馬関覚え帳 朝日新聞下関支局編、その5 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

奥小路町

この町は町の続きで昔は北浦方面から市中に入ろ東方に於ける最初の町であった。

近在の人が物売りに来たりして、うどんやや肴売店などで昼飯の弁当をたべ、又一杯やったり或は序に日用品を買ったりするので町の商家は主として田舎向きのものを売っていた。

その頃「奥小路の馬糞」といっていたが元より戯れの悪口ではあろうが、田舎の人が此処でゆっくりしている間、店先に繋がれた馬が遠慮なく町を汚した事はいうまでもない。

町名は市内から奥まった小町という意味からであろう。

この町では後の貴族院議員林平四郎氏、市会議長村岡清吉君を出している。明治初年頃両氏の発起で町の若いものを集めて夜々市政の研究を指導したということは流石だとうなづける。

林氏は政界に進出すると共に家業の方にも成功して今日の大、大津屋を築き上げたのだが、村岡君は至つて磊落な男で家業の酒屋を飲みつぶし、家財をせり売りする時上下を着て足つぎに腰かけ「由良助城明け渡しや」と笑って居たとのこと。

この町にまだ記さればならぬ人がいる。それは故実家(こんな名称があるかどうか分らいが)福井長吉君である。正満、杵園と号した。

その蔵するところの書籍、古文書、書幅など土蔵に充満して短冊の琉集したもの一万枚に達していた。常に中央の名ある同好者と交渉を持ち古文書などの鑑定考証を好んでやっていた。

その著書は「長門本平家物語に関する研究」「梅月楼遺芳」「広江藤家をめぐりて」「昔の跡」その他「招魂帖」「開港繁栄録」の識刻などがあるが、凡て自費出版である。 

筆者は終始君とは熱意の間柄で甚だよく知っている。君は下関商業講習所を優秀の成績で卒業した当時、どこの有力会社にでも就職は容易であったにも係らず、更に顧ることもなく家業の小米屋をついでその日より紺木綿の筒袖に同じ前垂をしめて南部町などに米の買出しに行き、時には米袋を肩にして得意先に配達した。

夜は一室に在りて読書に更し或いは和歌を学びまた謡曲を稽古しで之を楽みとした。一時謡曲の批評を流流閑人の名で新聞に書いていたが世間の注目を引いた、君は何に感じたものか一生妻帯せず酒名のまず煙草名用いず実に操志堅固であった。気に入らねば権門富者も唾棄して相手にせず気が会う人には誠に丁寧親切であった。

ただ君の死後戦災のために、住家土蔵も全部焼失してあの沢山の蔵本など全部なくなったことは惜みてる余りあるのである。然し君の後嗣は自分の家に長く勤めていた三郎、タマ子の二氏を妻わせて病中式を挙げ間もなく死んだ(昭和十二年享年六十四歳)。流石に君の眼識は誤らず爾来若夫婦は頗る人情に厚く極めて堅実に家産を守ってなんらの不安のないことは君もまた冥すべきであろう。

この町には当時下関二千年史の著者重山積介君もいた。まだ二十五六歳であったと思うが独力でよくこの大著を作ったことは誠に驚嘆すべきものがある。下関二千年間の太古より維新当時まで政治経済文学風俗あらゆる面に渡って、博引傍証頗る要をえている。郷土史研究家は一日も座右を離しえざるものである。

君は早稲田大学史学科に入りたるも病のために帰郷、爾来家業小米屋を手伝ひ不恰好ななりに米袋を肩にして米の配達に行くのを見かけたのであるが、その間営々として筆を執り、終に本書を完成したのである。

しかし本は出来たが発行するに資金がなく困っていたが、幸に瞬報社の義によって何百部かの立派な本は出来たがまたこれが中々売れない、或いは各地の図書館学校などに送りつけたが案外返本が多い、君の苦心察するものがあった。後始末がどうなったかは知らぬ。兎も角なんとか瞬報社との間は話も円満に形付いたものと思う。

その後君は阿部女学校(今の早鞆)の教師となって聊か生活の安定はえられたろうが終に妻帯する余裕もなく亡くなった。考えてみると君はあれだだけの甚大な労力を尽して稀れなる有益の仕事を成し遂げたのに生前なんら酬いられなかった。而もその頃別にこれに対して褒辞を与えた人も余りなかった。賞辞といへばその序文位のものであろうことは、なんとも気の毒に堪えない次第である。

