馬関図絵 亀山八幡宮社務所、下関の昔ばなし | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

竹崎踏切り


下関駅東口にある専門大店、きらびやかな百貨に満たされているその内部に昔は黒々とした蒸気機関車が出入りして方向転換をやっていたのを知っている人も段々少くなって来た。

この機関庫(と当時は呼んでいた)のすぐ前、つまり現在の電車通りに竹崎の踏切りがあった。山陽線はこれを最終の踏切りとして現在の西細江の下関(旧)駅に終っていた。

踏切りを竹崎の方から越えると道は丁字状になって西は現在の邦楽座通り東は豊前田の方へと分れ花街の名ある豊前田通りから段々街は華やかさを帯びていた。

自動車も無いそのころ、現在の大洋漁業、当時の林兼商店の自転車を借りて遊び廻った頃踏切迄の往復が一つの目安だったのを覚えている。

踏切りの西側には貨物積降し用のフオームがあった。売られて行く牛がよく群っていたので牛場(ウシバ)と云っていた。幼い頃ねえやの背で何とはなしに牛場を見に行ったものだ。(藤田)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


竹崎の海

現在の大洋漁業の社屋の在る所は海だった。勿論下関駅の在る所も海で彦島水門迄は関門海峡の支流として急潮が小門へ差し引きしていた。

出舟入舟で栄えたと云う昔の姿は遠いものとなったが私の幼い頃は大洋社屋の西北隅辺りに彦島渡しの渡船場があった。石垣で組まれた発着場は「ガンギ」と云っていた。斜めに海に突き出たガンギは子供の絶好の水泳の足場だった。

その頃関釜連絡船もこの海峡を通っていた。朝鮮海峡を往来する乗客の哀歓を知る由もない子供達は当時の巨船の起す大波に揺られて泳ぐのが最大のスリルであり冒険だった。

昭和の初め頃、海峡が陸続きになる以前に築港が出来て十余万坪が埋立てられた当初は広漠たる砂漠のようで、あるときには野球場となり、あるときには合戦場となり、夏の盆踊りや野天映画が上映されていた。(藤田)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


稲荷座

佐藤治氏の文章によると、三度目に稲荷座が炎上したのは、大正四年五月五日、中村吉右衛門の初日の夜となっている。

私がその吉右衛門の幡随院長兵衛を稲荷座の舞台で見たのはそれより少し後のことなので、再建されたときの舞台だったのだろう。吉右衛門の長兵衛が風呂場で水野十郎左に槍で刺された苦痛のうめきは、八代目団十郎が斬られたときの写しだと評判だった。

私はその頃稲荷座の鎌倉三代記とか、太閤記十段目とかの錦絵風の絵看板を描いていた。沢正の新選組、松井須磨子のカチューシャ、川上貞奴のアイダなどの仕事もした。座主の広崎半左衛門の奥さんは、馬関の旧家のおごうさんという風格の濃い優しい方だった。

後に大山劇場と変った頃の私は放蕩無頼で、裏町のカフェー金春の女給を二三人連れて仕事に行った。その横で新座主のぼんぽん野村健太郎氏は、沢庵一本を肴に一升徳利を空けながらその仕事振りを見ていた。(今井)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


豊前田町

東の稲荷町裏町の本格的な遊里に対して、ここの遊里は、一見上品に見えるが二枚鑑札をもった大衆的な存在であった。往年の総嫁の名残りを匂わせながらも、サラリーマン、芸人、文士、政治や、小商人、特に朝鮮行きの旅人など多彩の泊りでにぎわった。検番も西と称して格子づくりが目をひいた。

歌人斎藤茂吉、俳優沢田正二郎などもここに登楼した。寄席から転向した朝日館は、旧劇の尾上松之助、新派の山本嘉一などの日活俳優をむかえて、市内最高の入場を誇ったこともある。活動写真館として異色であった。

隣には、肺病ろく膜、淋病、梅毒調合薬専売所有田ドラックが点滅式電灯広告塔を市内ではじめて上げて、驚かせたことも、この町にふさわしいひとつであった。

遊び場をもたない子供達が、谷の福仙寺、紅葉神社の境内にませた顔をしてたむろしていたのも思い出の昔となった。(前田)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


関門航送船

関森航路というのがあった。これは、下関と門司小森江を結ぶ貨車航送船のことで、古い歴史を遡れば明治三十二年頃に始まる。いわゆる水車式航送船で、スクリューの代りに船体の両脇に直径四米半もある水車をつけ、前後に自由に動くしかけになっていた。

この船は私たちの郷愁であった。この船は海峡のシンボルであった。どうしてもこの海峡におきたかった船。しかし、それは関門鉄道トンネル開通のため昭和十七年九月宇高航路にまわされた。

その後、昭和二十五年八月、日本自動車航送のためまた下関に返り咲いたが、それもつかのま、こんどは昭和三十三年六月関門国道トンネルが開通したためまた下関から消えた。

どうしてもこの航送船は下関から姿を消さなければいけない運命にあったのかもわからない。(佐藤)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


林兼商店

今の大洋漁業の前の建物であり、また前身でもある。

大正二年十数軒の小家がこわされて建てられたので、近辺の人は、何でも日本一の林兼とか目とかいう魚問屋がくるそうらやげな、その親方はんといったらとても地味な仕度でな、耳はふつうの人の三倍もあってこれがまたすばらしい福耳ぢゃげなと、大人連中がさかんにおおげさなうわさをしていた。

二階は住居で下の金格子の中が商事部、左の白かベ造りが各船へ配給する船具庫、中庭を通りぬけて裏が船舶部であって今のマルハ通りから沖が海で、小瀬戸の急潮を通りぬけて岬之町の魚市場に荷揚げをすまして出帆準備をする船がこの裏海岸にいつも十数隻つないであった。

夏ともなれば近くの子供の遊び場で、船から船を伝いまわって鬼ごっこ「一つひよこのピンピマラ、二つふなのり船頭マラ三つみこしのはりメメコ」ジャブーンと海へとびこんだものである。

