山口県の伝説、その9 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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たたかん太鼓の鳴る太鼓

むかし、むかし、あるところに、たいへんわがままな大尽(だいじん)がおり、いつも召使いたちに無理難題をいいつけては困らせて面白がっておりました。ある日、大尽はまた召使いたちを集めて「たたかん太鼓の鳴る太鼓、うそうそべいのしかめ顔、というものを、さがしてこい」と、いいつけました。

〔注〕大尽 昔でいう「大金持ち」の総称。

召使いたちは、それぞれ探しに出かけましたが、なかなか思いつきません。すると、召使いの一人は、子守が泣く子に、くるりくるりとまわしては、鳴らしてみせている、でんでん太鼓をみつけました。それは、太鼓の両わきにくくりつけてある、糸を通した豆が、まわすたびに鳴るものです。

「なるほど、これじゃ、これじゃ」と、これをもらってかえり「たたかん太鼓の鳴る太鼓でござります」と、大尽にさしだしました。すると、それをみた大尽は「これがどうして、たたかん太鼓の鳴る太鼓じゃ。豆が太鼓をたたいとるじゃないか」と、その召使いの頭をポンとたたきました。

「なるほど」と、その召使いは、たたかれた頭の痛さにしかめ顔をして、引き下がりました。すると、もう一人の召使いが、いいものをみつけました。子供たちが竹筒の両側に紙をはって、その中にあぶを入れて遊んでいるのを見たのです。「こりゃあ、たたかんのに鳴っとるわい」と、召使いは、もっと大きなものを作ることにしました。

そこで召使いは、桶の底をくりぬいて、その中にくまん蜂をそのまま入れ、両側を紙ではったものを作り上げました。そしてこれを大尽に「へい、これが、たたかん太鼓の鳴る太鼓でござります」と、さしだしました。すると、太鼓の中では巣から出たくまん蜂がワンワンいうので、「これはええ、これはええ」と、大尽は感心し、面白がって、あっちこっちへ転がしました。

大尽は、太鼓を転がしながら「ところで、うそうそべいのしかめ顔はどうしたのじゃ」と、いいました。すると、どうしたはずみか、太鼓の紙が破れ、中にいたくまん蜂が、みんな飛び出てしまい、大尽に群がって、顔をさしてしまいました。大尽はくまん蜂をふりはらいながら「うそじゃ、うそじゃ」と、しかめ顔で逃げ回りました。

これをみた召使いはすかさず「へい、それが、うそうそべいのしかめ顔でござります」と、いったそうです。

(吉敷郡)

(山口銀行編纂 山口むかし話より転載)


岩穴鬼衛門(いわあなおにえもん)~長門市~

長門市駅をおりて市街地をぬけると、なだらかな深川(ふかわ)地区の平地がひらける。この平地を316号線にそってしばらく行くと、観月橋(みつきはし)の手前いったいに江良部落(えらぶらく)の青々とした広がってくる。

いまから200年前のことである。江良部落は水が少なく、村人たちは毎年水不足になやまされていた。村人たちは、部落からほど近いところを流れる深川川(ふかわがわ)の水をなんども部落に引こうとしたが、そのたびに失敗した。長さ約160間(約290m)の岩盤が川岸にせまっていて、水を引くのをこばんでいたからだ。

このため、村人たちは、長い箱樋(はこひ 箱がたの水を通すとい)をつなでつって水を通すしかなかった。箱樋は水もれが多く、とれる水も少ない。それにつなもくさって落ちてしまう。毎年、田植え前になると、出費のかさむ箱樋づくりが江良部落の人たちの大きな悩みであった。

その日、村の男たちは、総出(そうで)で箱樋づくりにせいを出していた。村人たちは、口々に、「くる年、くる年も箱樋づくりじゃ。ほんとに難儀(なんぎ)なことよのう。」「こねえして苦労して箱樋をつくっても、あんまり水もひけん。けっきょく、雨水にたよっちょるようなもんじゃあないかよ。」

「川にゃあ、こねえに水が流れちょるちゅうのに。いうてもせんないことじゃけど、ほんとにくやしいのう。」と、ぐちをこぼしながら仕事をしていた。そのとき、「わははははは・・・・・・。」と大声でわらう者があった。見ると、図体(ずうたい)の大きな久助(きゅうすけ)であった。

