山口県の伝説、その5 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

天人女房(てんにんにょうぼう)

むかしむかし、あるところに、一人の若い木こりが住んでいました。

ある日の事、木こりは仕事に出かける途中で、一匹のチョウがクモの巣にかかって苦しんでいるのを見つけました。「おや? これは可哀想に」木こりはクモの巣を払って、チョウを逃がしてやりました。

それから少し行くと、一匹のキツネが罠(わな)にかかっていたので、「おや? これは可哀想に」と、木こりは罠からキツネをはすして助けてやりました。

またしばらく行くと、今度は一羽のキジが藤かずらにからまってもがいていましたので、「おや? これは可哀想に」と、木こりはナタで藤かずらを切り払い、キジを助け逃がしてやりました。

さて、その日の昼近くです。木こりが泉へ水をくみに行くと、三人の天女が水を浴びていました。天女の美しさに心奪われた木こりは、泉のほとりに天女が脱ぎすてている羽衣(はごろも)の一枚を盗みとって、木の間に隠れました。

やがて三人の天女は水から出てきましたが、そのうちの一人だけは天に舞いあがるための羽衣が見つかりません。二人の天女はしかたなく、一人を残して天に帰って行きました。残された天女は、しくしく泣き出しました。

これを見た木こりは木の間から出て行って、天女をなぐさめて家へ連れて帰りました。そして羽衣は、天井裏へしまいこみました。そして何年かが過ぎて、二人は夫婦になったのですが、ある日木こりが山から戻ってみると、天女の姿が見あたりません。

天井裏の羽衣も消えています。ふと見ると、部屋のまん中に手紙と、豆が二粒ころがっていました。手紙には、こう書いてありました。《天の父が、あたしを連れ戻しに来ました。あたしに会いたいのなら、この豆を庭にまいてください》

木こりがその豆を庭にまいてみると、豆のつるがぐんぐんのびて、ひと月もすると天まで届いたのです。「待っていろ、今行くからな」木こりは天女に会いたくて、高い高い豆のつるをどんどん登って行きました。

何とか無事に天に着いたのですが、しかし天は広くて、木こりは道に迷ってしまいました。すると一羽のキジが飛んで来て、木こりを天女の家に案内してくれたのです。

しかし、天女に会う前に父親が出て来て「娘に会いたいのなら、この一升の金の胡麻(ごま)を明日までに全部拾ってこい」と、言って、天から地上へ金の胡麻をばらまいたのです。天から落とした胡麻を全て拾うなんて、出来るはずがありません。

とりあえず金の胡麻探しに出かけた木こりが、どうしたらよいかわからずに困っていると、あの時のキツネがやって来て、森中の動物たちに命令して、天からばらまいた金の胡麻を一つ残らず集めてくれたのです。

木こりが持ってきた金の胡麻の数を数えた天女の父親は、仕方なく三人の娘の天女を連れてくると、「おまえが地上で暮していた娘を選べ、間違えたら、お前を天から突き落としてやる」と、いうのです。

ところが三人の顔が全く同じなので、どの娘が木こりの探している娘かわかりません。するとチョウがひらひらと飛んで来て、まん中の娘の肩にとまりました。「わかりました。わたしの妻は、まん中の娘です」見事に自分の妻を言い当てた木こりは、その天女と幸福に暮らしたということです。

(山口県の民話 福娘童話集より)


えんこうと杉の木

佐波川上流の柚野、柚木あたりの話である。このあたりでは、大きな杉の木が茂っている風景をよく見かける。さて、昔、佐波川にも「えんこう」がいて、泳ぎに行くと、足を引っぱるといって、子どもたちはとても恐れていました。

ある夏の日のことでした。朝から雲ひとつない良い天気で、ギラギラと焼けつくような太陽がようしゃなく照っていました。するどい光にあてられて、草もきもすっかり元気をなくしていましたが、山あいのけい流では、子どもたちの楽しそうにはずんだ声が、こだましてははねかえっていました。

さすがに暑い日も、太陽がかたむくころになると、涼しい風が木々の間を優しくわたってきました。「ジィージィー」「ミーンミーン」と聞こえていたせみの声が、いつの間にか「カナカナ」という声に変わり、あたりはすっかり静まりかえってきました。

まもなくひとりの百姓が馬をひいて「淵」へやってきました。汗とほこりにまみれた馬を、冷たい川の水につけ、百姓はやさしく馬の背中を洗ってやりました。馬は気もちよさそうに目を細め、緑の葉が鳴る風の音と、馬を洗う水の音だけが響いていました。

突然、その静けさを破って、一匹のえんこうが淵の水面に姿を現しました。と見る間に馬のしっぽにつかまり、長くのびる手を馬のおしりから突っ込んで、生き肝をとろうとしたのです。

馬は驚いて、前足を高くあげていななくやら、身ぶるいをするやら大あばれをはじめ、えんこうをしっぽにぶらさげたまま、たいへんな勢いで走り出し、お寺の境内にかけこみました。

さわぎにおどろいてお坊さんが庭に出てみると、あばれまわっている馬のしっぽに、必死にしがみついているえんこうが、「オンオン」泣いているではありませんか。

ほどなく、馬も疲れたとみえておとなしくなりました。お坊さんはえんこうに向かって重々しくいいました。「おまえは人間を困らせるような悪いことばかりしている。重いおしおきをしなければ。」

すると、えんこうは泣きべそをかきながらいやいやをしました。「今日は許してやろう。そのかわり、川辺りに杉を植えること。その杉がある間は決して悪いことをしてはならない。

もしも今度、人間を困らせるようなことをしたら、ただではすまさんぞ。」と、おどすようにお坊さんはいいました。えんこうは、首を何度も下げて、うれしそうに川へ帰っていきました。

次の日、朝早くから、えんこうは一生けんめい川辺りに杉を植えました。それからというもの、えんこうは人間の前に出ることもなくなり、だんだんと忘れられていきました。

しかし、えんこうがお坊さんと約束を守って植えた杉の木は、どんどん大きくなりました。そして、大雨で洪水が出たとき、護岸の役目をし、村を救ってくれました。お坊さんは、ちゃんと村の将来のことを考えていたのでしょう。

(「徳地の昔ばなし」(徳地町教育委員会編集 平成3年発行)より引用)


かくれ蓑(みの)

桃太郎が鬼ヶ島から持ち帰った宝物の中に、かくれ蓑(みの)というものがありました。このかくれ蓑、見かけはボロボロで汚れていますが、それを着るとたちまち体が消えて見えなくなってしまうという不思議な宝物です。

さてある晩のこと、一人の盗人が桃太郎の家へ忍び込み、かくれ蓑を盗み出しました。「よし、こいつを俺の商売に利用してやろう」それからは、盗人の仕事はおもしろいほどはかどります。どこへ泥棒にはいっても、かくれ蓑を着ているおかげで誰にも見つかることはありません。

ところがある日、盗人の留守に納屋でかくれ蓑を見つけた盗人のおばあさんは、「なんだ、この汚い物は」と、かくれ蓑を焼いてしまったのです。帰ってきた盗人はがっかりです。

でも、あきらめきれずにいろいろ考えた結果、裸になって体中にのりをつけ、かくれ蓑を焼いた灰の上をごろごろころがってみました。すると灰にも不思議な力があるとみえて、体がすーっと見えなくなるではありませんか。