現在の社屋は昭和十一年の建築である。(和田)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


電灯会社附近

そのころ(今から四十年前)竹崎町の大通りはなくて現在の藤田ビル(駅西口)から斜めに西に向う小路が竹崎のメインストリートだった。

突き当りには市場が出来ているが、小宮外料のある所が母校の関西小学校で、この小路は唯一の通学路であり、子供連中の遊びの広場であった。丁度真中辺にある中国電力の社屋は勿論この小路に面していた。現在の真裏に当る訳である。

「正ちゃん電球替えておいで」切れた電球を持って行くと度の強い眼鏡の小父さんが受付けにならんだソケットに新らしい電球を差し込んでパッと灯のつくのを確めて無言で渡して呉れた。たしかそのころは無料だったと思う。

門の向いには焼いも屋があった。オーケ姉ちゃん(大きい姉さん)のお使いのときには決って焼いもを買わされた。子供のころのこと、電灯会社よりは芋屋の小母さんの方が印象が強い。若くて逝った長姉はビンツケ芋が好物だった。(藤田)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


桜山の競馬

桜山神社の春の祭は毎年四月十六日に行われた。この日は全校の生徒が参拝した。

厳島神社の左からはいって石畳を進むと小さなガードがありそれをくぐって左に高い坂路を登って行くと、そこに大きな広場があった。これを桜の馬場といった。ここでは毎年草競馬が行われた。胴の太い、足の短い馬車馬がデコボコの道を暴れ回って走った。

遅咲きの桜もまだあちこちに見え、桜見物を兼ねての競馬狂がサクのまわりを幾重にも取りかこんでワーツワーツと歓声をあげた。中には、出発前の馬に馬主が酒などを飲ませることがあるので、そんなときには馬は酔ってその観衆の中に飛び込むこともあった。

列をつくって歩いている私達は思わず立ち止ってこの有様を見るのだがそうするとすぐ先生からしかられた。追い立てられるようにして下を山陽線が通っている黒橋をわたり、また、石段を登りつめるとそこが桜山神社であった。(佐藤)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


連絡船

空きてゐし連絡船の二階より
 ブィに相寄るかもめ見たる日
わが船の出るまで見送り立ちてゐる
 君の古風を煩はしとも思ふ
甲板に若るのもわれる髪を吹かれ
 相黙し見をり夜の潮流
ほの紅く対岸の灯の見ゆる宵
 美しきもそこにあるべし
面影に立つ桟橋は長くして
 勢ひるしかな国もわれらも(平沢)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


日和山

大正天皇御即位記念として、下関市が公園化した以前の日和山の春は、一面エメラルドの麦畑の起伏で、その所々を桃の花がピンクで彩っていた。

山から見下す海峡は、若松から阪神に石炭を運ぶ機帆船の帆で埋まっていた。今と変らないのは対岸の風師山の姿だけである。

熊本の平和博覧会に、商工会議所から下関物産品の背景に使う下関風景をとの注文で、一文の高さに四間幅という大画面に泥絵でこの図のようなものを描いたが、会期半ばに憲兵隊から注意を受けてその絵は撤回された。

公園となるときは山に仮小屋を建てて貰って毎日、部分や全体の出来上り図を描きに通ったが、造園学の権威本多静六博士の設計でも、昔のままの麦畑と桃の花の方が好ましいと内心思ったものである。

しかし現在のように山全体が住宅に埋まってしまって見ると、一部分でも公園として市民の憩いの場が残ったことは、よいことであった。(今井)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


旧駅

小学校から中学校にかけて、私は机の前にキチンと座って勉強するのが大きらいであった。

だから、試験のあるときの前などは大抵日和山のテッペンか、その反対に、騒々しい下関駅の一、二等待合室で本を読むことにしていた。

とくに、寒いときなどは、待合室の真中にあるストーブに石炭を惜しげもなく投げ入れては、お客の出入りの激しいなかで一時間も二時間も頑張ったものである。

大正十一年の七月に駅前の山陽ホテルが焼けたが、そのすぐあと、下関駅の時計は全部電気時計にかわった。その翌年の四月、駅が大改造され、見違えるほど大きく、美しくなった。

ところが、その大改造のおかげで、私は非情な駅員のために折角の私の勉強室である待合室から追い出されてしまった。

その駅も昭和十七年、今の地に移った。旧駅は荒廃のまま今日に至っているが、時折この附近まで来てはあのころのことをツイ思い起すのである。(佐藤)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)




山陽の浜

トンコトンコトンベエさん
行水すんだらべベ着替え
山陽の浜へ連れて行こ
ヒヤコて甘いアイスクリーン
アツウて甘いが鯛焼じゃ
台湾バナナが三十銭
川棚西瓜は五十銭
トウサン西瓜を買うてえね
ヨシヨシ帰りに買うたるぞ
高島易断手相見が
ポンポン痛うならないと
いうたら西瓜を買うたるぞ
ハーイと答えてニッコリと
駄々はこねないすなおな子
山陽クラブの絵看板
目玉の松ちゃん安兵衛が
赤い襷も華やかに
高田の馬場で十八人

叔父のかたきを討ったげな
前から聞えるバィオリン
ここに周防徳山の
高等女学校に通わるる
才色兼備の艶で人は
その名も吉井信子とて
年は二八か二九からず
あまた生徒のいる中で
一きわ目たつ八重桜
色香も濃ゆき紅梅の
雨にぬれたる何とやら
艶歌師歌うを聞いてから
次はのぞきの金色夜叉
熱海の海岸散歩する
貫一お宮の二人連れ
トンコはとうさんと二人連れ
今月今夜のこの月は
浜の船の帆柱の
上でニッコリ笑ってる
トンコもニコニコ笑ってる

山陽ホテルのエレベーター
スーと上ればそよ風に
五色の提灯ゆうらゆら
紫色の振袖の
キレイなキレイな姉さんの
銀のお盆に載せて来た
アイスクリームをさあお食べ
連絡船の灯が流れ
ポーと汽笛の鳴ったのは
中国通いの商船が
南部の沖を今離れ
皆さんサイナラいったのよ
さあさあトンコも帰りましょ
かあさんお家で待っている
ハーイと答えて父の背に
来れば忽ちスャスヤと
西瓜は円い夢のなか
トンコはよい子だねんねしな
浜の千鳥るねんねしな
トン子もよい子だねんねしな