「こら、久助。おまえ、何がおかしい。」久助と呼ばれた男はまだわらっている。みんなは腹をたてた。「ええい、やめんか。みんあがこまっちょるときに、そんあ大口あけてわらいだしやがって。」「おまえ、どねえかしたのかえ。」すると、久助は、「おかしいじゃないか。毎年田植え時分になりゃあ、きまって箱樋のぐちばかりじゃ。」と言った。

「そりゃあそうだ。箱樋づくりは、難儀じゃからよ。」「そいじゃあ久助、おぬしゃあ何ぞいい知恵でもあるあるちゅうのか。あったら言うてみい。」「この大岩がじゃましちょるけえ、どねえもならん。おまえ、体がでっかいけえ、この大岩でも動かすちゅうのか。」

もうひとりの村人が尻馬(しりうま)にのって、「体のでっかい久助のことじゃ、この160間の大岩に穴でもあけて、水を通そうちゅう考えかもしれんどな。」と、からかった。村人たちは、どっとわらった。けれども、久助ひとりはわらわなかった。

「その通りじゃ。水をたっぷりと引くにゃあ、どうしてもこの大岩をくりぬいて通すしかしかたなかろうて。なあ、みんな。ここはひとつ力を出しあって、大岩をくりぬこうじゃないかのう。」久助は、真顔になって大声で言った。「そねえなことできるかいや。」村人たちは、さもばからしいといわんばかりであった。

そんなことがあって間もないころ。たちはだかる岩盤(がんばん)にむかって、つちとのみをふるっている男の姿がみられた。久助だった。それからは、雨の日も雪の日も、久助は岩穴をほりつづけた。久助の田畑は草がはえ、あれはてていった。もともとびんぼう百姓の久助の家は、ますますびんぼうになっていった。年老いた母親や女房の苦労は、なみたいていのものではなかった。

「百年たっても、岩穴なんかできるもんか。」「ばかにもほどがある。」村人たちは、久助をあざけりわらって、おもしろはんぶんに見ているしまつだった。親るいの者でさえ、急助を見はなしてしまった。岩穴は、なかなかほり進まなかった。やがて1年がたち、岩穴は、やっと久助のすがたがかくれるほどになった。

その年もまた、村人たちは、箱樋づくりに岩盤のところに集まってきた。村人たちは、髪をふるみだしてつちをふるう、ひげ面のやつれはてた久助のすがたをみて、「たのみもせんのに、ばかな男じゃのう。」「キツネにでもとりつかれたんじゃないか。」と、聞こえよがしにかげ口をたたきあった。

久助は、聞こえぬふりをして、カッカッと、いっそう強く岩肌にのみを打ちつづけた。やがて、2年たち3年たつうちに、のみの音はしだいに岩穴のおくからひびいてくるようになった。久助を、気ちがいあつかいにしていた村人たちも、久助のしんけんなすがたにしだいに心をうたれるようになっていった。

村人の中には、岩穴の入り口にそっと食べ物をおいて帰る者もあった。「久助、元気かあ。」と、声をかける者もあった。鍛冶屋(かじや)が、何も言わずにのみを焼き打ちなおしてくれもした。久助ののみにも、いっそう力がこもっていった。4年目。岩穴はまだ開通しなかったが、岩質はだいぶやわらかくなっていた。

久助はつかれると、自分をはげまますために歌をうたうようになった。久助の歌う声は岩穴の中にひびいて、外の人びとにも聞こえた。こうして5年目をむかえた。春もまだ浅いある日のことだ。「えいっ。」と、一打ちを打ちおろしたとき、のみの先がすっと前に走った。

のみをぬくと、細い光がいなずまのようにとびこんできた。目の前にぽかりと穴があき、まばゆいばかりの日の光が、ひげぼうぼうの久助の顔をてらした。とうとう岩穴をくりぬいたのだ。久助はぺたんとこしを落とした。なみだがとめどなくほおを伝って流れ落ちた。久助は、岩穴をとびだすと、わが家へ走った。

やがて、貫通を伝え聞いた江良の村人たちが、ぞくぞくと岩盤のあたりに集まってきた。みんなかたをたたき合い、手をとり合って喜びの声をあげた。その年、村人たちは、田植えまでにりっぱな水路を作りあげようと、久助のほりぬいた岩穴をさらに切り開き、石垣(いしがき)をきづいてりっぱな水路を完成させた。