「よし、これで最後の大仕事をしよう」盗人はそのまま、村一番の長者の屋敷へ泥棒にはいりました。屋敷の者たちは、目の前の物が次々に消えてなくなるのでびっくりです。盗人は思わず、口元を手をさすってクスッと笑いました。

すると白い歯がチラッと現れたのです。「見ろ、歯の化け物だ!」家中が大騒ぎになりました。盗人はあわてて逃げ出しましたが、手をさすった時に手のひらの灰がとれていたので、手のひらが二つヒラヒラと逃げて行く様子が誰の目にも明らかになりました。

「よし、あれを追うのだ!」みんなは手のひら目印に、どこまでも追ってきます。盗人は逃げて逃げて、全身に汗をかきました。すると汗に体中の灰が落ちてしまい、盗人はすっ裸のみじめな姿でつかまったということです。

(山口県の民話 福娘童話集より)


白ギツネと福徳稲荷 ~下松市~

下松市花岡の上市(かみいち)に、朱塗りの大鳥居のある法静寺(ほうじょうじ)というお寺がある。お寺に鳥居があるのは、めずらしいことであるが、それは、このお寺の境内に、福徳稲荷大明神(ふくとくいなりだいみょうじん)がまつられているからである。

いまから二百五十年ほど前、このお寺に称誉智順上人(しょうよちじゅんじょうにん)というおしょうさんがいた。おしょうさんは、生き物をかわいがる心のやさしい人であった。こまった人や苦しんで人を助けたり、悪い心をもっている人を正しくみちびいたりして、村の人びとからうやまわれ、したわれていた。

秋のはじめのある日のことである。おしょうさんは、いつもより早く朝のおつとめをし、よそゆきの衣(ころも)に着替えると、じゅずをもって、外へ出た。きょうは、徳山(とくやま)の町へ法事へ出かけるのである。

山門をくぐりぬける朝の風はすずしく、たいへんここちよかった。「きょうもいい天気だわい。昼間はあつくなるぞ。さあ、すずしいうちにでかけよう。」と、山門のすぐ前の山陽道を西へむかって歩きだした。

徳山の町まではかなり遠く、二里(約8キロメートル)はある。とちゅう山を二つも三つもこえ、くねくねと曲がった山道を行かなくてはならない。近道はあるのだが、山の中ややぶ道なので、朝のうちはつゆで衣がぬれる。それで、遠まわりだが、広い道を行くことにした。やっと徳山についたころには、お日さまは高いところにあがっていた。

さて、法事を無事にすませると、帰りは午後のあつい日ざしをさけて、山林の近道を通ることにした。めったに人が通らないので、道には草木がおいしげっていた。草をかき分けながら大迫田(おおさこた)の白牟ヶ森(しろむがもり)の中ほどに来たとき、急にあたりが暗くなった。

と思うと、ゴーッと風がふいて、草や木がザワザワと音をたてた。「おかしなことじゃ。さっきまであんなに明るかったのに。」と、ひとりごとを言いながら、しばらくそこにたちすくんでいると、まもなく、もとの明るさにもどった。おかしなことがあればあるものだ、と気味悪く思いながら急いでその森をぬけ、やっとお寺に帰りついた。

お寺に帰ったおしょうさんが、「やれやれ、きょうはよう歩いた。お茶でものむとするか。」と言いながら、ふと手を見ると、手にかけていたはずのじゅずがない。あわててそでやふところに手をつっこんでみたがない。こまったことになった。

おしょうさんにとって、じゅずはさむらいの刀とおなじくらいたいせつなものだ。お茶をのむどころではなくなって、あちらこちらとさがしまわったが見あたらない。おしょうさんはがっかりしてすわりこんでしまった。

その夜は、とこについてもなかなかねつかれなかったが、昼のつかれで、いつのまにかうとうとしはじめた。すると、まくらもとで、「わたしたちは、大迫田の白牟ヶ森で死んでいる白ギツネの夫婦でございます。どうか、わたしたちのなきがら(死体)を、人間と同じようにこのお寺にほうむってください。

ねがいごとをかなえてくださったなら、このお寺や村の人々が火事やぬすみにあわないように守ってさしあげます。それに、おしょうさまが昼間になくされたじゅずも、ここにおとどけいたします。」という声がした。

目をさましてみると、おどろいたことに、なくしてこまっていたじゅずが、まくらもとにちゃんとおいてあった。次の日、おしょうさんは、さっそく寺男をつれて白牟ヶ森へ行ってみた。

昨夜の声のとおり、白ギツネ夫婦が死んでいたので、すぐに死体をお寺にはこんだ。そうして、人間と同じようにお経をとなえ、墓をつくって戒名(かいみょう:死んだ人につける名)までつけてやった。

その後、お寺や村の人々は、白ギツネに守られ、火事やぬすみにあうことがなくなった。村人たちはありがたく思って、白ギツネの墓におまいりする人がたえなかったという。

さて、それからおよそ百年たった文政(ぶんせい)十三年(1830)二月のことである。この地方の代官所(だいかんしょ)で、たいせつな書き物がなくなった。役人たちが困っていると、村人たちから白ギツネのことを教えられた。さっそく法静寺の白ギツネの墓にまいり、願(がん)をかけた。するとまもなく、その書き物が見つかった。

代官所では、お礼にお寺の境内に社(やしろ)をたてて、白ギツネをまつった。そうして官領長公文所(かんりょうちょうくもんじょ:文書をあつかう役所)に願い出て、この社に「出世福徳正一位稲荷大明神(しゅっせふくとくしょういちいいなりだいみょうじん)」というりっぱな名まえもさずけてもらった。

この後、このお社は「福徳稲荷」とよばれて、村内だけでなく、まわりの村や町まで広く知られるようになった。毎年、十一月三日には、豊作をねがって稲穂祭り(いなほまつり)が行われる。この日には、「キツネのよめ入り行列」がにぎやかに町をねり歩いて、見る人を楽しませている。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部


夫婦

むかしむかし、言い伝えによると人間は、夫婦が背中合わせにくっついて生まれてきたそうです。ある日の事、大勢の人間たちが集まって、神さまにお願いしました。

「神さま。わたしたち夫婦は、背中と背中とがくっついているので、夫婦でありながら女房や夫の顔を見る事が出来ません。どうか自分の女房や夫の顔が見られるように、背中を割っていただきたいのです」

すると神さまは、「なるほど、それは、もっともな事じゃ」と、夫婦のくっついた背中を割ってくれたのです。こうして夫婦の背中が一斉に割れたのですが、普段から顔を見ていない二人ですから、一度見失うと誰と誰が夫婦だったのか、分からなくなってしまいました。

そこで人間たちは困ってしまい、また神さまにお願いしました。「願い通り、背中を割ってもらいましたが、今度は誰が夫婦の片割れであったのか、見分けがつかなくなりました。何とかして下さい」

すると神さまは、「それでは、お前たちに愛という力を与えてやろう。外見や目先の利益にこだわらずに、その愛を信じて相手を探せば、必ずや、夫婦として生まれた片割れを見つける事が出来るであろう」と、人間に愛という力を授けてくれたのです。

人間は、時には外見、時にはお金や地位などの利益に目がくらんで、愛という神さまから頂いた力を使わずに夫婦となる人がいますが、それでは末永い幸せを手にする事は出来ません。

外見や利益に惑わされず、愛という力を信じて夫婦として生まれた片割れを見つければ、必ずその二人は、末永い幸せを手に入れることが出来るでしょう。

(山口県の民話 福娘童話集より)