=三十年昔幼女に与えた唄=(今井)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


入江遊園地

交通地獄の昨今、子どもたちに遊園地を…の運動で、児童公園つくりが盛んである。四十年以上も昔。児童公園など思いるよらぬ時代に、入江町の中心にあった遊園地は有難いものだった。

私の生家のすぐ隣りがこの遊園地。ブランコあり、すべり台あり、砂場ありで一日中、どろんこになって遊んだものである。とくに異彩を放ったのがコンクリート造りの立派な音楽堂。ところが、私の記憶では音楽会などいっぺんもなかった。

この遊園地も子どもより、大人のボール投げが巾をきかし、子どもたちは隅で小さくなって遊んでいた。これを喧かましくいう人もない、ノンキな時代であった。

当時、入江町はどこの町よりも町財政が豊かだった。その恩恵が遊園地誕生であるが、子どもたちのために、遊園地をつくった町有力者の進歩的な考えには頭が下る。

そのころは遊園地などシャレタ言葉はなく、遊び場といっていた。それが戦災でなくなったことは、交通地獄ますます激しい時代だけに惜しい。(三原)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


江戸金

小学校に通う頃のことである。私は今の細江町に住んでいたが、学校への往き来には必らず江戸金の前を通った。

江戸金は亀の甲せんべいの老舗で、家の西側に工場があった。そこには十数人の職人が一列にならんで身振り手振りもおかしくせんべいを焼いていた。学校の帰り、その工場を格子越しに覗くのがひとつの楽しみであった。

江戸金ではせんべい以外に生菓子もつくっていた。よそのまんじゆうゃが一ヶ二銭であったのが、さすがに江戸金のは高級で一ケ三銭とった。父がよく銭湯帰りにここの栗まんじゅうやさくらもちを買って帰ったが、それがとろけるようにうまかった。

江戸金には薬屋の金看板のように、いろいろの賞額が店一杯にかけてあった。そのなかで、西南戦争の絵のかいたのが一枚あった。これは明治十年におこった西南戦争の直後江戸金が「西郷せんべい」というのをつくって高評を博した記念のものであったが、この思い出の看板も戦災で焼けてしまった。(佐藤)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


岬之町の浜

ここに漁船、運搬船が集まったのは明治三十七・八年ころからで、山上組、遊魚組などの船や、大洋漁業の前身で林兼も進出した。

その後トロール船が出来、明治四十年ごろには万世(喜)丸、第一長門丸も出入し、一段と活況をみせ、また外国製の深江丸が一航海一、八○○キロの獲物を積んで入港し、人々に話題をよんだ。

明治末年から大正年間にかけて常に百隻以上、大正十一年には運搬、トロール、手ぐりその他で七百隻をこえ、二、八○○万貫の水揚げをした。

この取引のため王司ケ鼻の一帯には、鮮魚問屋が立並び、午前二、三時頃から威勢のよい掛声が朝風にのって流れた。この耀にかかるものは、当時の金で千二百万円(大正十一年)であった。

大正二年ごろ、築港問題からこの水域での碇泊が論議され、結局竹崎〜彦島間に港を設けることになり、昭和四年共同漁業直系八社が戸畑に去って行ったが、昭和八年から着工された大和町方面の港へ移っていった。(阿月)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


三百目湾

藩政時代の赤問関港は、第一が唐戸湾、第二が三百目湾であった。

『通航一覧』に「海岸深く、四尋より八尋(約六メートル〜十二メートル)まで、大小廻船二百余艘繋っている。しかし城の腰より南部の間は、東南風の節船繋ぎ悪しく、三百目屋舗の鼻という処は、観音崎吹きかはす故泊りよし…」とある。

三百目湾は、かなり深くまで入りこんでいたようで、今の中山寺下附近まで潮が入り、明治十三、四年では、今の斎藤氏の家附近まで小舟が入っていたという。

これが山手から流れ出る土砂でどんどん埋った。慶応年間には、藪ノ内で殺された真木菊四郎が、三百目の入海に投げこまれたが、朝になると投げこんだ所に浮上っていたという。

明治年間、各地の船がこの湾から王司の鼻一帯で賑いをみせていたが、その船の間を縫って惣嫁舟が漕ぎ廻っていた。それ三百目の両側に何軒かの置屋があったからである。のち、三百目の入江が埋まり、さらに湾も埋められてしまった。(阿月)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)

注: サンデンバスの停留所に三百目の名が残っている。


永福寺 觀音堂

大同元年藤原冬嗣ノ創建スル所ニシテ本尊八千手観音ナリ棟文三「人皇五十一代平城天皇ノ御宇開基大工飛騨国竹田巧匠守希統」トアルニヨリテ其ノ工飛騨番匠ナルヲ知ル構造建築ノ美ナルヲ以テ世人名ヅケテ馬関雛形ノ御堂ト云ヘリ明治三十六年内務省特別保護建造物指定セラル――と。これを関門錦苑から転写さして貰った。

後に国宝ともなったが、いくら内務省が特別保護建造物と指定しても昭和二十年七月の大空襲には敵せず、焼けてしまった。檜皮と木材だけで出来ていたのでその灰も雨でキレイに洗い流されて仏具の破片が僅かに残ったばかりだった。

私はそのときこの観音堂の東隣に住んでいたが、私などの力ではどうにもならずこの西側の永福寺本堂の炎では十六人が焼鯖のようになって死んだ程だった。千手観音でもこれを助けることが出来なかったのは、内務省特別保護でも観音堂が焼けてしまったのと同じことなのだろうか。(今井)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