いよいよ水路に水を通される日がきた。村人たちは、総出で水路を通って流れてくる水を見まもっていた。「来たぞうっ。」だれかがさけんだ。水はごうごうと音をたてて近づいてきた。「わあっ。」村人たちは、いっせいにどよめきの声をあげた。水はたちまち江良の平地に流れ出て、水田いっぱいに満ちわたっていった。

村人たちのどよめきの声は、江良の里にいつまでもひびきわたった。村人たちから気ちがい久助といわれていた久助は、この日から義農(ぎのう)久助とよばれるようになった。また、最後まであきらめないで岩穴をほりつづけたことから、岩穴鬼衛門(いわあなおにえもん)ともよばれて、村人たちからたたえられた。

久助は、文政13年(ぶんせい13ねん 1830)10月、83歳でこの世をさったという。現在、江良部落の西のはずれ、深川川を澪見下ろす小高い丘の上に、岩穴鬼衛門の碑がひっそりと建てられている。その碑は、いまも江良部落の水田や深川川の水を見まもっているかのようである。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部


『順めぐり』― 山口県 ―

むかし、あるところに、一人の猟師(りょうし)がおったげな。ある日、鉄砲をかついで山に出掛け、藪(やぶ)にしゃがんで獲物(えもの)が来るのを待っちょったげな。

そしたら、ミミズが一匹出て来たと。猟師がミミズに見とれちょると、どこからか蛙(かえる)が一匹出て来さって、パクッてミミズを呑んでしもたげな。猟師がたまげて、その蛙を見ちょったら、こんだあ、蛇が出て来よった。そして、ミミズを呑んだ蛙を、キュウッと呑み込んでしもうたげな。

猟師は、面白うなって、その蛇を見ちょると、こんだぁ、空から雉(きじ)が飛んできょって、スウッと下りて来るが早いか、その蛇をくわえて舞い上がって行ったげな。雉は、ええかげん高(たこ)う上(あ)がると、くわえちょった蛇を、パタッと落としたんじゃと。

それからまた、スウッと下りて来よって、落した蛇を、またくわえて舞い上がり、ええかげんのところで、また落したげな。雉は、こんなことを三べんも、五へんもくり返しよったが、そうしちょるうちに、蛇はとうとう死んでしもうたんじゃと。蛇が動かんようになると、クチバシでつついて、蛇をきれいに喰うてしもたげな。

ここまで見ちょった猟師は、「ほい、ばかじゃった。早よう雉を射たんにゃあ逃げるがに」ちゅうて、鉄砲をかまえて雉を射とうとしたんじゃあ。したが、ひょいと考えたげな。「まてよ、蛇を殺してくうた雉を、わしが射って殺すと、次にゃ、このわしが、また何かに殺られてしもうじゃあなかろうかいのお」ちゅうて、気に掛かり出したげな。

目は、ずっと雉をねろうちょるのに、指の方が言う事きかいで、どうにも、こうにも引き金が引けんかったと。とうとう、猟師は、雉を射つことが出来いで、鉄砲かついで山を下りてしもうたげな。順めぐりが、恐ろしゅうなったんじゃ。

その猟師の耳に「猟師よ、命をひろうたなぁ」ちゅう恐ろし気な声が響いて聞こえげな。猟師はうしろも振り向かんと下りてしもうたげな。その背中の方の空で、大きな目玉が二つ、金色に光っておったげな。

これきり べったり ひらの蓋。

再話 六渡 邦昭
提供 フジパン株式会社


白サルの湯 ~長門市~

俵山温泉(たわらやまおんせん:長門市)は、薬師如来の化身であるサルによって発見されたといわれている。そのころ、全国でほうそう(天然痘)がはやったが、この温泉のおかげでたくさんの人びとがすくわれたという。これは、その温泉にまつわる話である。

俵山に、弘法大師(こうぼうだいし)が開いた能満寺(のうまんじ)という寺がある。この寺の近くに、ひとりの猟師が住んでいた。たいそう働きもので、毎日、朝はやくから夕方おそくまで鳥やけものをとってくらしをたてていた。

