山口県の伝説、その8 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

おキツネのお産

むかしむかし、あるところに、とても腕のいいお産婆(さんば)さんがいました。お産婆さんとは、赤ちゃんを産むお手伝いをしてくれる人の事です。このお産婆さんに来てもらうと、どんなにひどい難産でも楽に赤ちゃんを産む事が出来ると評判でした。

ある夜の事、お産婆さんが寝ていると、ドンドンドンと誰かが戸をたたきました。「はて、急なお産かな?」お産婆さんが急いで戸を開けると、このあたりでは見た事のない男の人が、青い顔で肩で息をしながら立っています。

「お産婆さん、早く来てください! 嫁が今、苦しんでいます! 初めてのお産なもんで、どうすればいいかわかりません!」「はいはい、落ち着いて。それで、お宅はどちらかね?」「わたしが案内しますので、急いでください!」

お産婆さんは大急ぎで着替えて、お産に必要な物を持って外へ出ました。「おや?」外へ出たお産婆さんは、首をかしげました。外はまっ暗なのに男の人のまわりだけは、ちょうちんで照らしたように明るいのです。「早く! 早く、お願いします!」不思議に思うお産婆さんの手を、男の人がぐいと引っぱって走り出しました。

さて、男の人と一緒に、どのくらい走ったでしょう。気がつくとお産婆さんは、見た事もないご殿の中にいました。そこでは数えきれないほどたくさんの女中さんがお産婆さんを出迎えて、「どうか奥さまを、よろしくお願いします」と、頭をさげます。

長い廊下を女中頭(じょちゅうがしら)に案内されると、金色のふすまが見えました。「奥さまが、お待ちでございます」女中頭に言われて部屋に入ると大きなお腹をかかえた美しい女の人が、ふとんの上で苦しそうに転げ回っています。

「はいはい、落ち着いて。わたしが来たから、もう大丈夫」お産婆さんはやさしく言うと女中頭にお湯や布をたくさん用意させて、さっそくお産にとりかかりました。「さあ、楽にして、りきまずに、力を抜いて、そうそう、がんばって」すると、まもなく、「フギァアーー!」と、元気な男の赤ちゃんが生まれました。

「ふう、やれやれ」お産婆さんが汗をぬぐうと、さっきの男の人が目に涙を浮かべてお産婆さんにお礼を言いました。「本当に、ありがとうございました。無事に息子が生まれ、こんなにうれしい事はありません。どうぞ、あちらの部屋でゆっくりお休みください」お産婆さんは長い廊下を連れていかれて、今度は銀色のふすまの部屋に案内されました。

「おや、まあ」そこには黒塗りの見事なおぜんがあり、お産婆さんのために用意されたごちそうがならんでいます。「ああ、ありがたいねえ」お産婆さんは用意されたごちそうをパクパクと食べると、うとうと眠ってしまいました。

それから、どのくらい時間がたったでしょう。コケコッコー!一番どりの鳴き声で、お産婆さんははっと目を覚ましました。「ここは?」立派なご殿にいたはずなのに、お産婆さんが目を覚ましたのは古い小さな小屋の中でした。

「不思議な事もあるもんだねえ」お産婆さんは村に帰ると、村の人たちにゆうべの事を話しました。すると村人たちは口々に、「それはきっと、お産婆さんの評判を聞いて、キツネが頼みに来たにちげえねえ」と、言ったそうです。

(山口県の民話)


なまずの化身 防府の昔話と民話(3)  

桑山の西側にある山を井上山という。藩士井上氏がこの辺の土地を領し、その山を持っていたので井上山と呼ばれていた。そのふもとに流れている小川の一部に沼があった。

ある日、井上氏が沼の水を抜いて魚を捕ろうと準備をしていたところ、一人の僧侶がやってきて、「この沼には一匹の大きな鯰(なまず)が住み着いている。それはこの沼の主であるから逃がしてやるがよかろう。」と繰り返し言った。

ちょうどその日、井上家に祝い事があり、ごちそうを僧にふるまった。僧はおいしそうに赤飯を食べ、立ち去った。そのうち沼の水も引き、鮒(ふな)や鯰などたくさんの捕れた中に、一匹の巨大な鯰がいた。

「これはうまそうだ。」と早速料理にとりかかり、腹をさいてみると、中から赤飯が出てきたので驚いた。けさ僧の言ったことはすっかり忘れていたが、さては鯰の助命を頼みにきた僧は鯰の化身であったか、と後悔したが今や取り返しがつかない。

せめて罪滅ぼしに鯰の霊を鎮めようと、井上山のふもとにある天徳寺境内に一間四方の小さなお堂を建立し、薬師如来を安置した。毎日のように礼拝したが、その霊を鎮めることはできなかった。

それ以来、井上氏は領していた土地や山林を藩に返上し、だんだん落ちぶれていったと伝えられている。

おわり

(防府市立佐波中学校発行・編集「防府」より)


岩国の白へび ~岩国~

今から二百四十年ほど前、今津の浦(いまづのうら:岩国市今津)に、平太(へいた)というはたらきもに者の漁師(りょうし)が住んでいた。若者は、まずしいながらも、母親としあわせにくらしていた。

そのころ、周防の地(すおうのち:山口県の東部)に、ほうそう(天然痘)がはやった。平太の母親もその病気にかかった。病気は日に日に重くなっていった。高い熱がつづき、頭や腰がわれんばかりにいたんだ。平太は苦しがる母親を見るに見かねて、よい薬をもとめて野山を毎日さがしまわった。