かっぱとひょうたん

むかし、むかし、ある山里におじいさんと娘が住んでおりました。おじいさんの田んぼは、家からずっと離れたところにあり、毎日山道を通ってその田んぼで働いていました。

ところがある日のこと、不思議なことがおっこったのです。それは、田んぼに苗を植えてから数日後に、田んぼの水がすっかりなくなっていたのです。今までにこんなことは一度もなかったことです。

おじいさんは娘と二人で、山の田んぼへせっせと水を運びました。山の下の堤から田んぼまで水を運ぶのは大変な仕事でした。二人は毎日、毎日続けましたが、とうてい間にあいません。

疲れたおじいさんが、田んぼのあぜにしょんぼりと座っていると、一匹のかっぱがあらわれて、おじいさんに語りかけました。「おじいさんや、いったい何をそんなに沈んじょるんかいの」

おじいさんは答えました。「この田をみんさいや、はよう水を入れんけりゃ枯れてしまう。誰か水を引いてくれんじゃろか、お礼にゃなんでもやるんじゃが」これを聞いたかっぱは喜んで言いました。

「わしが引いちゃるで、お前さんの娘を嫁にくれるかの」おじいさんは、こんな小さなかっぱにできるはずもないと、つい約束をしてしまいました。あくる日、おじいさんは田んぼに行ってびっくりしました。田んぼいっぱいに水がはってあるではありませんか。

おじいさんは、水の引き主を神さまと思いこみ、かっぱの言ったことなどすっかり忘れて、娘と大喜びしました。そのとき、ぴょこんとかっぱがあらわれて言いました。「おじいさん、わしのいうたこと忘れてはいまいな。この水はわしが引いたんじゃぜ」

おじいさんは言いました。「お前の力でできるもんかいの。こりゃあ、神さまがお引きくださったんじゃ」かっぱは腹をたてて、田んぼの水を一滴もなくしてしまいました。

かわききった田んぼをみて驚いているおじいさんに、かっぱが言いました。「どうじゃ、これでもまだ、お前はこのわしを信ぜりゃせんかい」こうなっては、おじいさんの負けです。

「信じる。じゃから、もういっぺん水を入れてくれ」と、かっぱに頼みました。すると、かっぱは得意になり、「引いちゃるかわりに、約束を忘れんようにな」と言って、田んぼいっぱいに水を引きました。

おじいさんはとうとう娘をかっぱにやる約束をしてしまいました。これを聞いて、ようやく娘も決心をし、ひょうたんを三つ持って、お嫁に行くことにしました。

あくる日、かっぱは朝早くから待ちかねていました。かっぱが娘を水の中へ連れて行こうとすると、娘は言いました。「先にこのひょうたんをはこんでおくれ」と、かっぱの背中にひょうたんをくくりつけました。

さて、かっぱは水の中へ帰ろうとしてもぐりましたが、ひょうたんが軽くて浮きあがってしまうのです。とうてい水の底へたどり着くことができません。何度も何度もくりかえしましたが、どうしてもたどりつけず、とうとう力つきて、のびてしまいました。

そしてよわよわしく言いました。「お前さんの願いは何でも聞いちゃるから、はよう、このばけもんをのけちょくれ」そこで娘は、かっぱに水のもりを頼みました。

そして背中のひょうたんをとってやると、「はあ、そのばけもんはおそろしい。そないなもん持っちょるお前さんもごめんじゃ」と言って、かっぱは水の中へ帰って行きました。

それからというものは、田んぼにはいつも水がたまり、おじいさんと娘の苦労はなくなりました。そのかわりかっぱにはお礼にと、夏がくるといつも、かっぱの好きなきゅうりを淵に流してやることにしたそうです。

(都濃・佐波郡)

(山口銀行編纂 山口むかし話より転載)


カッパと寿円禅寺(じゅえんぜんじ)

むかしむかし、ひどい日照りが続いて、田んぼも畑も枯れ果ててしまいました。こまったのは、人間だけではありません。竜が淵(りゅうがふち)に住んでいたカッパも、日照りで魚が死にたえてしまったので食べる物がありません。

空腹にたえきれなくなったカッパは、悪いとは思いつつ、近くの自住禅寺(じしゅうせんじ)の放生池(ほうしょういけ)のコイを一匹、食べてしまいました。

この頃、近くの鐘乳洞(しょうにゅうどう)に自住禅寺の寿円禅師(じゅえんぜんじ)が入って、苦しむ百姓(ひゃくしょう)たちを救うために雨乞い(あまごい)のお祈りをはじめていました。

これを見たカッパは、「わしが池のコイを食べたので、のろい殺そうというのじゃな」と、勘違いして、あれこれとお祈りのじゃまを始めました。しかし禅師(ぜんじ)は気にもとめず、一心にお祈りを続けました。

「この坊さん、他人のためにここまでするとは」心をうたれたカッパはいつしか禅師の弟子となり、禅師のお手伝いをするようになりました。そしていよいよ満願(まんがん)の朝、禅師の祈りが天に通じたのか、どこからともなく黒雲が姿を現して、雷をともなう大雨となったのです。

「御仏(みほとけ)は、わたしの願いをお聞きくだされた!」禅師は、よろめく足で鍾乳洞から出て行きました。弟子となったカッパも、「これで、わしの罪(つみ)もゆるされよう」と、禅師に続いて出てみると、禅師が竜が淵の一枚岩(いちまいいわ)の上に立っていたのです。

実は雨乞いの願いがかなえられた禅師は、そのお礼に自分の命を天にささげようとしたのです。(あぶない!)カッパは駆け出しましたが、禅師はそのまま淵に身を投げてしまいました。

カッパは禅師をお助けしようと淵に飛び込みましたが、さすがのカッパも大雨の濁流(だくりゅう)ではうまく泳げません。カッパは濁流にのみこまれながらも、禅師を助けようとがんばりました。

岩肌に体をぶつけ、大切な頭の皿も割れてしまいましたが、カッパは最後の力をふりしぼって禅師の体を何とか川岸に引き上げました。「禅師さま! 禅師さま、ご無事ですか!」しかしすでに、禅師は息絶えていました。「そんな・・・」そしてカッパも力つきて、そのまま川下に流されてしまいました。

やがてこの事を知った村人たちは、禅師の遺体(いたい)を荼毘(たび)にふすと共に、このけなげなカッパを『禅師河童(ぜんじかっぱ)』とたたえて、手厚(てあつ)くとむらったそうです。

(山口県の民話 福娘童話集より)


カッパの贈り物

むかしむかし、一頭のウマが川辺で草を食べていると、川の中からカッパが現れました。カッパはウマのたずなを自分の体に結びつけると、ウマを川に引きずり込もうとしました。

「ヒヒーン!」びっくりしたウマは、近くのお百姓(ひゃくしょう)の家に飛び込みました。「なんだ! なんだ!」ウマが急に飛び込んで来たので、おどろいた家の人がウマを調べると、たずなの先に目を回したカッパがぶらさがっていました。

「はは~ん。カッパが、また悪さをしようとしたな。もう二度と悪さが出来んように、頭の皿を割ってやる!」お百姓がカッパの頭の皿をなぐりつけようとすると、目を覚ましたカッパが手を合わせて命ごいをしました。

「頭の皿を割られては、死んでしまいます。もう二度と悪さはいたしませんから、どうか助けてください」お百姓はカッパの頭の皿を割るのはやめましたが、こらしめるために縁側(えんがわ)の柱にしばりつけておきました。