ただ前記福井君も重山君も同じ町内で共に米袋を肩にしたということはどうした因縁であろうか、ほほえましくもある。

最後にもう一つ書いて置きたいことは、この町に吉見屋という太物店があった。そこのおじいさんその頃六十歳位ともみえた、そのおじいさんを頭に、うどん屋、味噌屋のおじいさん遂を中間にした二輪加の一組があったことである。

赤い切れをつけた女の大きなチョンまげのぼてかずらをかぶって、ずばぬけたやうな、せりふや落しに皆を笑はせた。しかも一同大真面目だからなば可笑しい。五穀祭などには町のそこここでやって中々好評であった。

また外には阿彌陀寺町の赤間宮の下に有光という提灯店があって、そこのおじいさんが頭で床屋、魚屋が中間で一組あった。有光のおじいさんの死んだ時は、連中が皆な女や男のぽてかずらをかぶって葬式の手伝をやったという、こんな話も今は昔の思い出である。(鈴木 伸堂)

(馬関覚え帳 朝日新聞下関支局編)


稲荷町

この町は赤間町の終点から北の方へ一丁くらい入ったはなはだ小さい町であった。しかし町は小さいが「いなり町 」 の名は広く日本国中に知られていた。

古くから文筆のある旅行者の日記などにみなここで遊んだ模様が詳細に記されている。ただし稲荷町といってるこの町の西裏側に裏町というのがあって花街の一部をなするのである。筆者はこれを含めて書いているのである。

この花街の起源はいうまでもないことながら、寿永年代に平家が壇ノ浦で美しく哀れ戦没したとき残された官女たちが生活に困って花を売り、後には大事なものまで売るようになって、その世話をする親方共がこの町に家を並べるようになったと伝えられる。

彼の先帝祭の女郎参拝はこの官女達が昔を偲んで先帝(安徳天皇)の命日に御陵所阿彌陀寺に焼香に行くことがその始りといわれる。この由緒によって後後までこの花街では芸者よりは女郎の方が格式が上位で、芸者は冬でも足袋をはくことを許されなかった。

この花街は古くから相当繁盛したのであるが、特に維新ごろには、かねて下関商業の主力であった米問屋がまだ隆隆とやっていて、その御客の千石船の船頭とともにこの街で大いに羽振をきかせており、またそのころ奇兵隊の高杉、山県、伊藤などの幹部をはじめ諸隊の勇土達がしきりに登楼してなかなかにぎやかであった。

ところが明治に入っては米船が来ぬようになり自然問屋も衰微し、諸隊も解散、幹部は東京に去ってこの街の打撃は誠に哀れなるのであった。

そのうちに下関の米取引所が盛んになって一六勝負でもうけた金をポツポツとまき、また筑豊の黒ダイヤの親分がはるばる続続とここに遠征を試み、これに砂糖、メリケン粉の成金も混ざって稲荷町の繁盛はまず明治末、大正半期にかけて頂点に達したといえよう。

もっともこのころにはいわゆる関の女郎衆は芸者の跋扈に圧倒され、先帝祭参拝にくることをかくようになっていた。その後経済界の変動に伴い、ぼつぼつ落ち目になったが、それでも昭和十七、八年ごろまではわずかに花街の面目を保っていた。

いよいよ終戦前になっては芸者は徴用、あるいは廃業でちりちりばらばら、遂に戦災にかかって町内全滅、さしも有名だった稲荷町も何処にあつたのかさえ分らぬほどになった。しかし昨今は大分もとのところにぽつぽつ料理屋などが出来、ネオンの影に美しい女の姿も見られるようになったらしい。

この町に以前鞆屋というのがあった。町で一番の旧家で、昔官女達をトマぶきの小屋に泊めていたので苫屋といっていたが後、鞆屋に転化したのだという。このため先帝祭に鞆屋の女郎が参拝せぬうちは他の女郎は一切参拝出来なかったとのこと。しかし鞆屋は明治初年に廃業してしまった。

また大阪屋は各代の親方株で抱え女郎他家より多かった。昔藩からこの種の税金の取立役を持っていた。ただしこの金は藩では汚れ金と称して架橋、道路工事等に限って使用したとのこと。この家では維新当時木戸、高杉、山県、伊藤などの志士がよく遊んだ。西郷との面談もここの座敷であったともいわれる。

この家の後の山に茶席風の座敷があってこれを対帆楼といった。明治の中頃と思う、井上馨朝鮮公使の帰国のときことの座敷で盛大な歓迎会が催された。のちこれを宏壮な楼閣に建て替え赤間町の方に上り口をつけた。伊藤公がこれに鎮海楼と命名した。