ある日、平太は、村の老人から、ほうそうによくきく薬草が千石原(せんごくばら:岩国市横山)にあるという話を聞きこんだ。平太がよろこんだのは、いうまでもない。千石原に着いた平太は、あちらの竹やぶ、こちらの草むらと、ひっしにさがしまわった。しかし、薬草はどこにもみつからなかった。とうとう、日も西の山にしずみはじめた。

「しかたがない。あしたまたさがしにくるとしよう。」 平太はとぼとぼと歩きはじめた。千石原をぬけ、岩国の殿さま、吉川公(きっかわこう)のやしきの門の前にさしかかった。ふと、なにげなしに松の木を見上げた。おやっと思った。白くてほそ長いものが、松の木をのぼっている。「何じゃろう。」

平太は、松の木に近づいてよく見た。「ヘビじゃ。白ヘビじゃあ。」平太はさけんだ。長さ五尺(約1.5m)、胴まわり四寸(約12cm)もあろうかと思われる、大きな白ヘビだ。月明かりにはえて、その目はもえるように赤い。からだは、銀色にかがやいている。はじめて見る白ヘビに、平太はそこの立ちすくんでしまった。

一夜が明けた。平太は、きのう見た白ヘビの美しさを忘れることができなかった。そこで、村のものしりのところへかけつけ、ゆうべのことを話した。この話は、すぐに村の人びとの間に伝わった。蔵元(くらもと:役所のひとつ)へも聞こえた。蔵元の役人たちは、「そのようなめずらしいヘビなら、生けどって、殿さまにさしあげたらどうじゃろう。」と、さっそく平太に案内させて、白ヘビがいたという松の木のところへ出かけていった。

吉川公の門に近づいてくると、役人のひとりが、「どの松じゃ、平太。」と言った。「はい、たしかにあの松だったと思います。」「ふむ、あれか。」役人たちは、平太の指さす松の木の近くまでいくと、それ以上は松に近よらなかった。「平太。どこにいるか調べてみよ。」

蔵元の役人たちも、しろヘビを見るのは生まれてはじめてだから、こわくてたまらないのだ。松の木をとりかこんで、見上げているばかりだ。「あっ、いました、いました。お役人さま、あれでございます。」平太の指の先をたどっていた役人たちは、ぎょっとしたように一点に目をすえた。白ヘビは、松の上の方でじっとしていた。

ときどきかま首をみんなの方へむけるだけで、少しも動くようすはなかった。やがて、役人たちは、手に手に木ぎれや竹ぎれを持ってきて、白ヘビに投げつけはじめた。けれども、どれもあたらない。役人たちは、むきになってどんどん投げた。

ぐぐっと白ヘビが動いた。目がぴかりと稲光(いなびかり)のように光った。空に黒雲が広がり、しのつくような雨が降りはじめた。錦川(にしきがわ)はみるみるうちに水かさをまし、今にもあふれださんばかりになった。「これはいかん。白ヘビのたたりじゃ。」役人たちは、木切れや竹切れをほうり投げ、クモの子を散らすように逃げさった。

「城山の主かもしれないぞ、このヘビ。」ひとりのこった平太は、そう思って、松の木によじのぼった。ひっしの思いで白ヘビをつかむと、吉川公の門のそばに、そっとにがした。「これでヘビをつかまえるものはいなくなるだろう。」ほっとした平太は、こんどは病気の母が心配になって、急いで家にもどろうとしたところ、錦川があふれくるっていて、とてもわたれるものではない。

「こまったことじゃ。おっかあが待っているのに。」とほうにくれていると、「平太さん、平太さん。」と、よぶ声がする。ふり返ると、さっきの白ヘビが足もとにいた。「あっ、おまえはさっきのム。」白ヘビは、平太の横をするすると通りぬけると、そのまま錦川のだく流の中へ入っていった。平太も、何かにつかれたように、白ヘビの後を追った。すると、ふしぎなことがおこった。

白ヘビが錦川に入ると、錦川が、川のまん中でまっぷたつにわれたのだ。それはちょうど、5尺(約1.5m)ばかりの小道のようになった。小道は、今津(いまづ)の浜に向かって、ずうっとのびていた。「ややっ、これはいったいどういうことじゃ。ふしぎなことがあるものだ。」平太は、白ヘビについて川底の小道を、ずんずん歩いていって、ぶじに今津の浜の家に帰りつくことができた。

「ありがたや、ありがたや。」平太がふりかえると、錦川の小道はあとかたもなく消えて、だく流れが音をたててながれていた。平太は、白ヘビをそっとだきあげると、ふところに入れて家につれ帰った。その後、平太は、いっそう仕事にせいをだした。くらしも楽になり、後に、浦庄屋(うらしょうや:今津の浦の長)にまでなったという。

今津の地に住みついた白ヘビは、藩の米倉(こめぐら)を食い荒らすたくさんのネズミをとって、しだいに数もふえていったといわれる。今も今津の寿橋(ことぶきばし)のそばの白蛇神社には、四季を通して白ヘビが見られ、観光客や、お参りする人びとがあとをたたない。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部


果報者(かほうもの)と阿呆者(あほうもの)

むかしむかし、長門の国(ながとのくに→山口県)の北浦のある里に、とても貧しい夫婦が住んでいました。二人はわずかな田んぼをたがやし、山から拾ってきた薪(たきぎ)を売って、ようやくその日の暮らしをたてていました。

ある日の事、だんなが女房にこんな事を言いました。「毎日毎日、汗水流して働いているのに、わしらの暮らしは少しも良くならんな。わしは、もう働くのにあきてしもうた」すると女房が、こう言いました。「確かに、そうですね。そう言えばこの間、大寧寺(だいねいじ)の和尚さんが説教で『果報は寝て待て』と言っていましたよ。