百十銀行

戦後の銀行は、すべてがアメリカ方式である。

元百十銀行の西南部にあった建物は赤煉瓦造りの風格のある建物だった。昔の銀行は落付いた信頼感のある建築が多かった。その経営も英国型で地味で堅実第一を旨としていた。

この百十銀行が今の山口銀行の前身である。明治四十四年完成で設計者船橋喜一氏、施工清水建設の前身の清水店である。これがこの建物の履歴書だ。

私は大正十三年にこの赤煉瓦の銀行マンとなった。すぐうらは海峡の潮が足元まで流れていた。営業室からも往来する外国船が眺められた。

当時、斉藤謙常務、佐藤好文支配人のコンビが三菱銀行から出向して経営に当っておられた。あの昭和二年の経済恐慌にも耐えた内容外観共にしっかりしたものだった。

百十銀行が元三井銀行下関支店跡に昭和八年四月移転して後、山陽百貨店の倉庫になったり、空襲を受けたりして市街区整理で姿を消してしまった。なつかしい思い出の多い建物である。(渡辺)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


すうら

「すうら」は素倉、巣浦、須浦、州浦と四とおりに書かれたようで、岬之町の海岸線または、そこにあった四十物問屋、鮮魚問屋の称でもあった。もっと広く観音崎から西南部の、明治天皇上陸記念碑前にあったえびす社附近までの総称でもあった。

「おい、お前一銭借せえや、おれかたのおとともおかかる、すうらえいっちよるけエ……。帰ったらもどすけン……」、こんなぐわいであった。このよび名は、岬之町ならぬ細江、入江、三百目の住人(主としてすうらに働きに行く者達)が使った。

ここで知られていたのは「すうら祭」で、関の夏祭の幽霊祭についで、盆おどりのさきがけで、亀山夏越祭の当日に催された。男女共、頬かむりして夜あけまで踊ったが、その輪の中におごうはん(問屋の内儀)ねえや(下女)達も参加したことが変り種であった。踊りは比較的上品でリズム感にあふれていたのが特徴であった。(前田)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


水上警察署

詩人広瀬淡窓が「千帆わずかに去り、千帆至る」と下関の港を詠ったが、この中心はなんといっても南部町であった。こうした中心地に、水上の取締をする警察署があった。

はじめは赤間関警察署、西南部町巡査派出所ということであったが、明治三十七年四月から下関は勿論、山口県全海域を担当したものとなり、庁舎も新築することとした。

専念寺から下った海沿いの一角を買収し、その内一部は物品問屋組合から寄附をうけた。それはこの附近がかって赤間関問屋連中の埋立地であったからで専念寺前の坂を下ると、古ぼけた洋館建の庁舎が記憶にある。

署の警ら船としては、いままで使っていた彦島丸を県に戻し新鋭の迅急丸を借りた。また赤間丸、鴻城丸、防長丸と次々に新造して配置した。

その後下関港修築工事の進捗と共に、岬之町の海岸沿いの一角に移転していった。(阿月)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


下商

名池山の坂道の中ほど、今の名陵中学のある所に昔の下商はあった。門をはいって正面から左につづく古びた木造二階建ての本館と教室、それは古い歴史と多くの英才を生んだ誇りを秘めていた。

門の右がわにこれだけは近代的なイギリス風建築の図書館があったが、ふしぎに古い木造とうまく調和して、静かで美しいムードがあった。学生は北海道からも鹿児島からも集っていて名門校たるにふさわしかった。

そのころの学生は軍隊のように皆ゲートルを着けていたが軍隊や他校が新式のカーキ色の巻ゲートルに変えた中で、下商だけは昔のままの白い横ボタン式を変えなかった。それが当時の下商生の一つの誇りでもあったらしい。

この校舎は大正十年に全焼したが、そのあとに建ったバラックの、雨がもり、あられがとびこむ教室で数年間をすごした。バラック建てになっても昔ながらの下商ムードが変らなかったことはもちろんである。(粟屋)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


高等女学校

高尾時代と云えば一昔前、今の南高の前身で「下関市立下関高等女学校」という門札がいかめしく石の門柱に懸っていた。

現在盲学校のある所が旧校舎のあったところ、その頃の感じでは大きな堤の傍を廻り竹薮の前を通り、校門に向う女学生の服装は、元禄袖の和服に、裾に黒ラインが一本入った紫紺の袴を胸高に白足袋、紅緒の日和下駄、左の胸に五葉の桐のメタルを付け、誇らかに通った。

明治中期より大正初期にかけての下関女学生の華と歌われた学校で、早や六十周年を迎えた。当時の校風は実に封建的そのもので、良妻賢母の生産をモットーとし、修学旅行も日帰り、登下校には上級生に頭を下げ、「男女七才にして」を強調し、下商の近くは通ることを厳禁、運動会にも男学生は立入禁止であった。

今は堤は埋り、竹藪も住宅地帯となり、校庭の松林もなく、昔の高尾時代を偲ばせるものは何一つない。(秋本)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


高等小学校

明治二十一年旧市内唯一の高等小学校として創立された。(下関経済年表)当時の校名は赤間関高等小学校、修業年限は四ヶ年、授業料は三〇銭、校舎は城山の文関小学校の上段にあった旧裁判所の建て物であった。

明治三十一年名池山を地ならしして木造二階建ての校舎が新築された。延長一六○間の木さくで囲われた(市議会議事録抜萃)校庭は下関中央部唯一のグランドであった。

明治四十年伊藤公が連れて来られた幼い韓国皇太子の歓迎大運動会が下高、下商の合同で開かれた。来られる時間が遅れて運動会は既に進行していたが、公の鶴の一声でまた開会式よりやり直すということもあった。(多賀先生談)

大正の初期より野球の「下高(下商?)」の名声は天下に轟き、幾多の名選手を輩出した(海老名先生談)

ともあれ、戦後練兵場が一般に開放されるまでは、学校のグランドであると同時に下関市民のグランドであった。(山尾)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)

(注)

下関の学校で野球と言えば「下商」と言われた。


綾羅木かねり

元治元年(一八六四)の十一月五日の朝、何か重い荷物を百姓にかつがせ、綾羅木の松原にさしかかって来た武士の一団があった。足をとめてしばらく相談していたかと思うと砂を掘りその荷物をうめた。荷物というのは中山忠光卿の死体であった。