このうちにある全盛の女郎がいた。先帝祭に参拝のもどり途に下駄の緒が切れて足袋はだしのまま美しい「うちかけ」をわざとだらりと路上を引きずって帰った。付き人の面面がびっくりしてはらはらするのも知らぬふりで、女郎は家に帰ると直ぐに楼主の前にこれをと二百両の包を差し出したのには一同二度びっくりしたとのこと。

そのころ裏町の弁天座に中村芝翫が来たとき、その子福助後の歌右衛門がこの大阪屋で元服の式を挙げた。芝翫の芝居は非常な大当りで二階の席が落ちる騒ぎで、近在からの見物人は前晩から小屋の前に寝て翌日を待ったという。

稲荷町の町名は町のつき当りの稲荷山に稲荷神社があるからのもので、同神社の神体には大同何年と彫ってある由。(鈴木 伸堂)

(馬関覚え帳 朝日新聞下関支局編)


赤間町

この町は東に仲之町勝負口町と通じ、西は稲荷町、西之端町と連なり、今の下関会館のあるところが町のほぼ中央であった。区画整理で町が横断されて昔の町は分りにくくなった。

町名は赤間関をそのまま命名したものであろう。仲之町境の溝河に、石の馬が埋っているなどの伝説はあるが、これには同町の祭の神燈に赤馬を仕丁二人が押えている絵を書くことになっている。こじつけたのであろうか。

この町には昔肥前屋敷といって肥前藩の出張所があった。下関会館のあるそとである。この跡は一、二人が変って久富という成金が住宅を新築した。

この成金は第一次世界大戦の時下関のトロール漁業が不況でその船がいくつも下関港に遊んでいた。これを英国で軍用に使用しようと買入れ方を英国の商館サミュル下関支店に照会して来た。成金氏は丁度同館に勤めていたので大いに斡旋した。遊んでいる船が非常に高く売れるというので、商談は続続と整い、これがため彼氏は莫大なるもうけをしたとのうわさ。

今の下関会館の下、向側に蛤小路という路地があった。これを二十間ばかり行くと唐戸湾に出る。よく夕方など湾に停泊している船のものが酒や野菜を町で買って帰るのを見かけた。(鈴木 伸堂)

(馬関覚え帳 朝日新聞下関支局編)


仲之町

仲之町とは古い昔、下関が西之端町まであったので、この町が下関の中央になるのでつけたということである。(鈴木 伸堂)

勝負口町

仲之町の北裏の通りで、昔下関で大綱引があった。それがこの辺で勝負したので勝負口と命名したのではないかというものもある。

なるほど「下関二千年史」に大綱引があったという記録があると書いてはいるが、それは文化ごろのことでしかも人数一万三千、大綱二百本、継綱長さ八百間など、すこぶる誇張的だと著者疑いを存している。どうもうけあい難い。

この町には昔から亀山大宮司邸宅があって昔はその所属の田地が近傍に沢山あったので いま「宮田町」というのはこれによって命名したものということである。(鈴木 伸堂)

(馬関覚え帳 朝日新聞下関支局編)


園田町

ここはほとんど小百姓ばかりで、北浦街道に続く今の道森公園のあたりであろうが、昔空月庵というのがあった。百五十年くらい前の下関地図に載っている。

この庵でかの俳人菊舎尼が一ヵ月ばかり滞留して茶会を開いた。「手折菊」によると文化五年(五十八歳)の冬十月朔日より茶会を開くため案內回文を同好の士に出している。

そのなかに「席は住吉の南、阿彌陀寺の北、わずかばかり山を登りて、むらむら松の立てるところ也」と書いている。

句に「一碗に足る味汲んでしぐれ月」

その茶会の時ながめていた干満の茶わんを取り落して破ったとある句に

「破れたりな鳴呼惜むべし薄氷」

それから赤間関の竹崎、橋本のもとへゆき、新地の住馨、寄柳の夫婦とる雅怖を語らったともある。

この次に詩と句が出ている。

「留別空月奔」
三旬如一夢忽爾下雲扉
梅花兼雪月史袂共翻飛

「こころ清しけうまた神の帰り連」

(鈴木 伸堂)

(馬関覚え帳 朝日新聞下関支局編)


神宮司町

この町は元亀山神社の東側石段の下の一筋で仲之町と赤間町の境から南に五、六十戸の小さい町、町名は亀山神社のひざ元であることに関係があるのだろう。

しかし聞くところによると今は仲之町と合併したとのことだが、この町は以前仲之町とは一緒になったこともあり、別れたこともあったので、いまさら合併したところで、しばらく別れていた古女房が帰って来たようなもの。