あわてずに寝て待っていれば、良い事は向こうからやって来るんだそうです。あなたもひとつ、果報を寝て待ってはどうですか?」「なるほど、寝て待てばいいのか。そいつは楽だ」そこでだんなは、その次の日から寝てばかりいました。しかし果報は、いつまでたってもやって来ません。

そんなある満月の夜、寝ながら果報を待っていただんなが大声で叫びました。「おい、こっちへ来てみろ。ほれほれ、この天井窓から、お月さんのウサギが餅をついとるのがよく見えるぞ」「あら、ほんとうね」確かに、天井窓からお月さんのウサギがはっきりと見えました。

さて、この話がたちまち村中に広がり、月夜の晩には大勢の村人たちが夫婦の家へ集まって来て、天井窓から月をのぞくようになりました。それがやがて、「あの家の天井窓からウサギの餅つきを拝んだ者には、果報が来るそうだ」と、言ううわさなって、だんだん遠くからも人が集まって来るようになりました。

そしてお月さんを見に来た人々がお礼のお金やお供物を置いて行くので、夫婦はたちまち大金持ちになったのです。ついに、果報がやってきたのです。喜んだ二人は、ぼろ家をこわして立派な家を建てると、もっとお金がもうかるようにと、十も二十も天井窓を取付けました。

しかしどうしたわけか、新しい天井窓からはいくらお月さんをのぞいても、ちっともウサギの餅つきが見えないのです。やがて夫婦の家には、誰も来なくなりました。それどころか雨が降ると天井窓から雨もりがして、雨水で家が腐り始めたのです。

困った二人は、大寧寺の和尚さんのところへ相談に行きました。すると和尚さんは、大声で笑いながら、「あはははははは。人間は欲を起こすと、果報者も阿呆者になるという事じゃ」と、言ったそうです。

(山口県の民話 福娘童話集より)


姫島婿島物語 防府の昔話と民話(1)

かつては鞠生(まりふ)の松原の沖に浮かぶ向島(むこうしま)は、豊後国の国東半島の沖合いに浮かぶ姫島に対して婿島と呼ばれていた。そのいわれは、とおいとおい昔の神代のこてであった。

周防国の佐波志那都命(さばしなつのみこと)の子に牟礼香来比古(むれかくひこ)という者がいた。身の丈六尺(1.8m)あまりで筋骨たくましく眉目はうるわしいばかりか、大変な働き者であった。佐波川の荒野を切り開いて美田とし、財貨をたくわえて豊にくらしていた。周防国きっての評判の若者であった。

海を隔てた豊後国の国東の里には、加奈古志比売(かなこしひめ)という、これまたたぐいない美貌にかがやき、諸芸にひいでる評判の姫君がいた。父の佐伯速阿岐命(さえきのはやあきのみこと)のもとに、国中の多くの若者が婿になりたいと、言い寄ってきたが、利発にとんだ、かわいい姫君にふさわしい若者はいなかった。

日夜、あれこれと姫君の縁談に気をもんでいた父のもとへ、塩土老翁(しおつちのおじ)がやってきた。塩土老翁はイザナギ・イザナミのおん子で、「海幸山幸」の話にでてくる神で、海路の神として、また塩づくりの神としてあがめられ、諸国を巡って海上航路や塩作りの技術を教えていた。

佐伯速阿岐命の話を聞いた塩土老翁は、しばらく加奈古志比売にふさわしい若者をあれこれ思い浮かべたが、はたとひざを打ち、佐伯速阿岐命に周防国の牟礼香来比古のことを話した。佐伯速阿岐命は、塩土老翁のお目にかなう若者なら、姫君にとって不足はなかろうと思い、塩土老翁に仲介を頼んだ。こうして牟礼香来比古と加奈古志比売はめでたく結ばれることになった。

ところが、当時の婚姻(こんいん)は妻問い婚(つまどいこん)という方式であった。結婚しても、夫婦は一緒に暮らさず、夫も妻も以前と同じように、それぞれが実家で暮らすのが普通であった。夫は妻の家に夜ごと通うので妻問いといい、夜だけ妻子と団欒をともにした。豊後国の加奈古志比売と周防国の牟礼香来比古の場合も例外ではなかった。

牟礼香来比古は昼ひなかは懸命に働き、日が暮れてから船ではるばる国東の里の加奈古志比売のもとに通い、夜明けにまた佐波の浦へ帰ってくるという生活を続けた。牟礼香来比古は働き者でたくましいだけでなはなく、愛情のこまやかな若者であったので、夫婦の愛情はいっそう深まった。

嵐の夜など夫を待ちわびる加奈古志比売は、夫の安否を気づかい、気も狂わんばかりであった。日がたつうちに、さすがの牟礼香来比古も疲れを覚え、次第に働く気力をなくしてしまった。佐波川の美田もいつの間にか草が生い茂ってしまった。そんな息子を気遣った佐波志那都命は家人に命じて、妻のもとへの通いをやめさせるようにした。だが、妻を恋い慕う牟礼香来比古は、たくみに家人の目をかすめて国東へ通い続けた。

がまんのならなくなった父の命は、とうとう舟に鎖(くさり)をかけて、舟を動かせないようにした。いつものように、家人の目をようやくのがれた牟礼香来比古は、浦の船にのり、櫓(ろ)をこいだところ、櫓はきしむばかりで舟は少しも動かなかった。あせった牟礼香来比古は、力いっぱい櫓をこいだが、闇夜(やみよ)に櫓のきしむ音だけ悲しげに響いた。