ちょうどそのころ安岡の方から関へと向っていた、かねりが、この不思議な一団の行動を見て、その口から、何かあったらしいことが関のうわさとなった。しかし、その真相は今日まで謎にみちている。

永富独嘯庵の指導によりその兄、勝原吉太夫が砂糖きびを植えたのもこの浜であった。

今、綾羅木は住宅地として市内でももっとも急速に変貌しつつある。松原も次第に狭くなっている。昔の人が一本一本の松の根元に深く赤土をうめて植えた松の木が惜しげもなく切られている。

「かねり」はいわゆるカンカン部隊となって今日も生きている。(中原)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


練兵場

子供のころ後田に住んでいた私は練兵場もその行動半径の中に入っていた。

国立病院の前、電車通りに近く訓練用の砲がすえてあって、その操作の訓練をする様子をよく見ていたが、兵隊になるのがいやだったのもそのせいかも知れない。

中学校に入ると三月十日の陸軍記念日には市内の中学生の合同の閲兵分列行進があった。ある年一人の将校の馬が狂ってすさまじい勢でかけ出した。のちに営所の築山につき当って死んだと聞いた。

いくらか小遣があると歩いて西の端まで岩波文庫を買いに行った。星一つが二十銭であった。ツルゲネーフの「初恋い」を買ってこの練兵場を歩きながらよんで帰った。帰ったときには薄い一冊をよみ終っていた。

マントを着ていたから寒いときのことであったと思うが寒さの記憶はない。(中原)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


五穀祭

五穀祭は昔は八朔祭として八月一日に行なわれていた。後深草天皇のとき、新稲を神前に供え新穀の豊熟を祝ったのがはじめといわれている。明治末から五月に移され五穀祭となった。

金子文輔の『馬関攘夷従軍記』に元治元年のこの祭のさまが出ていて面白いのでひいてみよう。

「当年は殊に市中各町装飾すと云い阿弥陀寺より新地までは道路ほとんど二里家屋櫛比連櫓にして左右屋上よりは交互あるいは丸太木を亘しその上にござまたはヨシズを張り、またその上に桐油紙を覆い降雨と雖る歩行に便ならしむと云う、その覆の下部には白紙または金銀色の紙で製造せる折鶴あるいは紅白の牡丹または菊花及び桜花の作花等をはさみ、夜は交りるに灯を点ず、また三絃、胡弓、誠から銅線まで持ち出し、且つ打ち且つ跳躍往来左右真に狂するが如し、女にして男装、男にして女装」

――文字通り千態万状、人波は織るごとくはなはだ奇観であった。(中原)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


営所

東駅から複線の電車線路が、今、田中川の左右に分れているあたりから一本になっていて、信号夫の小屋があった。営所はわりに深い溝がとりかこんでいた。

子供ごころには営所の記憶よりは砲台の方が強くのこっている。金比羅山の砲台で実弾射撃があるときなどはすごかった。弾丸が砲の中で爆発してかなりの犠牲者を出したこともあったようだ。

中学生のころ営内宿泊訓練というのがあってしたたかに南京虫にくわれたことがあった。真っ昼間、二棟ほど営舎が焼けたのは昭和十六年のことであったか?大賀山から見ていたら憲兵から追っぱらわれた。

下関重砲兵連隊、略して下重といったが、日清、日露からこんどの第二次大戦にいたるまでたびたび活躍しているが、早川部隊が不落を誇っていたコレヒドール要塞攻略に偉功をたてたことは特筆すべきであろう。

戦争後は昭和三十年一月まで市役所があった。(中原)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)

(注)

昭和20年の空襲で焼失した下関阿部高等技芸女学校なども戦後、一時避難していた。


田中町と林芙美子

林芙美子は明治三十六年十二月三十一日、田中町の槇野というブリキ屋の二階で生まれた、ということになっている。しかし、この十二月三十一日というのは少しおかしい。

『一人の生涯』に「私はほんとうは五月に生れたのだそうです。朝十時頃銀力屋の二階で生れたのださうです。産婆さんもいらないほど、かるいお産だったと、母は云ってゐました」とあるのが本当のように思える。

というのは名池小学校の思い出をかいているのもこの作品だけだが、それが、どうも真実を語っているように思えるからである。

下関で生れた芙美子をつれてその母キクは夫とも別れて各地を転々として芙美子の小学校一年の三学期また下関にまいもどった。五年の時まで下関にいたがその思い出は暗い。

「田中川に水がつかんと梅雨があけん」といわれたどぶくさい田中川のほとりに林芙美子が生まれたということはその一生に深いつながりがあるように思われる。(中原)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


下関花壇(参考)

たまゆらの光の班のゆえ牡丹花も同じき色の沈黙ならず

藤棚の下に猩猩袴ひとりしづかなども萌えるる市中の園

朱き丘の牡丹畑に影ひきて立ちたる君が白き足袋はく

赤埴の上にたまれる水清くあれば覗き来少年少女

涙出でて花壇を少年去りたれど関りもなく白雲は飛ぶ

(前田)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


瓦斯会社

明治四十三年松永安左衛門、福沢桃介並びに地元有志の手で創設されたが、一時西部合同瓦斯株式会社に姿を変え、大正四年二月十八日再び下関瓦斯として資本金五〇万円で分離独立した。

通常このときをもって会社の起りとし、爾来五十年の星霜を経て今日に及んでいる。設立当初の需用家数は一八七九戸で、そのほとんどがガス灯として使用されていた。

ところで大正三年七月に勃発した欧州大戦下におけるガス事業は炭価暴騰等の影響から全国的に極めて困難な経営状態にあり、電灯会社との合併、あるいは解散する小規模瓦斯会社が続出した。このような中にあって下関瓦斯の大正七年六月における決算では純益金一五、 六〇三円三八銭、 配当年八分を計上した。

なお、この年八月米価大暴騰によって各地で米騒動が起っている。しかし九年頃から炭価の下降がみられるとともに業界は小康をえて、いわば堅実な基礎確立の時代に入った。そして、この頃を境としてガスの用途は明りから熱へと移っていくのである。(岩田)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


