、昔田んぼだったということがわかります。

楢山と千秋公園の真ん中あたりに位置し、

河川敷ではないにしろ低湿地帯という所でしょう。

地盤調査は設計建物配置四隅と中央部分を調べます。

住宅の場合スウェーデンサウンディング試験による調査が一般的です。

調査中異常値が出た場合、その周辺部などを追加調査します。

昔ながらの調査方法で結構アナログの要素がありますが、

結果の数字だけでなく作業中の感覚で地盤の状態がわかります。

ある意味安心ですね。費用は5万円前後となります。

調査結果を設計事務所に報告。

地耐力や地盤の状況を総合的に判断して、地盤改良の方法を検討します。

地盤改良工事は建築工事費の5%程と言われてますが、

ここで施工費を睨みながら、最良の地盤改良工事を選択します。

ベタ基礎の場合、布基礎より工事費用は軽微となります。

建て主のプライバシーにかかわるところは案内出来ないのですが、

この建物の西方さんの設計ポイントを説明します。

断熱や開口部には予算を振り向け、交換可能な住設は普及品としています。

 

家具は作り付けとする場合が多く、設計に基づき弊社での施工となります。

可動棚やクローゼット程度であれば、気の利いた大工施工で大丈夫ですが、

扉付きになってくると家具・建具屋さんに協力を要請します。

キッチンも製作するときがありますが、その場合は施工図を起こし設計サイドと

入念に寸法や使用金具等を打ち合わせすることになります。

製作家具は、既製品より高いイメージがありますが大工施工であればコスト的には同じでしょうか。

しかし集成材とはいえ無垢材の家具は人気があります。

壁一面の本棚や、すっきり長いカウンターの背面榀収納など綺麗ですよね。

建具は榀合板のフラッシュ引き戸やドア、使用金物が高くなるため

建材メーカー等の既製品に比べて多少割高となりますが、西方設計では標準です。

リビング・ダイニングの内観です。写真は西方設計撮影…綺麗ですね。

 

南面の大きな窓は、採熱・採光の為 もちろん庭の景観も考慮されています。

Nさんは西方作品の熱烈なファンで、たくさんのデザイン要素を取り入れています。

内装素材は地場秋田杉、床板は厚さ30ミリの無垢材。上小節と言っても節はほとんどありません。

東京でこの材料を求めると、目の玉が飛び出る値段になると思いますが

弊社は地元製材所からの直接仕入れ。商社・問屋を通していません。

 

また 天井は無垢の12ミリの杉板目透かし張り。

下地に木毛板を使って吸音効果を高めて、高気密住宅にありがちな音の響きを抑えています。

このような設計が出来るのは、木都能代に拠点を置いているからでしょう。

また素材を上手に施工できるのも、弊社社員大工の腕の見せ所。

東通りの住宅は、すべて棟梁S氏の責任の元での仕事、設計者の厚い信頼もあります。

贅沢な素材の中で暮らせるのも、秋田在住のN氏の幸せですね。

最近の作品を紹介しましょうね。

「東通」と言えば、秋田で人気の住宅地となりましたが、

弊社も数軒の、新築住宅を手掛けています。

建築中から結構、不動産・建築の業者から「頑張ってますね」の声がかけられました。

場所柄、目立つのでしょうね。

先ずはビフォーアフターから…

平屋の住宅は、弊社の先代が昭和50年に建てた家。

今回所有者の娘さんが相続。県外在住ですので、今後を弊社に相談に見えられました。

場所や庭、丈夫な家に愛着があって「大事に使ってくれる人がいれば譲っても良い」との話。

弊社不動産部で、更地にして売り出せば高く売れる土地なのですが、

玄関廻りや、庭木や庭石をうまく使ってくれる人を探すことにしました。

西方設計さんから紹介された人がN氏、奥さんの職場が近で好立地ということでした。

 解体工事で出てきた棟札

棟梁は引退していますが、健康で長生きしています。

また庭も解体時に樹木を移動しながら、多くを残しました。

大きな庭石、踏み石等も出来るだけ残しました。

西方設計の婿さんが庭師だそうで、これから今様にアレンジするそうです。

正面の大谷石とヒバの垣根は2台分の駐車スペース確保の為、

半分となりましたが、歩道部分も切り下げゴミステーションも移動しました。

このようにして、世代を越えて仕事が作品が受け継がれてゆきます。

もちろんN邸は西方設計の高性能住宅。施工は志村建設です。

酒田3万石を最上義光公から拝領、亀ヶ崎城主となってから

志村光安は、酒田城下の整備や社寺仏閣の整備などをおこない

慶長16年(西暦1611年)に没した。

その後継ぎは、最上家のお家騒動で暗殺。

その子孫も最上家の没落とともに、酒田を離れたという。

出身地とされる山形市の漆山志村には、子孫は居ない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%9D%91%E5%85%89%E5%AE%89