昔はこの町の南端に石段のついた渡場があった。唐戸市場の少し手前との渡場と海を隔て今の東郵便局より東に一丁ばかり来たところと相対する二丁くらいの間がいわゆる唐戸湾のきんちゃくの口にあたり、これより北の方にきんちゃくの胴の様に中がやや広くなった海であった。

今の新天地、本町などはもとより、唐戸の盛り場全部や電車通りの一部はすべて湾内で、唐戸桟橋のほとり魚菜市場のあたり一帯は湾外でみな海であった。

湾内には日頃百、二百石くらいの小船がそこここに停泊していた。いざ時化となると他の海岸にいた船がみなここに避難して湾内は殆んど船で埋まってしまう。しかし風が静まり沖の波が穏かになるとこのときとばかり出てゆき、あとは大きな池を見るように、夜月でも差したら一寸とした風景であった。

前にいった湾の口のところの渡しが「五厘渡」といって一人五厘の渡賃で小舟が渡していた。船頭とお客のすこぶるのんきな風景はさながら広重の絵でる見るようであった。この渡しは市内の東方より西の方に行くに赤間町、西之端町を遠まわりするより大変な近道であった。

この唐戸湾を埋立てるという時(明治三十年ごろ)「五厘渡」の船頭連中がこれでは生活に困るというわけで打そろって市役所に反対運動に押しかけた。はなはだ少数ではあったが今ごろなら例の野次馬が加って相当な騒ぎになるかも知れぬが、当時はまだまだ封建の余勢が強く「そんなことをいうてはお前たちの為になるまい」といわれてそのまま泣寝入りとなった。

明治初年の頃町に無理心中があった。今ごろならまたかといつて大して驚くるのもあるまいが、そのころではとても珍しく市中の大きなうわさとなった。この町から仲之町に出る二三軒手前に紺屋があった。主人が源助、後妻がおさめ、継子の死んだことから喧嘩となり源助が刀でおさめを刺し殺し、自分は二階の障子を開けて「御近所の皆様、後を頼みます」と大声に叫んで直ちにその刀でのどを切って死んだ。

まだ新聞のない時であったが、色色と尾にひれつけてロ口に伝えて、たちまち市中にひろがり、当分は人が寄ればこの話で持ちきり、やがては夜はあの家のむねから火の玉が二つ飛んだなどといいふらされ、夜女子供は恐れてこの家の前は通り得なかった。

そのころこの事件を芝居に仕組んで裏町の弁天座で演じ、毎日大入り札止めの大盛況であった。しかし時の流れは妙なものでたちまちにすべてのものを洗い流して、歳月も経たなうちに店にはあいつぼがならび軒先きには染ものが干されるようになった。何事もなかったように…。両人の比翼塚は宮田町の勝広寺にあるはず。

亀山神社は周知の通り由緒極めて古く、貞観年間に宇佐神社から勧請したもの。亀山の名は宇佐神社のある山が亀山というのでこれによったるのらしい。 異説は多少あるにはあるが、戦災のため神社、拝殿、回廊、楼門、能舞台全部を焼失していまは仮神殿が出来ている。しかし四、五年のうちには再建の模様。

同社の氏子は外浜町以西、西細江までで、祭事は五穀祭と九月の本祭(今の十月十四、五、六日の秋祭)がある。本祭は「九月の祭」といって先帝祭と並んで下関の大祭であった。しかしこの九月の祭のことはいまは、あまり知っている人は少いであろう。

当時谷町に九月の祭用として、シャギリ山と額の一組があった。シャ ギリ山は数人のハヤシ方を乘せる四角な箱のようなもので、これは全部朱塗りに花島、竜虎を浮彫りして金銀を施し、要所に金の金具を打ち、山の上には作りものといって花鳥草木や等身大の人形を飾り、誠に美しく眼もさめるばかり。

額は四角支サクの中に棒を立て錦に刺繍をして水引を垂らし、それには鈴がついている。その水引の上に表に亀山宮、裏に各町の町名を書いた額が掲げてある。各町の旗印というところ。

シャ ギリ山は六、七人の男女のハヤシ方と楽器(琴、三味線、太鼓、鼓、笛、尺八、カネなど)を乘せて長いはつびを着た人夫が二十人くらいでかつぎ各町を回るのである。このさい額はいつも山の前方、少し離れてこれる人夫四人でかついで行く、山の道案内という型。

山は道に絶えず音楽を奏でて各町の「当元」といつて町の引受所の前に来ると静かにすえて、道中とは別の音曲を一しきり合奏する。この音曲を作るには各町でそれぞれ堪能な師匠を集めて懸命に工夫、練習するので、すこぶる高尚優美なものであった。