弁天座

馬関っ児にとって忘れられないのは裏町にあった弁天座だろう。今残っている赤間町中央通り天とらの裏山にある稲荷神社とともに、その弁天座は現在の天とらの前あたりにあった。

その弁天座に芝居がかかると附近の若い連中が夜な夜な稲荷山にあがり、楽屋を眺めるのが当時の楽しみだった。舞台をすまして楽屋に帰った女優が半裸になって化粧をし直す姿をよだれを流して眺めたもので連中はこれを称してナイトショーと云っていた。当時の流行語だった。

夏の夜などアイスクリーム屋が鈴をさかさにして音のしないようにし提灯を消してそのノゾキ連中にアイスクリームを売りに行く程賑った。

しかしそれも弁天座側に知れるところとなり、ある夜道具方が屋根に放光器を据え付け警察に連絡してノゾキ連中が多く集った頃を見計ってバッとスイッチを入れ、稲荷山にタムロしたノゾキ族を警官が取巻いたら逃げるは逃げるは、あとに残された自転車が石段下に数台あった。(義永)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


稲荷町

このあいだ、たまたま石州のある海に近い温泉場に泊ったが、そこの宿の部屋構えから必要以上に広い廊下を見ると、かってはここが港の女郎屋であったろうことにすぐ気づいた。

廊下が広い、といえば花街稲荷町の大坂屋の廊下は美しかった。古格がある、とでもいうか、拭きこんで真黒になった巾広い一枚一枚の板が、暗い電灯にウルシのようににぶく光って妖しいまでになまめかしかった。

若い頃のことである。冬であった。その大坂屋の近所のある料亭で午前一時頃まで飲んだ私が、裏町の車の舎に人力車をたのむと、年老いた車夫がケットンを深かぶかと腰に巻き、ホロをおろして私を家まで送ってくれた。

その途中、老車夫は地下足袋の音も重たげに、自分が酒色に溺れ、ここまで身をおとしたいきさつを訥々と話してくれた。それ以来、私はことごとにその老車夫のひく車に乗ることにした。

稲荷町も今はすっかり昔の姿を消してしまったが、その老車夫とても、まさか今もって生きながらえていようとも考えられない。

石州の温泉街の夜はウルシのように更けていった。(佐藤)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)

(注) 

石州の温泉街とは温泉津(ゆのつ)のことであろう。世界遺産石見銀山の積み出し港でもあり、昔ながらの風情を保っている。地元の老人たちの方言はまさに下関弁と同じで、北前船の航路にある。現在でも、山陰本線または国道9号で行くことが出来る。


亀屋

伊藤左衛門尉盛成は、京都の左衛府の尉をつとめていたが、「承久の乱」に官軍に属し、宇治口の戦に敗れた。これが亀屋の大先代である。これから六年後の嘉暦二年(一三三七)この盛成は長門の目代に左遷された。そこで武士をすてて前田村に隠退し、のち下関に移った。

これより先元亀二年(一五七一) 毛利・大友の合戦で、忠玄という人が毛利方について、門司で戦死しているが、薬屋をはじめたのは、慶長年間(一五九六〜一六一四)といわれ、十五代の喜三郎の時という、さらに貞享四年(一六八七)九月、西之端町へ移った。

亀屋の致新膏は有名で「関の惣嫁にやりたいものは、亀屋の致新骨に竹のへら」と歌われた。

長府・毛利氏から赤間関の大年寄(町の行政責任者)にという命令があったとき、かって毛利氏に助勢した武門の家柄が、町役人とは御免蒙ると拒絶したという。

市制施行第一代市長伊藤房次郎はこの家の人である。(阿月)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


馬閱每日新聞社

大正二年発行の関門錦苑には、西之端町二アリ最新式ノ輪転機ト新活字トヲ以テ六頁ノ新聞紙ヲ夕刊シ社会ノ耳目株式期米ノ木鐸トシテ年中無休ノ努力ヲナシ紙面ハ趣味ト実益ヲ兼ネ関西新聞界ノ盟主ナリ、とある。

大阪の中山太陽堂の苦楽が廃刊になって、川口松太郎、岩田専太郎は東京に引き揚げ、西口紫溟が馬日の編集局長に招かれた。

その紫溟自作の連載小説の挿絵を私が担当し、一週間分づつ纏めて渡すと、前のつるやで洋食とビールを御馳走してくれた。その小説が松竹の正邦宏、三村千代子の共演で映画化されて大評判になった。

おかげで私は東京学芸通信社の新小説、新講談の挿絵や漫画を描くこととなった。四十年余前のことである。西口氏は馬日が廃刊になった後、福岡に移って博多春秋を発刊、これは大成功した。

なおその頃の馬日の主筆は有名な俳人弁護士兼崎地橙孫氏であり、郷土史家藤村直氏も同社の記者出身である。(今井)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


市役所

現市庁舎と消防署の間に「関在番役所址」の碑が立っているが、明治二十二年市制を布くとここを庁舎にした。

第七代白上市長は、県下第一の市がこんな庁舎ではいけぬと、明治四十一年五月、隣接地四十三坪を買収して、木造二階建洋風のものを建設した。入口の石段を数段登ると、右側に市金庫、右側は二階への階段、正面は戸籍だったと記憶している。

昭和十二年十二月、名池坂の上り口附近にあった宿直室附近から出火し、庁舎の半分を焼失した。そこで時の松井市長は、新庁舎の建設を計画し、背後の城山を崩して建てようとしたが日華事変に突入したときでもあり、当分辛棒ということで、現在の水道局のある場所に仮庁舎を建てた。

この仮庁舎も、昭和二十年の戦災で全焼し、商工会議所から王江小学校、さらに七十四部隊兵舎跡とわたり歩き、昭和二十九年十月、ぜいたくだといわれながら現庁舎へ落着いた。(阿月)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