「加奈古志比売、加奈古志比売・・・・・・」妻を恋い慕って夜の海に向かって絶叫するばかり――。妻を慕う身は、ついに夜が明けると舟ともども島に姿を変えてしまった。その島を婿島(むこしま)という。

一方、夫を待ちわびた加奈古志比売は、ついにこらえきれず、国東の沖まで舟を出して夫を迎えたが、とうとう夫が来ないまま夜が明けた。これまた、あわれにも加奈古志比売も舟ともども島になってしまったという。これが姫島(ひめしま)という。

こうして、恋い慕う夫と妻との仲が引き裂かれて島となり、海を隔てて向かい合って、今も互いに恋い慕っているのが、姫島と婿島(向島)といわれている。

おわり

(防府市立佐波中学校発行・編集「防府」より)


葛粉薬

むかし、むかし、あるところに、たいへん仲の悪い姑(しゅうとめ)と嫁がおりました。

あんまり姑がいびるので、嫁はお寺の和尚(おしょう)さんのところへ行き「和尚さま、姑さんはひどうて、わたしゃぁ、一緒にいるのがつらくてなりません。できるもんなら、人に知られんように亡きものにしてもらうことはできないでしょうか」と、おそるおそる言いました。

すると和尚さんは「そいじゃぁ、ぼつぼつ弱ったあげくに、すぅっと死ねるような薬をあげようかの。七日間、ごはんに薬をまぜてたべさせるのじゃ。その間は姑がどんなに無理を言うても、はいはい、ちゅうて言うとおりにするんじゃぞえ」と、言って薬を嫁に渡しました。

嫁は寺から帰ると、三度のごはんのなかに薬をまぜて姑に食べさせました。そして何を言われても、はいはい、で通しました。そのうち七日が過ぎましたが、なかなか姑は弱りそうにもありません。

それどころか、おかしいほどに優しくなってきました。そこで嫁は「死ぬまえにゃ仏のようになるちゅう話じゃが、それになるのに違いない」と思って、また和尚さんにそのことを話しました。

そして「薬をもうすこしつかぁさりませ」と言ったら、和尚さんは「そいじゃぁ、もう七日分あげようかの。そのかわりまた、姑を大切にするんじゃぞえ」嫁はまた、和尚さんから言われたとおりにしました。

すると姑は「おまえにこれをあげよう。このごろはわしにようしてくれるから、うれしゅうての」と町で買ってきたよい着物を一反(いったん)、嫁に渡しました。

あわてた嫁はお寺に飛んでいき「和尚さん、おおごとでござります。はよう姑さんを助けてくださりませぇ。姑さんを亡きものにしようなんてとてつもないことを思うちょりました」と大声で叫びました。

すると和尚さんが「まぁまぁ。わかってよかった。おまえが姑のいうことを聞かんけぇ、姑がぐちるのじゃ。おまえが、はいはい、といやぁ姑もかわいがってくれなさる。

人にしてもらうよりはさきに人にしてあげなくてはいけん」と言って聞かせると「和尚さま、ようわかりました。これからは姑さんと仲ようしますけえ死なんようになる薬をはようつかぁさりませえ」と嫁はおんおん泣き出しました。

和尚さんはそのようすを見て「泣かいでもええ。あの薬は葛粉じゃけん滋養(じよう)になりこそすれ、死にやぁせん。今からは仲よう暮らしんさいや」と言った、ということです。

(阿武郡)

(山口銀行編纂 山口むかし話より転載)


つる豆腐(周南市)

昔々、八代の里に年老いた父親と親孝行な息子が住んでおりました。家が貧乏で、息子が毎日山から薪を作っては町へ売りに行き、やっと暮らしをたてえいました。

あるひ、息子が町から帰ってくる時、峠で一人の猟師が山田で餌を食べている一羽の鶴を鉄砲でねらっているのを見つけました。息子は急いで小石を拾うと、鶴の方に向かって投げました。

鶴が驚いて飛び立つと同時にズドンと鉄砲がなりました。危ないところを鶴は助かりました。息子に気づいた猟師は、息子のじゃまを知ってひどい剣幕で怒りました。

息子は仕方なく、せっかく町で得た薪(まき)のお金を差し出してやっと許してもらいました。家に帰って父親に話すと父親は「それはよいことをした。と息子をほめました。

夕方、表の戸をトントンとたたく音がしました。開けてみると、若い美しい女が立っていて、「雪に閉じこめられて困っております。どうか一晩泊めて下さいませ。」と頼むのです。「こんな見苦しいところでもよければどうぞ。」と招き入れ、いろりに薪を入れあたらせまた。

翌朝親子が目を覚ますと昨夜から水に浸しておいた豆で女が豆腐をたくさん作っていましたのでビックリしました。「私は旅の者ですが、しばらくここに置いて下さいませ。」と言って、それからは毎日豆腐作りに精をだしました。できた豆腐を町で売ると評判がよく、どんどん売れていきました。

一年もたつうちに親子の家は大変豊になりました。父親は女に「どうか息子の嫁になって下さい。」と。「ありがたい話ですが、実は私は峠で助けていただいた鶴でございます。

ご恩返しに今日まで働かせていただきましたが、お二人のくらしも豊かになったようですので、私はこれでお別れさせていただきます」そういうと女はあっと驚く二人をあとにして鶴となって天高く舞い上がり、どこへともなく姿を消してしまいました。


水なし川(みずなしがわ)山口市

山口市の湯田温泉の西を流れている川を「吉敷川(よしきがわ)」という。この川のことを「水なし川」ともよんでいる。今からおよそ千百年も前のことである。

ある夏のあつい昼さがり、一本の杖をついた、みすぼらしいおぼうさんが、どこからともなくやってきて、この吉敷川の川辺に足を止めた。「ああ、いい風がふいてくる。生き返ったようじゃ。」と、気もちよさそうにつぶやいて、そよふく風をこのうえなく楽しむように立っていた。