筆者などいまにそれが耳に残っていて思い出しては懐しさに堪えないのである。こうして山と額は亀山神社をさして行くのである。この山を出すことは各町で一年交代であった。でも八ヵ町の山が出てこれに町内の人は世話方として総出仕、それに近郷近在から見物に来る者がおびただしく、市中の雑踏は大変なものだった。

この祭の三日間、町家はみな業を休んで店を仕舞い、毛セン、だん通を敷き、金屏風を立て、軒には幕を張り、ちょうちん大小四、五張をつり、番頭、丁稚など着物をきかえて、日日酒肴を受け、自由に遊ぶのである。日ごろは盆、正月のほか全く無休の身分にとって祭は誠にこの人たちの年中最大のあこがれの慰安日であった。

ところが山を出すには甚大な費用を要するのと電線が市中に張られて、山の邪魔になることとで遂に中絶、一度大正の初期に出したことがあったがそれきり全く絶えた。はなはだ惜しいことではあるが、今日では大概の町では戦災で山も焼いてしまったろうから最早何とも仕様があるまい。

なおこの祭には亀山の能舞台で奉納(能)が催されることになっていた。これは古くからのことで旧藩時代には藩公、奥方、姫君といった人が家来をつれて見物にくることになっていた。またある時期には稲荷町の遊女がキラを飾って見物に来たこともあった。まず神殿で「翁面渡し」の古式があって、その後に能がはじまるのである。この能に市中の有力な人人が上下をつけ小刀を指して地謡に坐ることになっていた。これに坐ることはなかなかの名誉とされていた。

五穀祭は九月の祭の上品なのとは変って、例の「八丁浜仁輪加シャギリ」等で馬鹿騒ぎをやるものである。これはいまはすっかり下火になったが、昔は良家の子女が一人あるいは二人、近所の師匠に連れられて三味線をひいて市内を回ったのである。支度は友禅の振ソデに錦の帯をしめて、顔やえりに厚化粧して、頭には銀のかんざしをひらひらさせ、これが次次と絶え間なく通るのは美しくもまた可愛いものであった。しかもこのシャギリは嫁入前の顔見せでもあった。

維新のころ外国軍艦と撃ち合いのとき弾丸が亀山宮の楼門にあたった。これが神殿にも拝殿にも当らなかつたということをかついで日清、日露戦の応召兵士は亀山宮のお守りを受けるものがはなはだ多かったとのことで「弾丸除けの御守」といった。

こういう伝説がある。維新のころここに台場を築いた、ところがさて軍艦に向つて一発放とうとして筒を一寸下に向けると中の弾丸がコロコロと転げ落ちたので、こんな高い処に砲台を築くなど不届達であるとその指揮者が首になったということだ。誠に乱暴な話だが、もしこの指揮者がそこから高い高い火の山の砲台を見たなら、これがおれの首を切られたころに出来ていたら首は十あっても足るまいというだろう。

これは亀山に関係のないことだが大砲の話をもう一つ。長府のお抱え表具師に日爪一貫というのがいた。お馬回りのれっきとした士分であったが、維新の当時、他の家来たちはみな何何隊に入ってこの時とばかり君国に忠義を尽さんとするのに、自分は職分とはいいながら表具のことにかけてはだれにも劣らぬ自信はあるが、武道ははなはだ心細い。

しかし武士の家に生れた以上、何とかして君恩に報いねばならぬと、日夜心焦慮した結果、とうとう「おれはおれの職分でやる」と紙で大砲を作ることを決意した。その後日日渋紙をはってははり、次第に筒も大きくなってきた。しかし親類、友人などはみな心配して「それで撃って自分の身を失うだけのこと」としきりにいさめたが「おれのはったものが破れてたまるか」と大立腹で相手にせず、ただ一心不乱に仕事を続けていたが終に気が狂って死んでしまったということ。もしこの大砲が残っていたら長府の博物館でいまごろ異彩を放っているであろうに。

以前亀山の南側海岸に相当の空地があった。また今の唐戸市場の出来るずっと前、明治の中期ごろのこと、いつもここで角力、芝居、見世物などの興行があった。「亀山の角力であとがない」と下関の戯言はものの永く続かなかったことを意味するのだが、いずれここで催された角力が起源となったものであろう。

一度ここで撃剣の興行があった。榊原某州といったかと思う。竹刀、鎖鎌、長刀などの試合があったのち「剣の舞」というのがあった。女剣士十人ばかり、黒の紋付に紫の袴をつけ、白鉢巻をしめ、詩吟かなにかに合せて舞い、氷のような剣を抜いて互に打ち合い剣光尖閃と散って美しくも勇ましかった。