取引所

赤間関が北前船の寄港地としてにぎわいはじめたのは寛文のころからといわれている。

それが「出船千艘、入船干艘」とうたわれるようになり近松門左衛門「小判走れば銀が飛ぶ、金色世界るかくやあらん」といった。

北前船の主な荷はいうまでもなく米で、米の取引ではわが国の三大市場の一つであった。

明治九年下関米会所ができ、米せり売市場、米商会所、米会所、諸荷物会所、正米会所などと名称を変えたが明治二十六年取引所法が公布されたので株式会社赤間関米穀取引所となり、初代理事長は豊永長吉であった。

平林たい子もその作品の中に相場師の姿をいきいきと書いているが米相場にまつわる話はいろいろあり、とくに場外で取引するもぐり業者はいくつかの悲劇を生んだ。

明治三十九年頃建てられたという洋館建ても戦災にはたまらずドームの鉄骨と赤レンガをのこしていたがそれも一昨年整理されてしまった。(中原)

(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)

(注)

空襲で焼失するまで、西隣に市役所、田中川を挟んで東隣の西之端町に馬関毎日新聞社や亀屋があった。



寿館


俺は川原の枯すすき、同じお前も枯すすき、どうせ二人はこの世では、花の咲かない枯すすきの唄で一世を風靡した松竹蒲田の船頭小唄が、赤間町の寿館に上映されてからもう四十年に近い。


当時日本の恋人と謳われた栗島すみ子の主演で、後に東亜キネマの映画監督になった野村雅廷の名調子の説明、これも野崎小唄で一躍日本有数の作曲家になった大村能章の音楽と揃い全市民の老若男女を熱狂させた。


それと前後して近くのいろは館も、帝キネ沢蘭子の出るに出られぬ籠の鳥を、小学生に歌を歌わして旗行列の市中行進をさすなどと無茶苦茶な宣伝をして、無茶苦茶な大入をせしめた。この頃だったら大問題になったろう。


寿館は第一次世界戦争の船成金久富久吉氏が赤間御殿を建てた余勢を駆って、その御殿下の東館が焼けた跡に、当時中国一という豪華な映画館を建てたものである。


戦災後は、その敷地に若草劇場が出来た。(今井)


(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)



伊勢安


伊勢安といえば馬関きっての呉服屋のシニセで今更私がこまごまとその歴史を説くまでもないが、私の今の思い出としてはその呉服屋の伊勢安ではなく、むしろ、あの二階に、河村幸次郎さんが集めていたさまざまなコレクションであった。


コケシがあった。南方民具があった。オルゴールがあった。錦絵があった。そして、それがおのおの切り離してみても立派なコレクションであった。近藤浩一路の絵を見たのもその二階であった。橋本関雪の絵はいやほど見せられた。松田青風の隈取の絵は軸物にして十数本はあった。


そして話好きな河村さんが機関銃のような早口で、ヘレンケラーのはなし、石井漠のはなし、辻久子のはなし、石井好子のはなしなどがつぎつぎについて出た。河村さんはまだ東京で健在だから、聞けば当時のはなしはつきまい。


しかし、折角のあのコレクションは戦災で灰と化し、今更見せてもらうわけにはいかない。これは、伊勢安呉服店が関から姿を消した以上に、私には大きな痛手である。(佐藤)


(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)



唐戸のしら瀧


白い土蔵造りの建物、正面の縄のれんをおし分けてはいると何となしにあたたかいふんいきがただよっている、大正末期の唐戸のしら滝である。


端麗な顔立ちに髪すじ一つこぼさない大丸まげのマダムが、ニコリともせずに軽くエシャクする。ニコリともしない所にふしぎにこのマダムの美しさがあった。


よくふきこまれたカウンター、酒たるのこしかけ、そして酒は「金だる」が十五銭「銀だる」が十銭で、勤め帰りのしらえでの一ぱいが、オーバーにいえばそのころの生きがいであったといえなくもなかった。


カウンターに酒を冷やす装置をして、下関で始めての冷酒をのましてくれたのもこのしら滝であったが、ま夏でも熱かんを愛用する人がずいぶん多かった。


やはり、かん酒のしら滝というムードをこのむ人が多かったせいだろう。あのころのしら滝をなつかしむ酒徒は下関にはまだたくさんいるはずである。(粟屋)


(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)



領事館


元治元年の四国連合艦隊の下関攻撃の際、通訳であった、のちの駐日英国公使、アーネスト・サトウはその当時から下関に対してきわめて適確な判断を下しており、一九〇六年(明治三十九年)唐戸に英国領事館がおかれたのも彼の建言によるものである。


最近、この建物が日本の初期の洋式建築に大きい足跡を残している英国人建築家アレクサンダー・ネルソン・ハンセルの設計によるものであることがわかって、この建物に対する再認識がなされた。


明治の三十年代は下関の歴史にとっての一つの山である。そして、この赤レンガの建物はその時代の一つの象徴ということができよう。


唐戸は変貌を続ける。今また大きく変ろうとしている。それは唐戸の底力を物語るものである。(中原)


(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)



バナナ 市場


唐戸中央市場の亀山宮寄りで屋上がお宮の境内である一画に大正から昭和初頭にかけて通称バナナ市場があった。


宮の海岸正面鳥居を西に町家数軒おいて、西南石崖角までの間に二階建長屋十六世帯が向い合って街路をなし、路上には双方の家並の階下野上から木造こけら葺の今でいうアーケードが造られてあって、市場と称していた。


全世帯のうち大きな潜水服が店頭にたてかけてあった海事業と、西の入口角に平家蟹の看板が一きわ目立った土産物店の二軒を除いて全部がバナナ、果物の問屋で、どの家にも追熟地下室があり、台湾航路の入船日は青バナナの山でごったがえす殷賑さであった。


街路頭上は市場の建物におおわれて、天気の日は日影となり雨の日も傘なしで商売出来るから、両側の問屋さんも卸売をするほかにバナナを戸板に並べて街路に出し、百匁三銭や五銭と値札をつけて小売りもした。


そんな気安さから市民に亀山のバナナ市場と親しまれた。(今村)


(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)