ふと、お坊さんは、川岸で、せっせと洗濯をしているおばあさんを見つけて、その方へ歩いていった。「おばあさん、まことにすみませんが、水をいっぱいもらえまいか。」と、声をかけた。おばあさんは、びっくりしたようにふりむいたが、お坊さんのみなりをみると、怒った顔をして、返事もせず、また、洗濯を続けた。

お坊さんは、前よりももっとていねいに水をくれるようにたのんだ。するとおばあさんは、立ち上がって、お坊さんを見上げて、「うるさいな。わしはいそがしいのだよ。お前みたいなこじき坊主の相手になっておれん。飲みたかったら、かってに飲んで、さっさと行っておしまい。」と、さも、憎らしげに言って、また、もとのように洗濯を続けた。

旅のお坊さんは、「おばあさん、おじゃましたね。」と、さびしそうに、水も飲まず、すたすたと立ち去っていってしまった。その年は、いつになっても雨が降らず、秋が近づくころには吉敷川の水はだんだん少なくなっていった。

しかし、吉敷川の上流の方では水がかなりあっても、ふしぎなことに、おばあさんが洗濯をしていたあたりまでくると、まるで水がなくなってしまうのである。そして、ここから八百メートルばかり下流になると、また、水がどこからともなくわき出て、流れはじめるのである。

そのうち、だれ言うともなく、「いっぱいの水ももらえなかった旅のお坊さんは、弘法大師(こぷぼうだいし)であったにちがいない。おばあさんの悪い心をこらしめるため、水の流れを止められたのだろう。」と、旅のお坊さんとおばあさんのことをうわさするようになったということである。

それからは、吉敷の人は、吉敷に来るどんな人にも親切にしなくてはと、おたがいにいましめあったという。それからは、吉敷川を「水なし川」ともいうようになったという。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部


牛島の民話 丑森明神について

むかしむかし、牛島に甚兵衛という情け深い人が住んでいた。田んぼから牛をひいて帰ると、必ず海へ連れていって洗ってやり、そして「ほんとにご苦労じやったのう。よう働いてくれた。明日もまた頼むでよ」とねぎらいの言葉をかけるのが常であった。

ある日のこと、甚兵衛はいつものように牛を田んぼから牽いて帰ると、すぐに海へ連れて行った。その日の仕事は平日の倍以上もあったので、甚兵衛は特別に念を入れて洗ってやり、「よう働いてくれて、ほんとに有り難うよ。明日からはゆっくりさせてやるからな」と、いたわりながら足腰をていねいにこすってやり、「さあヽ早ういんで、メシにするかのう」と、牛の手綱をとって浜から上がろうとしたが、その日に限って牛はどうしても甚兵衛のいうことをきかず、何度やっても四本の足を海中にふんばって動こうとしない。

そこへ折よく島の若い衆が通りかかり、すぐに海へはいって沖から牛を追いあげてくれたので、甚兵衛はほっとして家に帰った。その夜のことである。甚兵衛は真夜中に体が焼けるように熱いのに驚いて飛び起きてみると家が盛んに燃えている。火の回りが早くて家財道具を運び出すひまもなく、急いで牛小屋へ行ってみると、牛もすでに焼け死んでいた。

 「あのとき海から上がろうとしなかったのは、こうなる予感があったからかな。ほんとに可哀相なことをしたもんだ」と、甚兵衛はまるでわが子を焼け死なせたように嘆き悲しむのであった。

それから数年が経過した。ある日、畑仕事をしていた甚兵衛がふと空を見上げると、死んだ牛の形をした黒雲が島の上にゆっくりとおおいかぶさってきた。「こりゃ、大変じゃ。」甚兵衛はそう叫んで急いで村へ帰り、「村のし、大変じゃど。今夜は火の用心をせんさいよI」と注意して回ったが、村の人たちは甚兵衛が気でもふれたのかと、ただ笑って別に気にとめるものもなかった。

ところが、その夜のことである。どこから出たともわからない火のために、島はまる焼け同様になってしまった。こうした不審火がその後も数回つづいたので、いつのまにか「こりゃァ甚兵衛さんとこの、焼け死んだ牛の崇りじゃ」という噂が起こり、そのうちに誰がいい出したともなく、「村で牛の供養墓を立ててやろう」ということになり、話はすぐにまとまって共同墓地のなかにその牛の墓が建てられ、墓石には 「うしもり明神」と刻まれた。

これからのち島には火事らしい火事はなくなったという。

(光市史 昭和50年3月31日発行)


猿地蔵

むかし、むかし、あるところに、正直で働き者のおじいさんとおばあさんが、まずしいながらもなかよく暮らしておりました。ある日、おじいさんは、いつものように山へ木をかりにでかけました。

やがてお昼になったので、弁当を食べ、木の切りかぶにすわって休んでいました。と、そのうちに、おじいさんは眠くなって、いつのまにか眠ってしまいました。すると、そこへ、山から猿たちが出てきて、眠っているおじいさんをみつけました。

「あれ、こんなところにお地蔵さまがいてござる。もったいないことじゃから、みんなで川向こうの山のお堂へおまつりしよう」こうして、眠っているおじいさんをお地蔵さまとまちがえた猿たちは、みんなで手車をくんで、おじいさんをかつぎました。

