般若姫伝説、柳井市の般若寺に伝わるお話 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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大分県の臼杵の石仏などの作成時期、作成者などが推測できる史実に近い伝説があったので紹介と分析をする。これは山口県柳井市の般若寺の般若姫伝説であるが、ストーリーが生々しいので、以下に丸々コピーしているので、先ずはお読みください。以下、分析結果のみを述べる。

この物語の登場人物は用明天皇の妻の般若姫、両親の玉津姫と炭焼き小五郎、そして娘の玉絵姫からなっている。

玉津姫の父親は、どうも継体天皇当時の大臣、蘇我稲目である。彼の孫娘が般若姫であり、用明天皇の妻になったと直ぐわかる。玉津姫の名前が海人族安曇氏(蘇我氏の祖先)の女神の名前、玉依姫を思い起こされる。玉津姫が押しかけ女房になった相手の炭焼き小五郎は豊後国の住人であったが、安心院もそうだが現在の大分県あたりは海人族安曇氏の国(参考)、すなわち蘇我王国であった(参考)。すなわち、蘇我氏の娘と天皇家の婚姻関係を象徴する伝説であった

海人族安曇氏と末裔の蘇我氏は母系家族制にあり、天皇家は男系男子の家族制度をとっており、生まれた子供が男子なら天皇が引き取ることになっていたが、生まれた子供が娘の玉絵姫であったため、豊後国の母親、般若姫の実家が引き取り、般若姫だけが用明天皇に嫁ぐことになった(参考)

不幸なことに、上京の途中、現在の山口県柳井市あたりで亡くなられたが、悲しんだ用明天皇と蘇我氏一族は般若寺を建立したり、臼杵あたりに石仏を作り、国宝の臼杵磨崖仏となったとの事である。まさに蘇我馬子と聖徳太子が仏教を受け入れる時期に一致している。

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般若姫が亡くなられた大畠瀬戸


参考

❶ 般若姫伝説、柳井市の般若寺に伝わるお話(参考)

①玉津姫 豊後へ下る

昔むかし、継体天皇のころのこと。奈良の都のある大臣の娘で、玉津姫という世にもまれな美女がいました。ところが、成長するにつれ顔にアザができ、お嫁にも行けず悲嘆に暮れておりました。そこで、縁結びの神様として有名な大和国三輪大明神(やまとのくにみわだいみょうじん)に願を掛けたのです。すると満願(願掛けの満ちる日)の九月末、夢の中に錦の着物を身にまとい、七宝の冠をいただいた明神が現れて、 「汝の夫となる男は、豊後の国(今の大分県)三江の山里に住んでいる小五郎という青年である。」とのお告げがありました。玉津姫は、奈良を出て豊後の国へ下り、小五郎という青年を探す旅へ出ました。

②玉津姫と炭焼き小五郎

そしてようやく探しあてると、手足は真っ黒、髪はボサボサの炭焼きをしている男でした。それでも姫は「あなたが小五郎さんですね。私は大和国三輪大明神のお告げを受けて、あなたのお嫁さんになるために、はるばる都から訪ねて参りました。」 と話しました。しかし小五郎は、「おれは、こんなあばらやに住んでいる貧乏な炭焼きだ。結婚なんてできるわけがない。」と言います。姫は、「たとえ貧乏でもかまいません。私はいくらか貯えがありますから、これで何なりと買ってきてください。」と、懐から黄金を取り出し渡しました。小五郎はその黄金を持って出かけていきました。しばらくして戻りましたが、手には何も持っていません。不思議に思い姫が訊ねると、なんと淵にいるおしどりを捕まえようと姫から受け取った石を全部投げたが、一羽もとれなかったというのです。姫は驚いて、「それは石ではなく、黄金と珍しい宝でしたのに・・・。」と言いました。すると小五郎は「あの光る石なら淵のまわりにごろごろころがってるさ。」と笑いました。早速淵に出かけてみると、小五郎の言ったとおり黄金の石がたくさんころがっているではありませんか!そして二人が淵に入り身を清めると、不思議なことに姫のアザは消え、小五郎もたちまち美男子に変身したのです。二人は夫婦になり、やがて長者といわれるほどのお金持ちになりました。家来も数千人となり 、立派な屋敷を建てたということです。

③般若姫生まれる

夫婦はたくさんの人を集めて、三年がかりで完成した屋敷の落成祝いの宴を開きました。宴が終わる頃、突然天地が揺れ動き、空にあった満月が池に落ちてきました。そして、満月は池の中をかけまわった後、座敷を飛び回り、玉津姫の胸元めがけて飛び込んできたのです。姫は気絶して倒れてしまいました。小五郎は心配し、病気治癒の祈願の為、家来を山王神へお参りさせました。その家来の夢枕に白髪の老人が現れ、「これは、病気ではなく吉兆(めでたいしるし)である。姫は懐妊した。生まれる子は美しい女の子である。」と言って消えたのです。月日はたち、玉津姫はお告げ通り女の子を産みました。舌に三日月のアザがあったので、半如姫と名付けました。姫は日に日に美しく成長し、後に観音様のお告げにより般若姫と改めました。

