残花の旅、宮古にて | LIVESTOCK STYLE

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風琴工房詩森ろばのブログです。

岩手・秋田での4公演が終わりました。
6月1日~5日まで旅の最終地、
座・高円寺での幕が開きます。

園井さんの故郷 岩手町、
わたしの故郷盛岡、
県境を少し超えたところにある秋田県鹿角市、
そして沿岸の宮古。

移動し、幕を開け、
移動し、幕を開け、
体験したことのないような大ホールだし、
どうなることかと思いましたが、
スタッフさんたちの力量に支えられ、
どんなホールでも俳優が負荷なく声を通すことができ、
照明もシンプルだけれど作品に沿いそれはそれは美しく、
俳優たちも雄々しく戦ってくれました。


どんな公演も、
それはひとつひとつが特別で、
どれかを伝説だなんて言いたくはないけれど、
忘れてしまわないうちに、
宮古での公演のことを書きたいと思います。


会場となった宮古市民文化会館は、
海のすぐそばにあります。
当然津波の被害に遭い、休館を余儀なくされました。
そのように被災した会館としては
いちばん最初に、
それでも3年8か月かけて復旧し、
再オープンしたのだそうです。


わたしは、せっかく宮古まで行くのだから
お隣の田老町で日本最初の震災遺構となった
たろう観光ホテルに行こうと思っていました。
田老は小さい頃、何度も海水浴に行った場所です。


食事会までどう過ごされますか、
と会館の館長さんに聞かれ、
田老を回るつもりです、と言ったところ
車で連れて行ってくださる、ということになり、
急きょメンバーを募ったところ、
熊坂さんが行くというので同乗して
田老に向かいました。
3.11当時は市役所職員で避難所担当をされたという
館長さんにいろいろお聞きしながら
被災地を回りました。
途中で、わたしは知らなかったのですが、
学ぶ防災「語り部ツアー」
に申し込んで参加していたザンさん、林田さんに
行き会い、いっしょに語り部さんのお話を聞くことができました。






たろう観光ホテルです。
小さい頃、おそらく泊まったことがあります。
こんなちいちゃかったかな。
この6階で、「学ぶ防災」ツアーに申し込んだひとだけが
見ることができるという、
まさにその窓から撮ったという津波の映像を見せていただきました。
水門を見に行ってそのまま亡くなったという消防車、
上着を取りに帰って間に合わなかったというおばあちゃんも
映り込んでいました。
津波の映像をじつはわたしはあまり見ていません。
もちろん機会があるときは拝見してきましたが、
テレビのニュースで自分の身を危険に晒されることなく
結果だけを享受することに違和感があるからです。
9.11以来意識的にそうしてきました。
そういう映像を見るときは、
ドキュメンタリー映画など、
きちんと見る意思を持ってみるように。


まさにその窓から撮ったその部屋で映像を見る、
そうでないと公開させない、と言ったホテルのご主人の
素晴らしいご英断だと思いました。
わたしたちはまさに、
身を切られるような思いでその映像を体験しました。
語り部さんの5年経ちましたが、
むしろ辛くなっています、という涙をたたえながらの優しい笑顔に
自分たちがこれから行う芝居の時間が見えました。
この場所で、この芝居をやるんだと身が震えました。
とくべつな時間でした。






これはその窓から、
壊れてしまった第一堤防を見る
園井恵子役 林田麻里と
仲みどり役 ザンヨウコ。
ふたりは田老の駅でやはり今回の出演者である
坂元さんとすれ違ったそうです。


前日、田老を訪れる前に寄った会館は、
横に広くて、広漠としていて、
これはちょっとタイヘンかもしれないな、って
演出家として軽く思っただけでした。
宮古での公演には岩手県出身者として特別な思いは
もちろんありましたが、
田老に行ったあとも会館に対して心持が変わったりは
していませんでした。


しかし次の日、
俳優も入れてのたった1時間半の場当たり。
その最初が始まったときにわたしは気づいたのです。


会館が、その大ホールが、観客なのです。
わたしたちの芝居を、
どんなものかと見ている、
寄り添ってくれている、
これはとくべつな時間が始まるんだな、と覚悟しました。


スピリチュアルなことにはあまり縁のないほうだと思います。
しかし、傷つき、そしていままだここに建っている
この建物のためにも、
いいお芝居がしたいと思いました。


館長さんがほんとに観客が少ないんです、と
心配されていましたが
前日聞いていた人数の約倍のお客さまに来ていただきました。
年配の方が多いので、
どの会場でも多少の出入りは覚悟しているのですが、
そうとう集中してみていただいたような気が致します。
後半で席を立たれる方はほとんどいませんでした。


とあるシーン以降。


わたしと演出助手の大野は
いつでも最後列から芝居を観ているのですが、
この会館全体が、舞台でしかありませんでした。
客席に負けるとさえ思いました。
ここでのこの上演をちゃんとイメージできていたら
むしろ書けないセリフがたくさんありました。
それを言わなくてはいけない俳優たち。
ひとつひとつのセリフに、
未熟でもいい。せめて真実であってくれ、と
この観客たちに嘘だけは聞かさないでくれと祈りました。
身じろぎもせずにお客さまたちは見ていてくれました。


俳優たちも戦っていました。
昨日、田老を体験した麻里ちゃんの目が違いました。


これから見るお客様があるので詳しくは書けませんが、
ある俳優はこの場所で言うには苛酷すぎるセリフをひとつ
もっています。
そのシーンが安定していなかったのもあり、
場当たりでそのシーンだけはきちんと抜いて稽古してありました。
あれほど集中して俳優を見つめていたのは
長い演出家生活でもそうはないと思います。
素晴らしかった。
決まった瞬間をすべての俳優と共有できたのではないかと
思います。
お客さまからはありがたいことにこの地でも、
客電がついても鳴りやまぬ拍手でダブルコールをいただきました。



終演し、楽屋前の廊下で、重責を担った俳優に、
「ダイジョウブだったよ。」と言った瞬間、
その俳優は泣き崩れました。
抱き合いました。
ドアを開けた瞬間、楽屋も粟立っていました。



東京が旅の終わりなのか帰ってくる場所なのか
わたしにはわかりません。
でも旅の一座の話を書いて、
旅をして戻ってきて、
最後の場所が東京である、
わたしたちは戦いぬかねばなりません。


どうぞどうぞ見にいらしてください。
わたしたちの演劇の時間と旅の時間。
ふたつを携えてお待ちしております。