その日のタ方、お百姓の娘がウマに水をやろうと、水を入れたおけを持ってやって来ました。そして足をつまずいて、おけの水をカッパの頭にかけてしまったのです。カッパにとって水は、元気のみなもとです。頭のお皿に水がたまったカッパは元気を取り戻すと、しばられていたつなを引きちぎって逃げてしまいました。

さて、それからしばらくして、お百姓の娘がお嫁に行く事が決まりました。家の人がふと見ると、縁側にお酒の入ったたるが置いてありました。「あら、祝いの酒だわ。誰からかしら?」次の朝は、大きくて立派なタイが三匹も置いてありました。「今度は、祝いのタイだわ。本当に、誰からかしら?」

 その晩、不思議に思った家の人が、物かげにかくれて縁側を見張りました。するとこの間のカッパが現れて、今度は水神さまのお札(ふだ)を置いていったのです。娘に助けられたと思ったカッパが、娘の嫁入りの祝いを持って来ていたのです。

それからもカッパは色々な祝いを持ってきましたが、うわさを聞いた大勢の村人がカッパを見に来るようになったので、それに気づいたカッパは二度と現れなくなったそうです。

(山口県の民話 福娘童話集より)


『往生の薬』― 山口県 ―

むかし、むかし、あるところに姑(しゅうとめ)と嫁(よめ)とが一緒に暮らしていたそうな。姑と嫁はたいそう仲が悪かったと。

姑は嫁のやることなすことすべて寸足らずに思えてならないし、嫁は嫁でこごと屋の姑とこの先ずうっとひとつ屋根の下に住んでおらにゃならんかと思うと、つらくてつらくて辛棒(しんぼう)出来んようになっていた。 

あんまり姑が嫁をいびるので、ある日、嫁はお寺の和尚さんのところへ行って、 「和尚さま、和尚さま、家の姑さんはひどうて、ひどうて、はあ、わたしゃぁ一緒におるのがつろうてなりません。出来るものなら和尚さま、姑さんを往生させて下さいませんか」というた。

和尚さん、「なんぼなんでも、まんだピンピンしとる者(もん)を往生さすっちゅうのはな。そら出来んでえ」というた。「そんなら和尚さま、誰れにも知れんように、薬を盛(も)って下さりませえ」 

「ほうか、そこまで思いつめたか。うーん。そいじゃぁ、絶対に人に言うんじゃないで。ええかや。そいからの、にわかに殺すと他人(ひと)が疑うけえ、ぼつぼつ弱ったあげくに、すうっと死ぬるような薬をあげよう。まあ七日(なぬか)もすりゃたいてい弱って、枯木(かれき)が倒れるように死ぬるじゃろう。そのかわり、七日の間、どんなにつらくとも、せつなくとも、この和尚のいうとおりにするかや」

「はい、七日じゃけえ、どんなことでも」「よしよし、そいじゃぁ、これから七日ほど、ご飯に薬をまぜて食べさすんじゃ。そいでな、その間は、姑がどんなことをいうても、はい、はいちゅうて、いう通りにするんじゃ。どんなに無理をいわれても、はいはい言うんじゃぞ」和尚さん、こう念(ねん)おししたと。

嫁は、お寺から帰ってきて、三度三度のご飯のなかに、薬を混ぜては姑に食べさせたと。姑から何をいわれても、はいはいで通したそうな。そうして、どうやら七日間が過ぎた。が姑はなかなか弱りそうにない。それどころか、姑がだんだん無理を言わなくなって、その分優しくなってきたそうな。

嫁は、“死ぬる前には仏のようになる”とはよく聞く話だ。姑が幾分優しくなってきたのは、死ぬる時期(じき)が近くなってきたからにちがいない、と思うた。また、お寺に行って、和尚さんにこのことを話した。そしたら和尚さん、「そうか、そうか」というて、にこにこして聞いている。

「薬を、もう少し下さいませ」「それじゃ、もう七日分あげようかの。そのかわり、また、姑が何をいうても、はいはいって叶えてやるんじゃぞ。こんだぁ、いよいよ薬が効いてきて、死ぬるじゃからの」「はい」嫁は、家に帰ってきて、また、和尚さんのいわれたとおりにしたと。

そしたら、何日か経ったころ、姑が町へ行って、いい着物を買(こ)うてきた。姑は嫁に、「これ、お前に買うてきた。このごろわしにようしてくれているので、わしゃ、嬉しくての」というた。
 
たまげた嫁は、なんもかんも放(ほ)っぽり出して、あわててお寺へ行き、「和尚さま、和尚さま、おおごとでございます。早(は)よう姑さんを助ける薬を作って下さいませ。姑さんを往生させたいなんて、とんでもない考えをしちょりました。早よう、何とかして下さりませ」というて、和尚さんの衣(ころも)をつかんで大騒ぎだと。

「よいよい、そんなにあわてなくともよいわ。姑は死にゃぁせん。なぁ嫁さんや、お前が姑のいうことを聞かんから、姑はぐちるのじゃ。お前がはいはいと返事すりゃぁ、姑もかわいがってくれる。なぁ、いいかや。人にしてもらうよりは、先に、人にしてあげなくてはならんのじゃ」

「和尚さま、このたびはそれがようわかりました。これからは姑さんと仲ようしますから、死なんですむ薬を早よう作って下さいませ。今まで、私は心に鬼を棲(す)まわしておりました。なんという恐ろしいことを考えていたもんだか。ああ、おそろしい」というて、嫁は泣いたと。

和尚さん、それを見て、にこにこして、「泣かんでもよい、泣かんでもよい。姑は死にゃぁせん。あの薬はのう、葛粉(くずこ)じゃった。滋養になりこそすれ、死にゃぁせん。これからは仲よう暮らしなさい」と、こういうたと。心がはれた嫁は、姑と仲よう暮らしたと。

これきりべったりひらの蓋

再話 六渡 邦昭
提供 フジパン株式会社


『おしずとたぬき』― 山口県 ―

戦国(せんごく)のころ、青海島(おうみしま)に漁師を父にもつ、おしずという八つになる気だてのやさしい娘がいた。

ある日のこと、この島にきた一人のかりうどが子だぬきを生けどった。これを見たおしずは、かわいそうに思って、お父にせがんで、これを買ってもらい、うら山に逃がしてやった。子だぬきは、何度も何度も頭をさげて山おくの方へ消えた。

それから十年、戦に破れて、傷をおった一人の若い落武者が、この島にのがれてきた。おしずは親身になってかんごをした。若者の傷はうす紙をはぐようになおっていった。

こうしたことから二人はめおとになった。それもつかのま、追手のきびしいせんさくは、この島まで追ってきた。お父はある夜、こっそり二人を舟で九州へ逃がしてやった。

ある寒い夜のこと、お父はいつものように浜からさびしく家にかえると、ふしぎにも家の中はあかあかとあかりがともり、ろばたの火ももえさかっていた。見ればそこには、十年前のあの子だぬきが、お父の好物のどぶろくをもってきてすわっていた。

それから毎日のように、たぬきはどぶろくを持ってやってきた。あるとき、おしず夫婦は、お父を迎えに、島にかえってきた。お父は、なが年すみなれた島を去ることになった。いよいよ、舟出の日がきた。