おじいさんは起きていましたが、だまって猿たちのするようにさせておきました。そして、川を渡るとき、猿たちは「流れははやく水深く たとえわしらは流されようと お地蔵さまだけは流すまい」と、はやしたてました。おじいさんは、おかしくてしかたがありませんが、じっと目をつぶってこらえていました。

やがて、猿たちは、おじいさんをお堂にかつぎこむと、どこから持ってくるのか、かわるがわるに「お地蔵さまにしんぜましょう」と、たくさんのおさいせんやおもちやお米を、おじいさんの前にそなえました。猿たちがいなくなると、おじいさんは、おそなえ物を集めてお堂をでました。

それから町へ出かけ、おばあさんにきれいな着物を買って帰りました。そのあくる日、おじいさんとおばあさんが、猿たちにもらったごちそうを食べているところへ、となりのばあさんがやってきて、「二人ともきれいな着物を着て、どねえしたのかいな」と、うらやましそうにたずねました。

そこで、正直なおじいさんは猿たちのことを、となりのばあさんに話しました。それを聞いたとなりのばあさんは、大いそぎで家に帰ると、さっそくとなりのじいさんを山へ出かけさせました。山についたじいさんは、聞いたとおり、お地蔵さんのようにじっとすわりこみました。すると、猿たちがきて、じいさんを運びはじめました。

そして、川をわたるとき、猿たちはまた、同じようにはやしたてました。これを聞いたじいさんは、おかしくてなりません。ぐっとおなかに力を入れてがまんしましたが、力を入れすぎてプッとおならをしてしまいました。すると、猿たちは「あれまあ、お地蔵さまがおならをするなんぞ、これはにせものじゃ、にせものじゃ」と、じいさんを川に落としてしまいました。

じいさんは、ずぶぬれになって家に帰りました。一方、ばあさんは、きれいな着物が手にはいると思い、古い着物をみんな燃やしてしまいました。こうして、欲の深いじいさんとばあさんは、とうとう大かぜをひいてしまった、ということです。

(大島・玖珂・熊毛郡)

(山口銀行編纂 山口むかし話より転載)


雨乞い禅師 (あまごいぜんじ)~美祢市~

いまからおよそ600年前のことである。美祢地方は田植えの季節が近づいたというのに、いっこうに雨のふる気配がなかった。田や畑の作物はつぎつぎと枯れ、飲み水にもことかくありさまであった。

このころ、人々は、長く続くいくさのため、身も心もすっかり疲れはてていた。そのうえ、この日照り続きである。百姓たちは、空を見上げては、「どうして雨は降らんのじゃろうかのう。」と、なげいていた。

滝穴(たきあな:秋芳)から十町(約1km)ほどはなれたところに、自住寺(じじゅうじ)というお寺があった。このお寺に寿円(じゅえん)というおしょうがいた。ひごろから、苦しいことも楽しいことも村人たちと分かちあっているおしょうは、なんとかして村人たちのなんぎをすくいたいと思っていた。

寿円おしょうが滝穴にこもったのは、その年の5月1日の夜明けのことであった。暗い滝穴にこもると、断食(だんじき)をして、昼も夜も念仏をとなえ続ける行(ぎょう)にはいった。3日たち、10日たち、やがて満願(まんがん)の21日めがきた。

夜がしらじらと明けた。と、みるまに真っ黒な雲が空をおおいはじめ、雷がなりひびき、大粒の雨が大地をたたきはじめた。待ちに待った雨だ。村人たちは、家を走り出て、天をあおいで雨にうたれていた。

願いがかなったことを見とどけた寿円おしょうは、しずかに手をあわせると、おりからの大雨でうなりをあげて流れ落ちる竜が淵(りゅうがぶち)の濁流(だくりゅう)の中へ、身を投げた。

それから数日後、寿円おしょうのなきがらは、滝穴の下流の淵で見つかった。村人たちは、悲しみのうちに寿円おしょうをとむらった。そして、おしょうの徳を長く人々に伝えるために、火葬したおしょうの骨と灰をねって、寿円おしょうの座像をつくった。

村人たちは、その座像を自住寺にまつり、いつまでも寿円おしょうの徳をしのんだということだ。その後、自住寺は雨乞い寺、寿円おしょうは雨乞い禅師とよばれるようになったという。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部


雪舟駒つなぎの絵馬 ~山口市~

山口市の湯田温泉から西へおよそ4キロメートルばかりはいった吉敷の滝河内(たきごうち)というところに、龍蔵寺(りゅうぞうじ)という古いお寺がある。龍蔵寺は、今からおよそ千二百年も前に建てられたと伝えられる寺である。

そのむかし、行基(ぎょうき)という僧が自分でつくた千手観音を安置し、龍蔵寺と名づけたという。この寺に雪舟という名高い絵かきがかいたと伝えられる古びた絵馬がある。これは、この絵馬にまつわる話である。

雪舟が山口に住んでいたころというから、今から五百年も前のことである。「じつにみごとな絵じゃのう。まるで生きちょるみたいじゃのう。」「さすが、日本一の雪舟さまがかいただけのことはあるのう。りっぱなものじゃのう。」龍蔵寺の観音堂にかかげられた絵馬をみて、百姓たちは口ぐちにほめそやした。

ところが、それからしばらくしてからのことであった。ある日のこと、たいへんなことがもちあがった。その日、吉敷の里の人びとは、秋のとり入れのこととて、野良でいそがしく働いていた。そこへ、ひとりの百姓が血相をかえてかけてきた。

「た、た、たいへんじゃ。わ、わ、わしの家のたんぼが、何ものかにあらされちょる。」ところが、たんぼがあらされているのは、その男のところだけではなかった。あっちの田んぼも、こっちの田んぼも、イネの穂は食いあらされ、ふみたおされていた。