④般若姫と橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと、後の用明天皇)との出会い

般若姫の噂は遠く欽明天皇の第四皇子橘の豊日の皇子(後の用明天皇)の耳にも届きました。皇子は、般若姫に一目逢いたいと朝廷を抜け出し、修行者に身をやつして豊後に下りました。皇子は笛が大変上手で、長者の牛飼い達に気に入られ、山路と名をかえて長者の家に住み込むことになりました。 あるとき、般若姫が重い病気にかかり、「姫の病は諸神のたたり。治すためには、三江の松原に仮の神社を建て、笠懸の的を射よ。」というお告げを受けました。長者が「笠懸とは何か?」と山路に尋ねると、「笠懸とは、笠を的にし、走る馬の上から矢で的を射ることです。ぜひ私にやらせてください。もし、的を射ることができ、姫の病気が治ったあかつきには、姫をお嫁にください。」と山路は言いました。長者は三間四方の社を建て、山路が見事笠懸の的を射抜きますと、姫の病気はすっかりよくなりました。そして盛大な結婚式を挙げ、山路は自分が欽明天皇の第四皇子、橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)であることを明かしたのです。長者をはじめ、家人たちは大変驚き、今までの無礼を詫びました。


⑤ 皇子、都へ帰る

そのころ奈良の朝廷では、後継ぎの問題で全国に使者を出して皇子のことを捜していました。皇子は天皇の命令で都に呼び戻されることになりました。ところが、すでに姫のおなかには皇子のこどもが宿り、身重のため一緒に上洛することはできません。皇子は「もし、男子が生まれたら一緒に都に上りなさい。女子であったなら、ここに残して長者の世継ぎにしなさい。」と言い残し、別れを惜しみながらも都へ帰っていきました。皇子19歳、姫17歳のことでした。

⑥ 不運の海難 

やがて 姫は美しい女子を安産し、玉絵姫と名付けました。その後、 般若姫は玉絵姫を長者に託し、約束通り恋しい皇子の元へと旅立ちます。長者は姫に多くの家来と大船小船120隻を用意して、一行は臼杵(うすき)の浦を出発しました。はじめは穏やかだった海も、
平群島(周防の国)近くにさしかかると突然嵐になり、船は熊毛の浦(豊後の国)に吹き流されてしまいました。おおしけのため一行が途中島で休んだことから、この島を豊後の姫島と言い伝えています。天候が回復したので船を出すと、再び大畠鳴門の瀬戸に差し掛かかったところで、また暴風が起こりました。この嵐で120隻はちりぢりとなり、多くの船が沈んでしまいました。それは、以前長者に池を潰された金龍神の怒りの嵐でした。そのとき、供の者たちが裸で泳ぎ着いた島が、柳井港の沖、裸島だといわれています。一行は阿月の浦で船泊まりし、柳井津に渡り、姫の身体を休めることにしました。姫は喉の渇きを訴え、里人にこんこんと湧き出る清水を案内してもらいました。このとき、姫が記念に柳の楊枝を井戸の側にさしたところ、一夜にして芽吹き、やがて立派な柳の木となりました。この柳の下の井戸が、「柳井」の地名の由来だということです。また、近くに流れる姫田川も般若姫にちなんだものだといわれています。

⑦般若姫の死

般若姫の一行は、しばらくこの浦に船をとどめ、行方不明になった供の者たちを捜し、多くの遺体が見つかりました。姫は、大変嘆き悲しみ、「私は、こんなにたくさんの者たちの命を犠牲にしてまで、皇后になりたいとは思いません。」と、まだ見つからないお供を捜して欲しいと言いました。そして、「かりの世に何歎くらんうき船のいずくを宿と定めおかねば」と繰り返し詠じました。その後、渦巻く大畠の瀬戸に身を投げたのです。侍女達も後を追うように飛び込みました。驚いた船人たちが慌てて救い上げたのですが、姫は衰弱する一方でした。「二度とこの場所で、このようなむごい事故が起こらないよう、瀬戸の守り神となります。私の亡骸は向こうに見えるあの山に葬ってください。」との言葉を残し、息をひきとりました。 
家来たちは大変悲しみ、姫の遺言とおりに向こうに見える山(今の山口県平生町神峰山)の頂上に埋葬しました。欽明天皇28年、般若姫19歳の春のことです。

⑧神峰山般若寺

知らせを聞いた皇子と長者の悲しみは大変なものでした。姫の遺言通りに神峰山にお墓を建て、姫の念持仏「金の観音像」を納め、般若寺というお寺を建立しました。また、長者は臼杵(大分県)に姫の供養のために、たくさんの石仏を作っていきました。これが国宝の「臼杵磨崖仏」だと云われています。この出来事の後、毎年陰暦12月大晦日の夜、大畠の瀬戸から火の玉が三つ舞い上がり、一つは神峰山の山頂の「龍灯の松」にとまった後、般若寺の観音堂の三光之窓に入っていくということです。また一つは対岸の大畠の瀬戸の明神さまへ、もう一つは大島三蒲の松尾寺(しょうぶじ)に向かって、飛ぶようになったと云われています。そして、その火の玉を見た人は、大漁・豊作・福徳に恵まれるということです。

般若姫関連のリンク

平生町神峰山般若寺のページ
 般若姫の故郷 豊後大野市三重町(
参考1参考2)のページ、


❷ 継体天皇以降の系図

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