それはまん月の夜であった。たぬきは西円寺のうら山にかけのぼり、おや子三人をのせた舟の姿が、はるかかなたに消えるまで、涙をながしながらポンポコポン、力いっぱいに、自分の腹をたたきつづけた。

それからは満月のたびに、はらつづみがきこえるという。おしずたちの船出した浜を しずが浦といっている。

これきりべったり ひらのふた。

再話 六渡 邦昭
提供 フジパン株式会社


般若姫 ~柳井市~

熊毛郡平生町と柳井市にまたがる神峰山(しんぽうざん)のいあただきにのぼると、西におあだやかな周防灘、東に大畠の瀬戸を見下ろすことができる。この神峰山に、豊後の国(大分県)の満野の長者が建てた般若寺というお寺がある。石段の参道の近くには、二つのお墓がよりそうように立っている。それが、用命天皇と般若姫のお墓である。

今から千四百年もむかしのことである。奈良の都のある大臣(おとど:たいへん位の高い人)の子に、玉津姫(たまつひめ)というたいへん美しい姫がいた。ところがどうしたことか、十八のとき、姫の顔に、にわかにあざができ、みにくい顔にかわってしまった。そのため、およめに行くこともできず、悲しい毎日をおくっていた。

たまたま、大和の国(奈良県)磯城郡(しきぐん)三輪の里の三輪大明神(みわだいみょうじん)にお参りすればあざがとれ、およめに行くことができると聞いた姫は、さっそくお参りして、いっしょうけんめいいのりつづけた。

満願の夜のこと、姫のゆめの中に白はつの老人があらわれて、「おまえの夫となる者は、遠くはなれた豊後の国にいる、炭焼き小五郎いうおろかな男で、自分の名さえ知らぬ。その者とめおとになれば、あざもとれ、大金持ちになって家もさかえるであろう。」と、つげて消えた。

玉津姫は、これはきっと三輪大明神のおつげにちがいないと、両親のゆるしをえて、一人で豊後の国へ旅だった。豊後の国へたどりついた姫は、どこで炭焼きをしているかわからない小五郎をたずねあるいた。何日もたずねあるいて、やっと、とある山の中の炭焼き小屋の前で、小五郎らしい男にめぐりあった。

男は、着物だけでなく顔も手も足もまっ黒によごれていて、目だけぎょろぎょろさせていた。姫はおそるおそるたずねてみた。「小五郎どのではありませんか。」男は、姫をまぶしそうに見ながら言った。「そうじゃ。おれが小五郎じゃ。」「まあ、よかった。」姫はこれまでのわけを話し、小五郎の妻にしてくれるようたのんだ。

小五郎はびっくりして、「ごらんのとおり、まずしい男です。とてもあなたをしあわせにすることはできません。」とことわった。けれども、姫とおし問答をするうち、姫のひたむきな気持ちに負けて、とうとうめおとになることをしょうちしてしまった。

ところで、めおとになっても、小五郎は何も食べるものがない。そこで姫は、ふところからきらきら光る石をとり出して、「これを持っていって、町で米やなべを買ってきてください。」と、小五郎にわたした。

小五郎は、言われるとおり町へ出かけたが、しばらくすると、何も持たずに帰ってきた。ふしぎに思った姫がわけを聞くと、「町へ行くとちゅう、池に水鳥がいたのじゃ。とらえてごちそうにしようと思い、石を投げつけたのじゃが、水鳥はにげて石は池の中に落ちてしまったのじゃ。」という。

それを聞いた姫は、「あの石は黄金(こがね)といって、何でも買えるたからの石なんですよ。」と、残念がった。「なあんじゃ。あんな石なら、わしの炭焼きがまのあたりにごろごろしているわい。」小五郎はわらいながら言った。姫は、まさかと思いながら小五郎についていった。

小五郎の言葉はうそではなかった。炭焼きがまの下の谷間に、きらきら光る石があたり一面にころがっていたのだ。ふたりは黄金をひろいあつめて家に持ち帰った。

家に帰るとちゅうに、小五郎が黄金を投げ入れた池がある。その池のところまで来ると、姫は、池に入ってからだをあらった。小五郎も飛び込んであらった。すると、ふしぎにも、姫のあざはきれいに落ちて、もとの美しい顔になった。小五郎も、たくましく、りりしい若者になった。

何年かたち、小五郎は、この地方いちばんの長者になっていた。ある月夜のばんのことだ。その夜、小五郎の家では、リュウがすんでいるという池をつぶして、りっぱな田畑にしたおいわいの酒盛りをしていた。酒盛りがたけなわのころ、ひとすじの月の光が姫のむねにとびこんだ。

姫はきをうしなってたおれた。その夜、姫のゆめの中に、あの白はつの老人があらわれた。老人は、姫の中に月の精がやどったから、やがて子どもが生まれるであろうとつげた。それから何か月かたった。はたして、おつげのとおり玉のような女の子が生まれた。

小五郎夫婦はたいへんよろこんで、女の子に半如姫(はんにょひめ)という名前をつけた。その子の舌の先に、三日月のほくろがあったからだ。半如姫は大きくなるにつれて、この世の者とは思われないほど美しい娘にしだっていった。その美しさは、中国の絵師が、わざわざ美しい姫のすがたをえがきにやってきたほどだ。

「それにしても、半如姫という名はよくない。ほとけさまの生まれかわりのような美しい姫じゃから、般若姫(はんにゃひめ)と変えたほうがいい。」といわれ、小五郎夫婦は、姫の名を般若姫と変えた。

姫の美しさは、やがて遠い奈良の都までつたわった。天子の四番目の皇子、若宮橘豊日皇子(わかみやたちばなのとよひおうじ)は、ぜひ姫をきさきにしたいと思って、たびたび長者のもとに使者を出した。

しかし、小五郎は、「かわいいひとりむすめでございます。このことばかりはおゆるしください。そのかわりに、お望みのものはなんでもさしあげます。」と、姫をさし出すかわりに、黄金やたからものをおくりつづけた。

やがて、天子にも小五郎の気もちが通じて、「豊後三重の里(ぶんごみえのさと)、満野の長者(まののちょうじゃ)」と名のることをゆるした。いっぽう、若宮は、般若姫をきさきにむかえたい気もちが、日ごとにつのるばかりであった。

とうとう、若宮は、都をこっそりぬけ出して、姫のいる豊後の国へ入った。そして、みすぼらしい牛かいに身なりをかえ、名も山路(さんろ)とかえて、長者の家に住みこんだ。

ちょうどそのころ、姫はふしぎな病にかかった。小五郎は、あれやこれやと手をつくしたが、ちっともよくならない。そこで、夫婦して、日ごろ信じている三輪大名人へおいのりをした。ある日のこと、白はつの老人が妻の夢の中にあらわれてつげた。「笠掛けの的を矢でうちぬくことができれば、姫の病はなおるであろう。」
 
次の日、長者のふれをきいて、うでじまんの者たちが、長者の家におおぜい集まってきた。いよいよ的うちがはじまった。ひとり、ふたり、三人・・・・・・と、弓に満身の力をこめて矢を放っていたが、だれひとりとしてうちあてる者はいなかった。

「だれか、みごとに的をうちぬく者はいないか。ほうびはなんでもとらすぞ。だれかいないか。」小五郎は、いらだって、集まっている村人にさけんだ。そのとき、「わたしがやりましょう。みごとにうちぬいたら、姫をいただきますぞ。」と名のり出た者があった。牛かいの山路だった。