「いったい、だれのしわざじゃ。」「ほんとに、どこのどいつじゃ。」「おや? こ、こりゃ、馬の足あとがある。どこかの馬がゆうべのうちにあらしたにちがいないぞっ。」ひとりがさけんだ。「そねえいうても、夜中に馬をはなすものはおらんじゃろう。」

百姓たちは、あれこれ話し合ったすえ、今夜からみんなで見張りをして、正体をつかもうということになった。真夜中のことを丑三つ時(うしみつどき)というが、その時刻になると草木もねむり、軒端(にきば)も三寸(約10cm)しずむという。とにかくさびっしい時刻で、化けものもこの時刻に出るといわれている。

その丑三つ時とも思われるころ、月明かりの中をどこからともなく一頭の黒いはだか馬(くらをつけていない馬)があらわれたかとおもうと、ねずの番をしている百姓の前をつっぱしった。百姓たちは、あっというまのできごとに息をのんだ。それもそのはず、ついぞこの近くで見かけたことのない馬であった。

百姓たちは、われにかえると「おいかけえ!」「あっちだあっちだ!いけいけえ!」黒い馬は、田んぼをふみ、畑をあらし、深い森をかけぬけて西へむかって走っていった。「どこへいったあっ。」「見失ってしもうたかーー。おしいことをしたのう。」百姓たちは、馬のゆくえをみきわめようと、その足あとをたどって走った。

どれほど走ったか。百姓たちは、森をぬけ、坂をのぼった。あせが背をぬらした。息はきれ、足のつめからは血がにじんできた。つかれはて、百姓たちはうっそうとした木立のあたりですわりこんだ。みな、ぜいぜいとせわしい息づかいだ。

と、「こりゃ、どうしたちゅうことかい。」ひとりがとんきょうな声をあげた。意外にもそこは龍蔵寺の山門の中だったのだ。「おかしいのう。龍蔵寺様には、馬をこうちゃおられん(かってはいない)はずでよ。」百姓たちは、そういいあいながら、寺のあちこちをくまなくさがしてみたが、馬などみつかるはずもなかった。

あまりのふしぎさに、もう一度よくよくしらべてみようと、百姓たちは、また、馬の足あとをつけた。足あとは観音堂の前までつづき、観音堂の絵馬の前でふっと消えている。絵馬の馬が?みんなは絵馬をみあげて首をひねった。

そんなばかなことはない。だが、この足あとはーー。雪舟のかいた絵馬があまりにもみごとなので、この馬がぬけだしてきたのにちがいない、そうだそれにちがいないと、百姓たちはそう思わないわけにはいかなかった。

そこで、馬が絵馬からぬけ出さないようにと、雪舟におねがいして、はだか馬に手綱(たづな)をつけてもらった。それからというものは、吉敷の里には、田をあらす馬はいなくなった。村人たちは安心して秋のとり入れにせいをだしたという。

龍蔵寺の山門のそばに大きな岩がある。その表面に、ちょうど馬のひづめの形ににたくぼみがある。それは、馬が絵馬からぬけ出したときにふみつけた足あとだと、言い伝えられている。龍蔵寺の絵馬は、今も龍蔵寺にあって、吉敷の人びとに大切にされている。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部


長者の森

むかしむかし、ある山のふもとに二軒の家がありました。二軒の家は、どちらも貧しい炭焼きの家でした。ある日の事、一軒の家には男の子が、もう一軒の家には女の子が生まれました。そして二人の父親は、子供たちが大きくなったら結婚させる約束をしました。

ところがこの女の子には、山の福の神がついていました。女の子が山へ行くと、ただの木の葉や石ころまで、みんなお金にかわってしまうのです。そんなわけで、女の子の家はお金持ちになっていきました。しかし男の子の家の方は、あいかわらず貧乏なままでした。

やがて二人の子供が年頃になったころ、男の子の父親はむかしの約束を思い出して、息子を婿にしてくれと女の子の家に申し出ました。女の子の父親は約束を守り、二人は夫婦になりました。福の神のおかげで家はますます豊かになっていき、長者屋敷といわれる屋敷には、蔵がいくつもいくつも建ち並びました。

さてそうなると、主人にはおごりが出てきました。遊びに出て夜遅く戻っては、冷めてしまった料理を見て、「こんな冷たいものを、食べられるか!」と、妻をどなりつけるのです。そこで妻は考えて、ある夜、熱いそばがきを出しました。しかし、ぜいたくに慣れた主人は、「なんだ、こんなまずい物!」と、言うと、足で蹴り飛ばしたのです。

すると、ザワザワという音と共に、蔵からたくさんの穀象虫(こくぞうむし)と白い蛾(が)が出てきました。それは主人のふるまいに怒った福の神が、米を全部虫や蛾にしてしまい、自分も立ち去って行く姿だったのです。

それからは主人は何をしても失敗ばかりで、やがて広い屋敷もなくなり、一家は行方知れずになってしまいました。それから月日が流れて、かつての長者屋敷は森になりました。人々はそれを「長者の森」と呼び、ぜいたくやおごった心を持たぬようにとの、戒めにしたということです。

(山口県の民話 福娘童話集より)


身代わり名号(みょうごう)~宇部市~

いまから五百年ぐらいむかしの話である。長門の国(山口県)須恵の黒石(すえのくろいし:宇部市厚南区黒石)に蓮光(れんこう)というおぼうさんがいた。このおぼうさんは、もとは武将で、名前を伊東順光(いとうとしみつ)といった。順光は室町幕府の六代将軍足利義教(あしかがよしのり)の家来で、武芸にすぐれ、将軍にもしんらいされていた。