ところがこの剣士の中の第一の美人が程なく市内観音崎町から後に岬之町に移転した物品問屋の主人の後妻に納まり、以来店頭に美姿を見かけたものだがその美人の横額に刀傷があった。いずれ剣舞中の怪我であったろうがはなはだ印象的であった。こんなことも当時問屋仲間で一時の話題となった。

当社の境内、今の保育園のあたりに大弓場があった。明治から大正頃まであったと思う。その初めの頃の経営者が稲毛某といい、この地方では一寸珍しい姓である。これが旧記にあるととろの平城天皇(千二百年位前)の代に、この地に赤間稲置というものが赤間薬を作りたとある。稲置と稲毛との相違はあるが果して何らかの関係があるかどうか雲を握む様な話である。(鈴木 伸堂)

(馬関覚え帳 朝日新聞下関支局編)


外浜町

阿彌陀寺町の次の町で戸数ははなはだ少い。亀山宮の東、石段の下あたりが浜になっていて大きな石段があった。昔は下関から諸国への渡海はすべてここから出発したので、町名もこれに因んでつけたものと思われる。ここのには「山陽道」の道標長府までの里程柱(表示に長府郡役所まで一里廿八町)もあった。

町には船宿が多く、他には大きな商店などはなかった。宮本武蔵もこのあたりの宿にとまって舟島(巖流島)に出かけたというし、西郷吉之助(隆盛)が伊勢小という宿で防長の志士に出会うたとか、出会わぬとかいわれている。

明治二十二、三年ごろ洋館建の駅逓局がこの町に出来た。二階建の前側は石造りで、当時としては他に比べるものもなかった。落成の時は一般の縦覧を許したので多数の人がもの珍しく出かけた。のち東南部町に下関郵便局ができてそれに移転し、跡は間組の事務所となった。

この側の上に昔は紅葉館といっていたが、いまは英国領事の住居となっている西洋館がある。日清講和談判のさい、清国の顧問フォ スターがここに宿泊した。フォスターといえばこの人は「ジョン,ワットソン・フォ スター」といい、い赤米国の国務長官ダレス氏は「ジョン・フォスター・ダレス」といってこの人の孫に当る。祖父も孫も時を隔てて、日本関係の講和談判に努力することはよくよく深い因縁だと思われる。

因縁といえばついでに一つ加えよう。以前紅葉館の厨事場のすぐ傍に先日祭典を催した真木菊四郎の墓があった。今の墓所はここのを後に移したものである。

きれいに掃除されてあるので、紅葉館の厨夫にとのことを尋ねて見ると「それは私が時折、香華を手向けている」とのことに、筆者は人事ながら喜んだことであった。南四郎熱烈跡皇攘夷の志士であった。 よもや死後いわゆる夷狄の一使用人から一掃の水を供えてもらうとは夢にも思わなかったであろう。

李鴻章が小山豊太郎にビストルで狙撃されたのもこの町の江村仁太郎(屋号ミセヤ)の前であった。筆者は自分が親しく見たこと、また目撃した人の話を後のために書くことにする。

当時駅逓局西隣の郵船会社に勤めていた老人の話、午後三時すぎと思う李鴻章が帰るといったが、憲兵や巡査の警戒がないので、そんなことがあるかといっているうちにフッと李のコシの前方に白い煙が上った。直ぐドンと音がした。この時一度コシをそこにすえたが、またドンドンかけ足で町角を回って引接寺へ行ってしまった。

これより前、私は、李がやられたと聞いて現場へ走った。私は人を押しかけて店に入った。憲兵と巡査とが小山を突いたり引っ張ったり、もみくちゃにして警察署へ連れて行った。その時小山は紺ガスリのつり袖の上に白黒立ジマの厚司を着てナワをしめていた。私は駅逓局で新聞記者が電報を打つのでぼんやりそばで電文を読み李が右ほほを撃たれたことを知った。というのである。

筆者は当時西之端にいて李が撃たれたことを知ったがまもなく小山が家の前を引かれて行く姿を見た。小山は翌朝十時ごろ人力車に乗せられ、むろん厳重に納められたまま山口へ連行された。たしか竹の皮の笠をかむっていた。

この事件後、下関市内に入することはすこぶる厳重になり、陸から来るものは在所の証明書が必要となり、海より来るものは通行証といって小さい木札が入用となった。

李鴻章一行の船は支那招商局の汽船で「公義 」「礼裕」の二隻で二千トン位が沖に停泊していた。日本の全権一行は威海丸で李一行より前に着いていた。

李鴻章の傷を施療したのは佐藤軍医監、立会が石黒軍医総監、李が「軍医監はなんのために帯剣するか」と尋ねたら軍医監が「これは殺人剣ではなく、活人剣である」といった話は有名である。