山路は広い庭のまん中に立つと、的をめがけてきりりと弓をひきしぼった。矢がつるをはなれた。一直線にとんで、矢はみごとに的をうちぬいた。どっと歓声があがった。このことがあってから、姫の病はみるみるうちによくなっていった。

ある日、長者は「ただの牛かいではござるまい。なにかわけがあるお方では。」と山路にたずねた。山路は身分をあかし、じぶんの気もちを長者に話した。長者は、若宮の思いつめた心におそれ入り、ふたりのために、りっぱな家まで建ててやった。

いっぽう、都では、若宮のすがたがみえなおので大さわぎをしていた。若宮をさがしもとめて、八方手がつくされた。しかし、なんの手がかりもなく二年の月日がたった。ある日、都に出入りする豊後の商人が、若宮らしい若者が満野の長者の家にいることを役人に知らせてきた。

天子は、さっそく豊後へ使者をおくった。若宮はまよった。ふたりの間には、もうすぐ子どもが生まれる。般若姫をのこして都へ帰るのもつらい。おなかの大きい般若姫を、きけんな船旅につれ出すことはできない。あれやこれやとなやんだすえ、若宮は決心した。つぎの日、若宮は、使者とともに船で豊後の国をあとにした。

般若姫と別れるとき、「生まれてくる子が男ならいっしょに都にのぼれ。子どもは皇子としてあとをつがせたい。女の子なら長者のあとをつがせ、姫だけ都へ上るように。そなたをきさきとしてむかえよう。」と、かたいやくそくをして都へ帰った。

やがて姫に女の子が生まれ、玉絵姫(たまえひめ)と名づけられた。般若姫は、若宮とのやくそくどおり玉絵姫を長者夫婦にあずけて、百二十せきのおともの船と都へ上った。般若姫一行は、おい風にのっておだやかな周防灘(すおうなだ)の旅をつづけていた。

大畠の瀬戸を通りぬけようとしたころ、風向きが急にかわった。強い風がふきはじめ、大しけになった。雨雲が空をおおい、いなずまが雨雲をひきさいて光った。船は木の葉のようにもまれた。般若姫は、ひっしにお経をとなえ、あらしがおさまるのをいのった。だが、あらしは強くなるばかりである。ともの船のほとんどは、みるみるうちに大波にのまれていった。

般若姫は、「これはきっと、竜神(りゅうじん)さまがおいかりになっているのにちがいない。わたしが海に身をなげて、竜神さまのおいかりをしずめよう。わたしのなきがらは、都の見える神峰山のいただきにほうむってください。」と、おとものものにたのんで、あれくるう海へ身をしずめた。

風はまもなくしずまり、うねりもやわらいだ。空もはれて、おだやかな瀬戸の海にもどった。それからしばらくたって、このことが、天子(用明天皇)に伝えられた。天子はひどく悲しんで、姫のなきがらをほうむったという神峰山(平生町・柳井市)のお寺を建てさせた。寺は、姫の名をとって神峰山般若寺と名づけたという。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部


酒垂山の紫雲(さかたりやまのしうん)~防府市~

今からおよそ千年ほどむかしのことだ。このあたりでは見かけない船が一そう、勝間の浦(かつまのうら:防府市)に流れ着いた。海辺の冷たい風が肌をさす、2月のある夕暮れのことであった。

「えらい大きな船じゃのう。どこから来たんじゃろう。」「漁をする船じゃないで。だれが乗っておいでたんかのう。」漁師たちが、がやがや言いながら浜辺に集まってきた。しばらくすると、船からりっぱな着物を着た人たちがおりてきた。

その中の供らしい男が、つかつかと漁師たちの方へ近づくと、「われわれは、菅原道真公(すがわらみちざねこう)の供をして大宰府(だざいふ:福岡県)にむかうところである。長い船旅で、道真公がたいへんお疲れになっているので、どこぞで休ませてもらえぬか。」と、言った。

漁師たちは、たいへん驚いた。道真公といえば、後に学問の神様といわれるほどの名高い人だ。それに右大臣という高い位の人だ。漁師たちは、しばらく話し合っていたが、やがてその中の一人が、「せまくてきたないところですが、どうぞおいでください。」おそるおそる、一軒の家に案内した。その家の中はうす暗く、魚をとる網やびくが、土間のかたすみにおいてある。

「さぞお疲れでございましょう。何もございませんが、これでもどうぞおめしあがりください。」と、お茶とありあわせの食べ物をさし出した。かべの落ちた、よごれたまずしい家、それに、そまつな食べ物であったが、里人のあたたかい気持ちが、道真には何よりもうれしかった。

次の日の朝、この地の国司(こくし:役人)の信貞(のぶさだ)は、道真を国府(役所)のやかたへ案内し、そして大切な客としてもてなした。道真は、その晩はひさしぶりにゆっくりと休むことができた。そして、それからしばらくの日を、そのやかたですごさせてもらうことにした。そのひまひまに、詩や歌を作ったり、本を読んだりしていた。

そんなある日、信貞は、「道真様、あまり学問ばかりなさっていると、おからだにさわります。すこしこのあたりをお歩きになって、ゆっくりとなさってはいかがでしょうか。」と言って、道真を酒垂山(さかたりやま:現天神山)へ案内した。

小高い酒垂山には、枝ぶりのよい松の林があり、その間からは、佐波の青い海が見えた。海に浮かぶ数々の島じま、塩を焼く煙が静かにたちのぼるようすは、まるで絵のようなながめであった。道真は、この美しい景色を、いつまでもあきることなくながめていた。

そして、信貞に、「ここは、まだ都と陸続きなのだろう。できることなら、ここでずっと暮らしたいものだ。」と言った。きっと、都に残してきた妻や子どもたちといっしょに、この美しい景色をながめて、ここでくらしたいと思われたのであろう。

道真は、都で活躍していたのだが、道真をねたむ人たちの悪だくみにあって、遠くはなれた九州の役人として、都を追われたのだった。とつぜんのことだったので、こうしてわずかの供をつれて、九州の大宰府へ下るとちゅうであった。

話を伝え聞いた里の人たちは、道真のことを気の毒に思い、深く悲しんだ。道真は、「そう悲しむことはない。わたしは悪くないのだから、いまに、きっとこの罪は晴れるだろう。」という意味の歌をよんで、里人をなぐさめたという。

こうして、国司や里人とともに暮らしているうちに、とうとう九州へいかなければならない日がやってきた。その日は、秋の風が気もちよくふき、波も静かないい日であった。

道真は、酒垂山を見上げて、「わたしが、もし、大宰府で死ぬようなことがあったなら、わたしの魂はかならず、この勝間の里に帰ってくるであろう。」と言って、勝間の浦から船に乗り、九州へむかった。

道真が大宰府に着いてみると、建物は古びて雨もりがするほどであった。しかし、道真は都へ帰れる日を待ちながら、詩を作ったり、本を読んだりして、毎日を過ごしていた。

ところが、もともとじょうぶでなかった道真は、すっかり身体をこわしてしまい、それがもとで、大宰府に来てから三年たった二月二十五日、とうとうなくなってしまった。五十九歳であった。

ちょうどその頃、酒垂山にふしぎなことがおこった。いままで澄み切っていた酒垂山の空に、紫色の雲がわき出しかと思うと、みるみるうちに空いっぱいに広がっていった。そして、勝間の浦には、はるか西の空から五色の光がかがやいた。