きょうも、猟師は、朝早くから身じたくをととのえて、「うんと、えものをとれるといいなあ。」と、ひとりごとをいいながら、りょうに出かけた。ところが、きょうにかぎって、ウサギ一匹とることができなかった。日は西にかたむきかけている。

きょうはもうだめだと、あきらめかけて帰りかけたとき、目の前の木立に動くものがあった。サルだ。しかも、白サルだ!猟師は、胸をわくわくさせて、弓に矢をつがえた。弓を大きくひ引きしぼるとひょうと放った。たしかに手ごたえはあった。

が、おかしいことに、急所をはずしたとみえて、白サルは山おくにににげさってしまった。家に帰った猟師は、白サルのことが気になってしかたがなかった。サルを射そんじて、しかえしをされた話をたくさん聞いていたからである。

しかも、きょうのサルは、ふつうのサルとちがう。いかにも神通力があるような白サルである。けがをしているにちがいないから、いまのうちに殺さないと、自分が殺されるかもしれない。そう思うと、夜も安心してねむることができなかった。

つぎの日から、猟師はどうにかして白サルを見つけだそうと、毎日、毎日、山をさがし歩いた。それから十日ばかりたったある日、ようやく山深い谷で白サルを見つけた。「こんどこそしくじっちゃなんねえぞ。」

猟師はやる気持ちをおさえて、ゆっくりと弓を引きしぼった。ぴたりとねらいをさだめ、いまにも矢を放とうとして、猟師は弓をおろした。白サルのみょうなしぐさが気になったのだ。猟師は弓をおろしたまま、白サルのしぐさを追った。

どうやらしろサルは、きずついたところを谷の川の水であらっているらしい。白サルは、なんどもなんども、谷川の水をすくっては、きず口をていねいにあらっているようである。猟師は、また弓をとりあげた。この機会をのがしては、二度と白サルにめぐりあえないかもしれない。

猟師は力いっぱい弓を引きしぼって、矢を放った。矢は、うなりをあげて飛んだ。矢は、あやまたずに白サルののどにつきたったかに見えた。が、矢はそのまま一直線に飛んで、いつの間にかたちこめはじめたきりの中にすいこまれていった。

白サルのすがたもきりの中にかくれて、どこにも見えなかった。おどろいて目をこらすと、むらさき色の雲にのった薬師如来(やくしにょらい)が、ゆうゆうと山おくにさっていくのが見えた。猟師は、思わずそこにひざまずき、両手を合わせておがんだ。

やがて、ふらふらと立ちあがった猟師は、白サルのいた谷川におりていった。谷川の水をすくってみると、お湯のようにあたたかい。いったいどこから流れてくるのだろうかとさがしてみると、すぐそばの、大きい岩のわれ目からこんこんとわき出ているのだった。

猟師はその水を飲んでみた。すると、からだじゅうに力がみなぎった。それから猟師は、急いで山道をおりて、このことを能満寺のおしょうに話した。おしょうは、「まことにふしぎな話じゃのう。きっと、薬師如来さまが白サルのすがたにお変わりになって、湯のわき口を教えにきてくださったにちがいない。」と、いった。

その後、猟師は、生きものをころす仕事をつらく思うようになって、猟をぷっつりとやめた。そして、湯のわき出る谷川のあたりを切り開き、湯場をつくって入湯に来る人の世話をしてくらしたという。

このようにして、俵山温泉はつくられたということである。薬師如来は、いまでも温泉の近くにまつられて、多くの人々の信心を集めている。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部


錦帯橋の人柱(きんたいきょうのひとばしら)岩国市

周防の国(山口県の東部)岩国に、錦川という大きな川が流れている。この錦川にかけられた錦帯橋は、日本三大奇橋(めずらしい橋)のひとつに数えられ、四季を通じて観光客でにぎわっている。

今からおよそ三百五十年前、岩国の初代殿さまとなった吉川広家(きっかわひろいえ)自分の住んでいる横川と、城下町の錦見(にしきみ)を結ぶ橋をかけたいと思っていた。しかし、それは、口でいうほどやさしいことではなかった。