歴史に彗星のように現れて、消えていった志村一族。

では、本荘の志村家との関係をどのように考えると良いのであろう。

 

(写真は本荘城復元大手門、大手門から街を見る、門を出た右側に志村七左衛門の屋敷があった)

私は志村光安の一族の誰かが、最上の重臣であった楯岡豊前の守満茂の家臣として任用されたと推測。

知行地を加増された武将が、勢いのある武将の親族を家臣を採用する例は多くあるようです。

ところが、もともと楯岡氏の家臣だったのではないか?という話が出てきました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AF%E5%B2%A1%E6%B0%8

確かに楯岡氏も最上一族

これは、志村光安の末裔という人からの手紙にあります。

それによると本荘の志村一族は漆山志村の一族とは鎌倉・室町の時代に分かれて、楯岡氏に仕えたのではないかとの話。

確かに同じ出羽の国の話で、最上義光が山形を平定する前は群雄割拠の時代。

これは、江戸時代以前の話ですので精査する必要がありますね。

先祖の話、まだまだ先がありそうです。

これは 慶長出羽合戦 長谷堂城合戦図です。江戸時代中期に描かれました。

右下の小山で志村光安が陣を張っています。

城から上杉軍に打って出ている部隊がいますね。

この辺の経緯は 武蔵の五遁のブログに詳しく書かれています。

第一話 http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-1674.html

第二話 http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-1675.html

第三話 http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-1677.html

興味がありましたら、覗いてみてください。

千余の軍勢で防衛戦だけではなく、二万の上杉軍に夜襲をかけたりの機動戦を展開します。

一進一退の攻防戦が続いた半月後、戦況は大きく変化します。

慶長5年西暦1600年9月15日 関ケ原の合戦で豊臣方(西軍)の敗戦。

その報が入ると、西軍だった上杉軍は長谷堂城包囲を解き撤退を開始します。

絶体絶命と思われる長谷堂城での攻防戦が終わって、志村光安はのち酒田の亀ヶ崎城3万石城主となります。

志村一族はこの戦に参加していたと思われます。祖先も光安の手足となって働いていたことでしょう。

山頂広場を南側に下ります。

この辺は樹木が切り払われており、当時の山容がわかります。

斜面を掘削して平場と急斜面を連続させています。

急斜面からは敵が進入できないようにし、自軍兵は平場で待ち伏せ、

登城口を攻めあがる敵を横からも攻撃できる態勢となっています。

平山城の長谷堂城は敵が領地に進入してきたときの籠城戦を前提として造られているようで、

案内板を見ると、日頃の行政は堀で囲われた平地の武家屋敷で行われていたようですね。

出城として天守閣や登城門がないのは当然として、長期の籠城にも耐えれなかったでしょう。

それが「北の関ケ原の戦い」と言われるほどの戦果をあげた理由は、

志村伊豆の守のはじめとした武士団の機動力を生かした戦術がありました。

本丸の広場には「長谷堂城址」の新しい石碑があります。

 裏には志村光安直系の子孫 横尾氏の名前がありました。

北の方から山形市街地を望みます。すぐ目の前です。当時は山形城(霞城)も見えたでしょう。

長谷堂城が落ちたら、上杉勢は一気に城下町に入り最上の居城に攻め込むことになります。

これが上杉・最上の陣構えです。最上の本隊は直江軍に阻まれ、須川を越えられません。

実際は最上も4千程の軍勢と言われてますので、

須川に防衛ラインを引くのが手いっぱいだったのでしょう。

しかし直江軍は2万の大軍と言えども、長谷堂城を攻略しなければ前に進めません。

今は緑豊かな城山ですが当時は巨大な土塁、禿山だった様子がわかります。

ここに志村光安は千余の軍勢で、直江軍と対峙してのです。必死です。