「これはどうしたことだ。」「きっと、何かたいへんなことが起こる前ぶれにちがいない。」「それにしても、ふしぎなことじゃ。いったいどうしたというのだろう。」紫に染まった空、五色にかがやく佐波の海。余りの美しさに、国司信貞も里人たちも、みんな浜辺に出て、このふしぎなようすをながめていた。

このふしぎなできごとから何日かたってから、道真がなくなったというしらせがとどいた。「では、あのふしぎなできごとは、道真公の魂がここへお帰りになったしるしだったのか。」信貞は、勝間の浦をたつときに残した言葉を思い出した。そして、道真が愛していた酒垂山のふもとに小さな社(やしろ)をたて、道真をまつった。

これが防府天満宮(ほうふてんまんぐう)の起こりである。いまも、毎年、秋になると、おおぜいの裸の男たちにより、神幸祭(じんこうさい)と呼ばれる祭りが行われている。これは、里人たちが、道真を勝間の浦まで送ったようすをしのんで、網代車(あじろぐるま)にご神体を乗せ、勝間の浦まで運ぶ行事である。

また、紫色にかがやく雲がわき起こったことを長く伝えるために、天満宮の境内には、紫雲石(しうんせき)がまつってある。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部


みょうがの宿

むかし、むかし、吉敷(よしき)郡の嘉川(かがわ)という宿場に、欲の深い夫婦が宿屋を営んでおりました。しかしそのわりにはもうからず、夫婦は番頭や女中たちに小言ばかりいっていました。

そうしたある夏の日の夕方のことです。客引きに出ていた番頭があわてて帰って来て「今、えろう景気のいい客人を七人もおつれしました」と、にこにこ得意顔で申すのでした。表を見ると、身なりのよい客人たちが着いたばかりのところです。

「何でも宮島様へのお礼詣り(おれいまいり)じゃそうで、たんまり銭子(ぜにこ)はあるから、ええ部屋に通してくれとおっしゃるのです」聞いて、宿の主人はとたんにほくほく顔。番頭に座敷へ案内させると、女房を呼んで相談しました。

「今夜の客は、えろう持っとるそうじゃで、何かごっそりとつかわせる手はないもんかいの」というと、女房は「そうそう、みょうがをたくさん食べると、もの忘れをするということじゃ。みょうがのごちそう責めで、客人のさいふを忘れさせることにすりゃええじゃないかいの」といいました。

すると主人は、奥の座敷へ飛んで行き「手前ども自慢の暑気払い(しょきばらい)の料理“みょうがの重喰い(かさねぐい)”というものを差し上げることにいたしとうござります」と、うまいこと挨拶しました。客人たちは「空腹じゃで、一刻も早う、それで頼みますじゃ」と、機嫌のよい返事をしてくれました。

主人はほっと安心し、すぐさま帳場にいってみょうが料理の指図をしました。「うまい具合にいったわい」と、欲の深い夫婦はわくわくしながら互いに顔を見合わせて、うなずき合いました。その翌朝、客人たちはまだうっすらと暗いうちに、支度もそこそこに、たって行きました。

客人を送り出して、みんながほっとしていたころ「忠助や、忠助や」呼ばれて番頭の忠助が主人の前にかしこまると「あれだけみょうがを食べりゃ、さいふの四つや五つぐらいは忘れていったに違いない。早う座敷を見てくるんじゃ」主人にいわれて番頭は、奥の座敷へ飛んで行きました。

しばらくして帳場に戻ってきた番頭に主人がたずねますと「座布団や布団の下、押し入れまでみましたが客人たちの忘れもんは、何一つござりません」と、両手を鼻の先で振るばかりでした。「そんなことあるもんかい」

主人が女房と奥の座敷に行こうとすると「旦那さま、それはそうと客人たちからゆうべの泊まり賃もらいうけましたかい」番頭がたずねましたが「いや、わしは知らんが、お前もらってくれたかい」女房にたずねますと、

女房は女房で「いやぁ、わたしゃお前さんがもろうたもんと思っちょりました」といったので「しもうた。あんまりみょうがを食べさせたんでかえって宿賃はらうのを忘れて行ってしもうたわい」宿屋のみんなは大騒ぎし、あわてだしたということです。

(吉敷郡)


長祖生きつね

むかし、むかし、長祖生(ながそう)というところに、いたずらもののきつねが住んでいました。そのきつねは、夜になると、道をとおる人をだましては、もち物をとりあげたり、わざと道をまちがえさせたりするので、人びとからは「長祖生きつね」といわれて、ひょうばんになっていました。

ある晩、たくましい若者四、五人が町から帰るとちゅう「今夜あたりきつねが出んもんかのう」「わしらがこらしめてやるのにのう」などといいながら、長祖生(ながそう)までやってきました。

すると、そのとき、船が岩に乗りあげたらしく、浜のほうから、船頭(せんどう)がしきりに助けをもとめていました。若者たちは、海にはいり、岩から船をおろそうと、力をあわせて船をおしました。しかし、船はなかなかうごきません。

そのうち、夜が明けてみると、なんと今までいっしょうけんめいおしていたのは、船ではなく浜の大岩でした。「わしらも、きつねにいっぱいくわされたわい」と、若者たちは、たいそうくやしがりました。

また、ある晩のこと、おしょうさんが長祖生(ながそう)を通りかかると、女の子がひとりで、しくしく泣いていました。おしょうさんは「長祖生きつねにちがいない」と見やぶり、こらしめてやろうと声をかけ、背なかに背おいました。

しかし、おしょうさんが寺に帰りつくと、きつねは背なかからすりぬけてしまいました。部屋を見まわすと、床の間のほていさんが二つになっています。そこで、ほていさんを線香でいぶすと、一つがとびだしました。

すると、こんどは茶がまが二つになっています。しかし、一つはかたちが長いので、それを火にかけました。さすがのきつねもたまらず、とうとうすがたをあらわし、おしょうさんに手をついてあやまりました。

そこで、おしょうさんは、念のために、きつねから「わび証文(しょうもん)」をとって、ゆるしてやりました。

(注)ほていさん…七福神(しちふくじん)の一人で弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身(けしん)。ここでは置物のこと。

その、よく晩のことでした。おしょうさんのへやのしょうじをたたくものがいるので、あけてみると、きつねがおりました。そして、ゆるしてもらったお礼にと、みごとな鯛を二尾おいて帰っていきました。「なるほど、きつねも本心に返ったようじゃな。もう、これからは、いたずらもしまい」

そして、そのあくる朝のことです。きつねがわざわざもってきてくれた鯛をと、しまっておいた戸だなの中をのぞいてみると、そこに鯛のすがたはなく、大きな葉っぱが二枚かさなっていた、ということです。

(玖珂郡)


白蛇伝

むかし、むかし、岩国の今津というところに、平太という漁師が母親と暮らしていました。あるどんよりとした空模様の日のこと、平太は漁に出るのをためらっていましたが「今日一日ぐらい大丈夫じゃろう」と、誘いにきた仲間といっしょに船を出しました。漁を始めると、面白いように魚がとれます。平太たちは、ぐんぐん沖へ向かってしまいました。

やがて、近くの島で昼飯をすますと、仲間の一人が白蛇をみつけました。今までにみたこともない蛇なので、めずらしいやら、気味が悪いやら、仲間は手に木切れをもって、いたずらをはじめました。右に行けば左へ、左にいけば右へはねつけられ、白蛇はとうとう傷ついたからだをまるめて、じっと動かなくなりました。