なにしろ、錦川の川は、幅が二百メートルもあり、いったん雨が降り続くと、濁流(だくりゅう)がうずをまき、かける橋かける橋がつぎつぎと流されてしまうのであった。だから、もう橋をかけるのをあきらめて、渡し舟をつかってみたこともあったが、それもあまり便利ではなかったので、やめてしまった。

このようにして、なかなかよい橋ができないまま、七十年もの年月が流れ、岩国の殿さまも、三代目の広嘉(ひろよし)の時代になった。広嘉は学問好きの殿さまであったので、なんとかして錦川に橋をかけたいと思い、いろいろと考えていた。

ある日のこと、広嘉がかきもちを食べようと思い、金網のうえにおいて焼いていた。すると、もちが焼けるにつれ、プーッとふくれて弓のようにそりかえった。ひばしでおさえても、また、すぐにふくれてそりかえった。おもしろいので、ふくれたもちを四つも五つも金網にのせてみた。そのとき広嘉は、「そうだ。こんなかたちの橋をかければいいのだ。これなどんな大水にも流されることはあるまい。」と、思わず声に出してさけんだ。

橋は今度こそはの期待を受けて、延宝元年(えんぽうがんねん 1673)九月三十日にできあがった。城下の人々は、今まで見たこともない形の橋を見て、「この橋なら、どんな大水が出てもだいじょうぶだ。やっと流されない橋ができた。」と、手をうって大喜びをした。ところが、あくる年の五月、梅雨の長雨で錦川は大洪水となり、人々が心配して見守る中で、あっという間に中央の二つの橋台がくずれ、三つめのそり橋が流れ落ちてしまった。

どんな大洪水にも流れない橋だと信じていた人々は、目の前でくずれ、流れ落ちていく橋を見て、泣くに泣けない気持ちで、言葉も出ず、ただ立ちつくすだけだった。そのうちに、だれともなく、「もう、こうなったら人柱をたてて、水の神様のおいかりをしずめるほかにてだてはないぞ。」という声がでてきた。

人柱というのは、生きた人間を橋の土台の下にうめて、工事の成功をいのるのである。「わたしが人柱になりましょう。」と申し出る者などいるわけがない。流れた橋のそばに集まったたくさんの人々は、ただ、がやがやと騒ぐだけだった。すると、そのとき後ろの方で、「ここにいる人の中で、横つぎのあたっているはかまをはいている者を、人柱にしたらどうだろう。」という声がした。

人々は今度こそはと思った端が流されたのを目のあたりに見て、ぼうぜんとしていた時だけに、「そうだ。それはいい考えだ。横つぎのあたっているはかまをはいている者をさがそう。」と決まってしまい、さっそくはかまを調べはじめた。ところが、横つぎのあたっているはかまをはいている者はたったひとり、それを言い出した男だった。男は、日ごろから信仰心があつく、自分が多くの人の役にたつのなら、いつ命をなげだしてもいいと、人柱になる決心をしたのだった。

その男が、人柱になることが決まったが、男にはたいそう親思いの娘が二人いた。二人の娘は、父親が人柱になることを知り、このうえもなく悲しんだ。「お父様、なぜそのようなことを・・・・。」と、父親にとりすがり、泣いて人柱になることをやめるようにたのんだ。

ところが、父親は娘たちの手をとり、「よくお聞き。これまでに橋は何回もかけかえられた。しかし、橋はかけてもかけてもすぐ流される。その苦労と不便さはお前たちもよく知っているだろう。こんどの新しい端は、お殿様ご自身が、長い年月をかけてくふうされ、ようやくできあがったものなのに、また流されてしまった。この大きな錦川は、日ごろはとても流れがしずかで、水もきれいだが、いったん長雨がふると大洪水となり、人々の生活をおびやかす。このような川に、流れない橋をかけるには、神様のお助けが必要なのだ。わたしは、わたしの力でそれができればうれしいと思っている。だから、もう悲しまないでおくれ。」と、いい聞かせた。

娘たちは、父親の決心の強いことを知り、「それではお父様のかわりに、私たちにやらせてください。」「どうぞ、私たちに親孝行をさせてください。お父様は、まだまだみんなのために働けるお方です。お父様にかわって、私たちが、水の神様にお願いに参ります。」と、涙ながらに父親をときふせた。そして、二人の娘は、父親の身代わりに、人柱となって橋台の下に埋められた。こうして、流れない橋「錦帯橋」は、その年の十月に、りっぱに完成したのである。