能舞台


このごろは女性師範もふえて、御婦人だけの能楽会も行われるようになったが、昭和三十年ごろまでは女の人は能舞台に上れないしきたりがあった。


特に神事能は故実が厳格に伝承せられ、見所も藩主以下目付役、大年寄、小年寄と座席が定められ、催能中は小用に立つことも慎しまねばならなかった。


この能舞台も戦災で焼け現在亀山保育園で催能されているが、この保育園のところに鶴が飼われており、藤だながあり、その下に茶店があって、飲みもの、お菓子、鳩のえさ、亀の子を売り、いこいの場所であった。


さて、この能舞台は元禄のころ毛利綱元藩主によって建てられたもので、その由縁は綱元藩主が周防灘で難風に遭い危かったとき波上に亀山の翁が浮かび、その導きのまにまに舵をとり危難を脱した。その奉賛のために建てられたもので、この翁の面は藩祖秀元公が亀山の宮に寄進され、今も伝えられている由緒の面である。(竹中)


(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)



亀山の浜


この浜は明治、大正ッ子の絶好の海水浴場で、ヘサキから飛び込みをやったり、義経の八艘とびならぬ舟底をくぐりぬけたり、十五銭でボートに乘り沖へ出すぎて水上警察に追っかけられ、お宮に馳けあがって手水鉢の中で体を洗っておこられた思い出の浜である。


このあたり、古くから山陽道ならびに九州渡航の起点で、道先あるいは堂崎と呼ばれ渡船場があり、 現在大鳥居の傍に山陽道の碑が残されている。 この碑文のうらに、明治十一年九月渡船場新築山口県と記されている。


これ以前に船番所があり津口御番所といわれ、船中の人数、切手を見調べる所であった。安永八年の毛利伊織の書状に「拙者儀宿願に付筑紫宰府江御岐に而上下五人罷越候間津口御番所跡過之沙汰頼人候」とあり、舟をよぶ外浜の渡に夜ふけてこたふる声は千鳥なりけり、の風情を伝えたところ。


昭和の再度の埋立で門前市をなし現在の唐戸市場が出来た。(竹中)


(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)



引接寺


外浜町にある引接寺は、知恩院の末寺で、浄土宗鎮西派、はじめは門司の黒田村にあったが永禄三年(一五六〇)忠誉一徳上人が、亀山の麓に移し、その後慶長三年(一五九八)三月、三世来誉是生上人のとき、現在地に移った。


この時小早川秀秋は再建の施主隆景の菩提を葬うため、五重の石塔を建て、公の遺髪を納めた。その後小早川の一族藤堂佐渡守も、公の菩提を葬うため宝塔を寄進した。


『馬関土産』に「境内一五七六坪、内に本堂(九間・四間)釈迦堂、大方丈の建物あり、前庭には一樹の笠松、枝葉四方に延びて方数十歩の地面を覆い、形青織をはりたる如し」と。いまは戦災をうけてその面影はない。


明治二十八年三月十九日、祐礼、公儀の二艦で下関へ入港した清国講和使李鴻章一行は、この寺を宿とした。二十四日李鴻章は、談判場からの帰途、この宿舎に入る街角で、小山豊太郎に狙撃され大騒動となった。(阿月)


(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)



春帆楼


兎に角、春帆楼といえば書くことが多い。明治元勲と春帆楼。名妓須磨子と春帆楼。ふくと春帆楼。――  しかし、なんといっても春帆楼といえば日清講和談判を思い起す。もうあれから七十年は経った。


明治二十八年三月二十四日、清国全権大臣李鴻章は春帆楼で三回目の講和会議のあと、宿舎引接寺に引き揚げる際、外浜町の角で小山豊太郎に狙撃された。朝野は転倒した。しかし、幸い傷は軽く、破局の危機もどうにか乘り切って講和は四月十七日無事締結した。


私が子供のとき、毎年四月十七日の講和記念日になると、春帆楼の二階に、往時そのままの調度をならべた談判場を見に行ったものだ。(佐藤)


(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)



赤間神宮


豊浦郡豊田町地吉に「安徳天皇御陵墓伝説地」というのがあるが、そのすぐそばに「天皇様」というバス停がある。市内阿弥陀寺町の赤間神宮は、私が小さいときは大抵「天皇さん」と呼んでいた。それは私だけでなく、当時の関の人々はなにか幼帝「天皇さん」に親しみを持っていたのであろう。


また、毎年四月二十四日に行われる先帝祭の「女郎道中」。これも例の売春防止法が布かれる前まではズッと「女郎道中」でとおっていた。女郎は兎角職業的に一般に卑下され勝ちであったが、道中で天皇さんにおまいりする女郎だけにはとくに「お女郎さん」と呼んだ。天皇さんにお女郎さんを見にいこう。こういって親にせがんだあの頃はほんとうに懐かしい。


赤間神宮も今は立派に建て変ったが、それはそれでまことに結構としても、しかし、「天皇さん」という言葉が「お女郎さん」とともにこの町から消えてしまったのは淋しい。(佐藤)


(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)



阿弥陀寺町魚市場


唐戸に魚市場が出来るまでは、魚市の中心は阿弥陀寺町の魚市場で行われていた。したがって、この町には魚屋が多く集っていた。魚市場は現在の極楽寺と鎮守八幡宮との中ほどにあり、木造瓦葺で、表の方は二階建てで市場の請負者が住居していた。


市場の裏は石段を下ると海につづき、市場には一段と高い競り台があり、そのうしろで威勢のよい声が符丁をもって叫んでいた。競り台の回りには筒袖の仲買人達が幾重にもこれを取り囲み、喧々喜々、殷賑をきわめたもので、魚市は夜の暗いうちに始まり市場附近の路傍には魚屋が店をならべて、朝のうちはごったがえしていた。


ここに集る魚は舟で運んでくるものが多く近郷の沿岸漁村をはじめ遠く豊後の姫島あたりよりも盛んにやって来た。市場の裏は、いつもこれらの漁船でひしめきあっていた。


五十年前の阿弥陀寺の町は、魚市から夜の明けた町で活気にあふれた町であった。(山形)


(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)


(彦島のけしきより)