日清談判の時、大阪朝日新聞社から記者として西村天囚氏が来た。その時の電報料として八百円持って来たということを地元の通信員から聞いた。(鈴木 伸堂)

(馬関覚え帳 朝日新聞下関支局編)


阿彌陀寺町

この町は東は「大蔵」を境にして西は外浜町、いま英国領事の住んでいる洋館に上る口あたりまでの大町である。もとは魚屋が多数を占めていた。西南部、東南部の北前問屋をはじめ、各町の富裕なうちを得意に魚を持って行くのである。

向うでは主婦がいちいち値段を聞くことはなく、あれこれと好きな魚をおかせて、魚屋はあらかじめおいてある通帳に勝手に魚と値段を書いて帰った。これで盆と節季に通帳を勘定する。しかし後には月月の計算になったようだ。

随分大様な取引であったが、そんなことで御得意さんは多く没落したが魚屋はみな丸くなった。家を新築して海に臨んだ裏にきれいな座敷を作り、料理屋兼旅館を始めることになった。大吉、常六、常富など大小の同業者は、いずれも魚屋の成功者である。

こんな関係でこの町には魚のせり市場が二、三ヵ所あった。朝夕二回市を立てるが、朝が最も盛んで沢山の魚屋が集まった。市場のものは高い声で「キリじゃ、ダリじゃ」と符丁で叫ぶ。そばで見ているとケンカでるするようであった。

市場に集まる魚は船で来るものが多いのだが、仙崎あたりから車に積んで来た。仙崎から来る者は仙崎を宵に発って、朝の早い市場時間に車を引きながら休みなく駆けるので、寒中でも玉の汗が顔にうるさいばかり流れていた。

市場につくと魚は先方に渡して朝飯を食べて、一眠りする。目が覚めてひと風呂浴び、よい心持で昼飯に一パイやる。これは市場の仕向けである。

これだけ働いて帰る時には三、四円くらい受け取るのであるが、ただ昼飯に一パイやることがとても楽しく、途中の苦労もたちまち洗い流したような心持になり、日日の働きが続けられたものだとのことである。

赤間神宮、先帝祭、また阿彌陀寺のことなど余りにも有名である。特に赤間神宮所蔵の長門本平家物語は誠に重要宝物である。春帆楼はさきに戦災で焼けたが、先般再建の地鎮祭をすませたのだから、遠からず 「輪英の美」を以て再現、下関の一名物となろう。

この楼は明治初年に豊前の国藤野玄洋という医師が自宅として建てたのだが、その死後細君が料理屋兼旅館を経営してさかんになった。元来春帆楼というのはその真中で、向って右か月波楼、左が風月楼といっていたのをその後、風月楼を三階建に改築し、伊藤公が聴潮閣と命名した。日清講和談判がここでなされたことは天下周知のことである。

大年寄伊藤木工助氏の大邸宅は春帆楼を町に下りたところにあった。九州の諸大名の上り、下りの際に宿泊するいわゆる本陣である。氏は諸方の有士、墨客に交友が多く、坂本竜馬も永く同邸にかくれていたことがある。吉田松陰も氏と親しくしていた。

松陰の「未忍焚稿」の中に「伊藤某に与う」というのがある。

「聞く足下豪爽奮発概義を好むと一たび臂を交へ、古今を劇談せんと欲して而得べからず以てみと為すのみ」の書出しで、終りに「僕因て先生に謁し其の高弁論を聞き以て康頑を低励するを得ば則ち足下の賜大なり、効書を作り視縷すること能はず、万推察を祈る矩方自す」(嘉永二年五月二十五日)と結んでいる。

要するに西遊に就き氏に清潔なる好意を求めたものである。多分好意を受けたであろう。

松陰が後に「馬関に伊藤木工を訪う」という詩を作り、また「伊藤木工の宅にて頼徳卿、頼藤に邂逅す二子詩あり僕も亦た此を賦して徳卿に示す」というのがある。

この徳卿は山陽の三子三樹三郎の変名で、藤山陽の長子事庵の嫡、名は元感、また松陰の求めに応じて伊藤氏が静斎の雅号で金子重輔を弔する詩を贈っているなど見るとかれこれ考えて伊藤氏の人物がうかがえる。