その後、錦帯橋の下の石の裏側に、小さな「石人形」がついているのが見られるようになった。石人形は、小さな小石が集まってできており、大きくても2センチメートルぐらいの、それはかわいいものである。これを見つけた人々は、「これは、あの人柱になってくれた娘たちが、石人形に姿を変えたのだ。」と信じるようになった。

水ぬるも春のころ、橋の下を流れる水ぎわで小石を裏返してみると、石人形が見つかることがある。人々は、これをそっとはがし持ち帰り、親孝行な二人の娘をしのび、子供たちに語り伝えたという。

吉川広嘉の時代に造られた錦帯橋は、昭和25年9月14日のキジヤ大風によって流されるまで、276年間、どんな洪水にも流されることはなかった。今、錦帯橋は、その当時の姿のまま造りかえられ、その美しい姿を錦川の流れにうつしている。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部


青海島(おうみじま)の猿亀合戦

大むかしの事、山口県の青海島(おうみじま)と仙崎(せんざき)は陸続きだったので、歩いて行き来が出来ました。そのころ青海島にはたくさんのサルたちがいて、仙崎に行っては畑にいたずらをしてお百姓さんたちを困らせていました。

ある、五月の昼下がりの事です。一匹のサルが仙崎への道を歩いていると、畳一畳敷もあろうかという大きな海ガメが気持ちよさそうに昼寝をしていました。いたずら好きなサルは、海ガメのこうらに乗って海ガメの首を引っぱると、「こら、おきろ! おきろ!」と、わめきました。

すると目を覚ましたカメがびっくりして首を引っ込めたので、サルは手をこうらの中にはさまれてしまったのです。「あいたた! あいたた! ウキー! ウキー!」サルはキーキーと泣いて、仲間に助けをもとめました。

するとその声を聞きつけて、二百匹ものサルたちが集まって来ました。「みんな、力をあわせて仲間を助けるんだ! それ、手をつなげ!」集まったサルたちは手をつなぐと、つな引きの様に手をはさまれたサルを引っ張りました。「よいしょ! よいしょ!」

しかし大海ガメの力は強く、サルたちはずるずると海に引きずられていきます。手をはさまれたサルは、もう少しでおぼれそうです。「後ろのやつ、あの松の木につかまるんだ!」一匹のサルが言うと、後ろにいたサルたちが岩からしっかりと生えている松の木に抱きつきました。

「絶対に、放すなよ。放したら、海に引きづり込まれるぞ!」サルたちは松の木にしがみついてがんばったので、ここでようやく大海ガメの動きが止まりました。急に動けなくなった大海ガメは、何だろうと思って首を伸ばすと後ろの方を見ました。

その時、こうらにはさまれていたサルの手が、すっぽりと抜けたのです。「抜けた! わっ、わわわわー!」ドシーン!!バランスをくずしたサルたちは尻もちをついて、いやというほどお尻の皮をすりむいてしまいました。

この事があってから、青海島のサルのお尻はほかのサルよりも赤くなったのです。また、青海島が今のように仙崎から遠く離れてしまったのも、サルたちが尻もちをついたはずみで動いてしまったのだと言われています。

おしまい

(山口県の民話)


『とっ付こうか ひっ付こうか』― 山口県 ―

むかし、あるところにお爺(じい)さんとお婆(ばあ)さんが住んでおったそうな。

あるとき、お爺さんは、山へ木を樵(き)りに行った。日暮れになってもカキンカキン樵っておったら、山の中から、「とっ付こうか、ひっ付こうか」という声が聞こえてくるんだと。お爺さんは、ああ気味悪いと思ったけれども、知らぬ顔して木を樵っていた。

するとまた、「とっ付こうか、ひっ付こうか」と、言ってきた。『こんだけ年を取ったんじゃ。何が来ても、ま、恐れることはない』こう思って、「とっ付きたきゃあ、とっ付け。ひっ付きたきゃあ、ひっ付け」と、言った。

そしたら、身体(からだ)が重く重くなって来たと。「こりゃおかしなことじゃ。何がひっ付ただろうか、ひどく重たくなってきよった」と、やっとこさで家へ帰って来た。「婆さんや、何か知らんがこんなにたくさんついたが、まあ、見てくれ」