その様子をみた平太はかわいそうになって「おい、みんな、もうよさんかい。この白蛇は、この島の主かも知れんぞな」そういって、平太はおそれもなく白蛇をつかむと、草のしげみの中に逃がしてやりました。それからまた、平太たちは漁を始めることになりました。

ところが、そのころになると、空はすっかり雨雲に覆われ、風も強くなって、たいへんなしけ模様となりました。「あぶないぞっ」と、誰かが叫んだときには、もう皆は海に放り出され、波にのまれてしまいました。それから、しばらくたって、平太がふっと気が付くと、さっき昼飯を食べた島の浜辺に打ち上げられていました。

あたりをみまわすと、あらしは止んでいて、空はからりと晴れわたっています。「わしは助かったのじゃ」と、平太は喜びました。しかし、よくよく考えてみると、この島には誰も住んでおらず、帰る船も助けを呼ぶこともできません。

思案にくれ、じっと岩に腰をおろしていると「平太さん、平太さん…」と呼ぶ声が聞こえます。「あ、さっきの白蛇じゃ」平太が振りかえってみると、白蛇は平太の前を通りすぎて、海の中へはいっていきました。

すると、白蛇が通ったあとには、ざわざわと波がわかれて小道ができ、それはずーっと今津の浜まで向かっているのです。「これで今津に帰れるかもしれん」平太は、白蛇の後について、ずんずん歩き、とうとう今津まで帰り着くことができました。

「ほんとうにわしは助かったぞ」ありがたいと思って、後ろを振りかえってみますと、通ってきた道は跡形もなく消えていました。平太は、白蛇をそっとふところに入れて家に帰り、大切に飼うことにしました。こうして、白蛇は今津に住みつき、平太は末長く幸せに暮らしたということです。

(玖珂郡)

(山口銀行編纂 山口むかし話より転載)


沖田のツル ー宇部ー

今からおよそ百三十年前、宇部村(宇部市)に岡又十郎という若さむらいがいた。又十郎は毛利藩福原元僴(ふくはらもとたけ)の家来で、大鳥方(おおとりかた)という役目であった。大鳥方というのは、毎日、野山をかけめぐって、鳥やけものをとらえる役目だ。

ある年の秋のくれのことだ。きょうはどうしたというのだ。鳥の一羽、けもの一匹とれない。又十郎は少し気をおとして、家路についた。秋は日暮れがはやい。沖田まで来ると、夕もやのかかった田の中に白いものが動いている。目をすかしてみると、それは二羽のツルだった。一羽は、もう一羽よりずっとからだが大きい。

しめしめ。これでやっときょうの仕事ができた。又十郎は鉄砲をかまえて、ズドンと一発うった。ぱたっと一羽のツルがたおれた。小さいツルは、おどろいて空に飛び上がった。ようし、殿もきっとお喜びになるぞ。かけていってツルをひらいあげると、どうしたことか首がない。

これはこまった。首なしの鳥はえんぎがわるい。これでは殿にさしあげることもでいない。又十郎はそこらあたりを、てさぐりでさがした。けれども、首はとうとうさがしだすことはできなかった。又十郎はがっかりして、首のないツルをぶらさげてわが家に帰った。

それから一年たった。又十郎はいつものようにえものをもとめて野山をかけまわったあと、沖田までやってきた。時こくもちょうど去年と同じころだった。乳色のゆうもやが野や田畑の上にかかっている。去年も同じだったな。ふとそう思って、なにげなく田のほうを見ると、あのときと同じところに、ツルがいるではないか。こんどは一羽だ。

又十郎は自分の目をうたがった。目をこすって、もう一度見た。まちがいない。ツルだ。ようし、こんどは足をねらってやろう。また十郎はねらいをさだめてひきがねをひいた。ねらいたがわず、ツルはぱたりとその場にたおれた。又十郎はゆっくりと近づいていって、ツルを拾い上げた。

ぽろりと落ちるものがあった。見ると、一本のくだのようだ。手にとって、又十郎は、「あっ。」とさけんだ。それはツルの首であった。背筋を冷たいものがすべり落ちた。さては、二羽のツルはめおとであったか。かわいそうなことをしてしまった。又十郎は、いまうたれたツルが、夫の首をつばさにだいてずっとくらしてきたことに気づいた。

そのあくる日、又十郎は殿さまのお役ご免を申し出た。その後まもなく、山深い万倉の里(まぐらのさと:山陽小野田市万倉)で百姓をしている又十郎のすがたが見られたという。

題名:山口の伝説
出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部


鶴柿 鶴の恩返し

むかし、むかし、ある日のこと、鶴の親子が八代(やしろ)の里を空高く飛んでおりました。八代の里は柿の木がおおいところ。たわわに実ったおいしそうな柿の実をみて、子鶴は、たべたいとほしがりました。

けれども鶴は木の枝にとまることができません。どうやって、もいだらいいだろうと、親鶴は柿の木をぐるりぐるりと飛んでおりました。そこへ一羽のからすが飛んできて、うれた柿をおいしそうにたべはじめました。

これをみて親鶴は柿の木の下へ降りて行き「からすさん、わたしたちにも一つうれた柿をもいでおくれでないかね」と、たのみました。からすは「もいでやってもええがの、お前さんはきりょうよしじゃ、よううれた柿じゃ着物がよごれるじゃろうから、まぁこれがよかろうて」といって、まだかたい柿の実を鶴になげました。

「からすさん、子供がほしがりますので、もっとよくうれたのをおねがいします」とまた、ていねいにたのみました。「それなりゃ、ちょっとまっちょけいや」といったきり、からすは鶴にとってやろうともせず、自分だけよくうれた柿をたべ、種やへたを下へバラバラなげすてました。

いつまでたってもとってくれそうにありませんので、鶴はまたたのみました。すると、からすは腹をたてて「そんなら、お前さんがのぼってすきなものをもぎんされ」といったかと思うと、かたい柿の実を鶴にむかって投げつけました。

これを、じっとみていたお百姓さんは、ぬけぬけと柿をたべているからすを追いはらい、よくうれた柿を鶴にとってやりました。鶴の親子はよろこんですっかりたべると、グルーガルー、グルーガルーとお礼をいいながら飛んでゆきました。

それからしばらくたった、ある寒い日のこと、このお百姓さんの家に大そうどうがおこりました。お百姓さんの子供が干柿をたべていて、柿の種をのどにつめてしまったのです。すると、いつぞやの鶴が、お百姓さんのあわてたすがたをみて、わけをきくなり「わたしがおたすけしましょう」と お百姓さんの家へ飛んで行きました。

そして鶴は、苦しんでいる子どもの口を開けさせると、その長いくちばしでなんなく柿の種をついばみ出してしまいました。お百姓さん夫婦は大喜びで鶴にお礼をいい「八代の柿ぁ うまいんじゃが、種が多くてしょうがない。種さえなけりゃ、八代の柿は周防一じゃが」といいました。

これからです。八代の柿は干柿にすると、どうしたわけか種がすっかりなくなってしまい、子どもが種をのどにつめる心配がなくなった、ということです。こうして八代では、干した柿を干柿ともつるし柿ともいわず、鶴の恩返しと考えて、鶴柿(つるがき)というようになったそうです。

(熊毛郡)

(山口銀行編纂 山口むかし話より転載)

(彦島のけしきより)


参考