静斎の後は養子 彌六氏がつぎ、明治の中期ごろより質屋を営み、すこぶる洒落な人で、筆者は当時同業の故を以って酒宴に同席したことがある。氏が少し酔い「漫酒を活うことを憂うる勿れ、褒中自ら我あり」と唐詩をうたったのを覚えている。

道標示との町の東端東行工業会社の西角にいまだに残っている御影石である。一尺角に六尺ばかりの高さ、右側に「右上方道」左側に「すみよし道」他面に天保八年正月吉日、網屋八左衛門魚屋喜太郎と並べて何れる彫られてある。

養治小学校が明治六年に設けられた時前記伊藤邸の玄関、広間のいくつかを借りていた。大きな昔ながらの寺のような門をくぐって登校したものである。後に同位置に新築されたが今は園田町に移ってしまった。(鈴木 仲堂)

(馬関覚え帳 朝日新聞下関支局編)


壇ノ浦町

この町はもと下関の東端、源平の古戦場御裳川のある今の源平町の海岸にあって二十戸ばかり町の体裁なさぬ真にさびしい漁師部落であった。

ここは明治初年のころ砲台が出来ることになって他に移転させねばならず、といって適当な場所もなく、ついにそのころ阿彌陀寺町の東端、いまの東行工業会社の前に「大蔵」といって長府藩の米倉があった。

藩後それが空いているのでそれに移転雑居させることにしたが、これとて到底永住は出来ないので色色その筋で考えた末、間もなく壇ノ浦町の海岸を整理してようやくこれに落ちつき、今の壇ノ浦町が出来たわけである。しかし何分にも地区が狭いので、家は出来たが、間口一間半、奥行四五間というのが多かった。

ところが何分にも狭くて困るというので、裏の海面に一間ばかりの掛出しをすることを県に請願して許可を得た。これでやっと漁具や洗濯の干場が出来て大変仕合せたのである。しかしこの海面使用料一ヵ年十銭とのことであった。そのころ米が四、五銭もしなかったとしても安いことは安いものだ。

その後住民の間に盛衰があって、家の持主も変って別荘が出来、立派な料理屋が建ち現在の町になった。

町の戸数はそのころ二、三十軒くらいであったと思う。町費も各戸均等で公に関することなどすべて「代任せ」(その時の総代は中尾) 印判もみな頂け切り、何かととが起ればすぐ代が出かけて取りさばいていた。それで少しの間違いなく真に平和な部落であった。

壇ノ浦で行われる和布刈の神事は有名で、それがすむまでわかめを「名ゆゆず」といったこと一般に知られている。

ここでは舟下しの時はいうまでもなく、日ごろの酒宴の時でもこの歌をうたわれば他の歌はうたわぬという歌がある。歌詞は次に記すが、節も素朴で威勢のよいものであった。

ところがこのごろでは若い人など歌詞る節も知っているものがなく、ただ安村米吉という八十歳くらいの老人が一人知っているということである。

今の内にこれをレコードにでも取っておかなと永久に消え失せるのではないかと思うと誠に惜しく、残念に堪えられない。壇ノ浦の若い人人にも大いに考えてもらいたい。

今日、日日から一ー
草木、星のすわりるようどさる
オッとようござる
福消から福嵐が出る
それを帆に入れて向うの宝島へ
金銀小金を積みに回ろうではないか
オッと ようござる
さればこれからいかりにかかる
やんだやんだやんだとりかじ
やんだやんだやんだおもかじ
よろそろ、今のかじに乗ったとや目出度い
五葉のわか松枝も栄える葉も茂る

(鈴木 伸堂)

(馬関覚え帳 朝日新聞下関支局編)


町名考

近ごろ下関の町の人のなかに、戦災後町の区画が大いに変ったため勝手に町を合併、以前の町とはなんのゆかりもない変てこな名をつけ、その町の人人でさえ戸まどいさせるなど、これは確かに行き過ぎである。

心ある人はみな残念に思っている。その意味で私はいま思い出すままに下関の昔の事どもを少しずつ書いて見ようと思う。一つには町名を変更しようという人人の参考にもなり、また若い人人の郷土史研究に一寸したヒントを与えるととにでもなれば幸せと思う。

下関市は明治の中ごろまでは東は壇ノ浦から、西は伊崎まで一本町で町の片側はほとんど海で、片側は丘が連なっていた。それは頼山陽の詩によってもわかる。

しかし、その後下関は年とともに発展して郡部の接近町村を合併し、海を埋め山を崩して今の大下関が出現したのである。明治二十五年一月の調べによる全戸数六千三百五十四戸、人口三万二千九百八十人と比較すると真に隔世の観がある。

(馬関覚え帳 朝日新聞下関支局編)

(彦島のけしきより)


参考