それで帯(おび)をといて見たところが、小判(こばん)がいっぱい身体にひっ付いている。「ありゃ、こげなええ物がひっ付いて。良かったのお、お爺さん」「ほんに、のお、お婆さん」言うて、二人で喜んでその小判をむしり取ったと。

ところが、それを隣(となり)の欲深爺さんが見て、次の日、雨が降るのに山へ行った。真似(まね)をして木を樵っていると、日が暮れた頃、「とっ付こうか、ひっ付こうか」と、聞こえて来た。

これだ、これを待っていた、と、「とっ付きたきゃとっ付け、ひっ付きたきゃひっ付け」と、言い返した。すると、ほんとに身体が重くなって来た。こりゃまあ、ごつい小判がひっ付いたぞ、一枚でも落しちゃあならんと思って、そろりそろり歩いて戻った。

「婆さんや、まあ見てくれ。わしにも重たいほどひっ付いたで」「そうかえ、どれどれ」と、婆さんが、まきの火を近づけてみると、何と、爺さんの着物に松やにやら、蛇(へび)やら、みみずやらが、いっぱい付いていた。

びっくりした婆さんが、おもわず火のついたまきを落したからたまらん。松やにに火がついて、欲深爺さんは身体中(からだじゅう)火だるまになって、とうとう死んでしまったそうな。

これきりべったり ひらの蓋(ふた)。 

再話 六渡 邦昭
提供 フジパン株式会社


勝坂板橋のおろく(かつさかいたばしのおろく) 防府の昔話と民話(4)

防府市から山口へと通じる国道262号線が佐波川を越えたあたりから、勝坂とよばれる長い坂にさしかかる。その坂を登りきるあたりに剣川(つるぎがわ)という小さな川が流れている。

その昔、勝坂は三田尻から萩へ向かう街道だった。剣川に板の橋がかかり、その付近を板橋とよんでいた。板橋付近の街道筋は茶屋や 煮売屋(にうりや)が軒を連ね、旅人の休憩の場としてにぎわっていた。

この板橋の茶屋の一つにおろくというそれはそれは美しい娘がいた。おろくの評判はたちまちにひろがり、わざわざ遠くからもおろくの出すお茶を楽しみにくる客がふえてきた。もちろん近郷の若者たちも何かの口実をつくっては、おろくの茶屋に寄る者が多くなった。

勝坂の先、小鯖(おさば)の山奥からも若者たちが、われもわれもと松葉を背負い、または馬に乗せて、山坂越えては宮市まで売りに行く途中に、おろくの茶屋に立ち寄った。若者たちのおろくにたいする熱の入れようはすさましいもので、たくさんの松葉が売りに出されるので松葉の値が下がってしまったとも言われた。

死んでしまわれ板橋おろく  生きて馬子(まご)の胸こがす

死んでしまわれ板橋おろく  松葉せんばの値が下がる

馬子衆の胸をこがし、松葉の値を下げるおろくにたいして、人々はうらみをこめて残酷にも「死んでしまわれ」とうたったのだ。

おろくに恋こがれた者の中に一人の若侍がいた。ある日、やるせない胸のうちを打ち明けたが、おろくはそっけなくはねつけた。かわいさあまって憎さ百倍、若侍の恋心は憎悪となって吹き出し、ついに腰の刀を抜いて、声をあげて逃げるおろくを一刀の元に切り捨ててしまった。

とうとう人々のうたったとおりにおろくは死んでしまったのだ。おろくの死後、おろくの霊をなぐさめるために、人々は街道べりに墓を建てた。「おろくつか」と彫られた文字は、おろくの美しさゆえに身を滅ぼした無念さを見る人に訴えているかのようだ。

国道が拡張、舗装されることになり、「おろくつか」の移転が問題になった際には、地元の人々は出来るだけ動かさないようにとゆずらなかったそうだ。今は車の騒音と排気ガスの中で、ほとんど人の気配が感じられないひっそりとした墓の姿が何ともあわれである。

時とともに変わっていく人の心を、おろくは今、どんな気持ちでながめていることだろう。

おわり

(防府市立佐波中学校発行・編集「防府」より)




(錦帯橋架け替え全記録より)

(彦島のけしきより)