ある年、順光に、悲しいできごとがつぎつぎと起こった。妻と子があいついで病死したかと思うと、こんどは将軍義教が家来に殺されるという大事件が起きたのだ。妻と子をなくした悲しみも大きかったが、主君が殺されたというおどろきもたいへんなものであった。

すぐさま味方の武将と力を合わせてうら切り者をうちはたし、主君のかたきをとった。さきにいとしい妻と子をなくし、今また主君と別れてしまった順光は、生きていくはりあいをうしなって、とうとう仏の道にはいるけっしんをした。

順光から話をきいた本願寺の蓮如上人(れんにょじょうにん)は、順光の心にふかくうたれ、弟子にむかえた。順光は、上人のもとでむちゅうになって仏の道を学んだ。何年もの修行をつんだあと、上人に、「蓮光坊、おまえは西国(さいこく:今の九州地方)へ行って、仏教を広めてきなさい。」と、言われた。

そこで蓮光は、上人からいただいた六字の名号(南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の六字を書いたもの)と木仏をもって、ひとり九州へ旅立った。蓮光は、周防山口の湯田をへて、小郡から船にのった。船には、黒石の番所の富岡七兵衛(とみおかしちべえ)という役人がのっていた。

蓮光と七兵衛は、話しをしているうちにうちとけ、はじめから兄弟のように親しくなった。七兵衛は、黒石に住むようにねっしんに蓮光をくどいた。蓮光は、九州行きに心をのこしながらも、黒石に住むことにした。

黒石の村に住むようになってから、田や畑であせを流している百姓(ひゃくしょう)や道で会う人たちに、蓮光はわけへだてなく声をかけ、元気づけた。人々の元気なすがたを見ては喜び、やまいに苦しむ人を見ては同情をしはげます毎日をおくった。

そのうち、黒石の人々は、「法師さま(ほうしさま:ぼうさん)の顔は、わたしたちとはどこかちがうようじゃ。」「法師さまのおことばは、ほんとうにありがたいのう。生きかえるようじゃ。」と、蓮光を心からうやまうようになっていた。

蓮光もまた、人々のかざりけのないあたたかさに心をひかれ、この村に住むことがほんとうに楽しくなっていった。その頃の須恵の黒石は、厚東川流域(りゅういき)のよい港だったので人の出入りも多く、蓮光のうわさは口から口へと広がっていった。蓮光をしたう人々はふえるばかりであった。

そんな蓮光をおもしろく思っていない者がいた。土地の僧たちだ。僧たちは、黒石をおさめる大内の役人に、「蓮光は、もともとは伊東順光という武将で、ひそかに大内のようすをさぐっているけしからん者です。」「蓮光の教えはまちがっています。」と、ありもしないことをならべたてた。そのため蓮光は大内氏の役人にとらえられた。

役人は、いつも罪人をさばくときのように、ろくにしらべもしなかった。蓮光は、「わたしが仏の道を歩んでまいりましたのは、実は・・・・・。」と、心のうちをあかそうとしても、役人はそんなことは聞きたくもないというふうに、「民びとの心を惑わすかしたお前の罪は、たいへん重い。」と、打ち首の刑を言いわたした。

横州の浜で首をきられることになった蓮光は、その日から、牢の中でひとりしずかに念仏をとなえるようになった。いよいよその日がやってきた。刑場にむかうとちゅう、蓮光は、上人からいただいた名号を、役人の目をぬすんで中野(厚南区)の土地にうめた。

刑場についた蓮光は、これから刑をうける人とも思えないほどおちつきはらっていた。目をとじ、手をひざの上にのせて、刑をまっていた。やがて刑の時こくになった。役人は、しずかに刀をとって、蓮光のうしろにまわった。「えいっ。」役人は刀をふりおろした。

刑場をぐるりとかこんで見守っていた村人たちは、顔をおおい、手をあわせた。念仏をとなえる村人たちの声がしずかにおこった。が、それはすぐにおどろきのどよめきに変わった。蓮光が、さっきと同じままの姿ですわってていたのだ。もちろん首はそのままに。

首切役人は、青い顔をして、「これはいったいどうしたというのだ。」と、ふるえる手に力を入れ、また刀をふるかぶった。が、その時だった。「待てえっ、待てえっ。」大声でさけびながら、早馬が刑場にかけこんできた。城からの急ぎの使いだ。

「その刑は待たれい。法師さまには罪のないことがわかった。この土地での布教はゆるされたぞ。」使いの声は、山やまにこだました。役人はあわてて刀をおさめた。ゆるされた蓮光は、走るようにして中野にむかった。

うめておいた名号をほりだすためだ。蓮光は、うめたあたりにつくと、急いで手でほりかえした。「あっ。」蓮光は息をのんだ。手にとった名号は「南無」の二字のところでふたつに切れ、真っ赤に染まっていた。

話をつたえ聞いた村人たちは、「なんでも、法師さまは、刀さえよせつけないりっぱな方だそうな。」「いや、もっとふしぎなことは、名号のほうじゃ。あの名号こそ、法師さまのみがわりになられた、たっとい(尊い)ものだそうな。」

うわさは国じゅうにひろがった。それからというもの、あちらこちらから蓮光をしたってやってくる人がたえなかったという。そののち、名号を埋めたあたりにお寺を建て、蓮光法師をむかえいれた。それが今の蓮光寺である。名号を埋めたといわれるところは名号塚といわれている。身代わりの名号は、今も寺の宝として、たいせつにしまわれている。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

(彦島のけしきより)

赤矢印: 向島 緑矢印: 姫島