ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会、天然記念物石柱渓と高島北海 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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山崎敏一さんの手記

山崎さんが貴重な手記を残しておられるのでその手記にそって述べてみよう。

大正13年11月、北海画伯は石柱渓の道路がどうにもならない状態なので、その改修調査などで原土木技手や野上町長とともにこられ、1泊のうえ19日、長府へ帰られたとある。

翌年4月30日、道路開発にとりかかったようで、

「北海先生石柱渓道路開発に付、原技手とともに来られ、工事の都合を授けられ、翌五月一日には田代(於福村)菱形水源地調査、其帰途石柱渓道路工事に取り掛かりたるを視察、翌二日帰長せらる」

とたんねんにしるされている。

「五月八日、原技手は橋並難工事に付、入札の件心配せられ、翌九日帰長」

大正14年5月3日、二瀬の森(これは石柱渓の入口の森で二瀬神社跡地、通称は婆が森といっている)で、石柱渓工事落成式を挙行、余興に子供相撲や福引などを行なったとある。

「六月二十三日、於福駅より自動車にて北海画伯羽村豐浦郡長、高橋美称郡長、於福阿野村長等石柱渓視察し来られ、両郡長非常に激賞せられ、美祢郡長は昼食後滝より自動車にて帰られ、先生と羽村郡長は立寄られ休憩後同日帰長」

「六月二十八日、山口工業試験場長安成一雄氏石柱渓を探勝さる」

「七月二日、北海画伯山口藤井写真師を連れ撮影翌三日、午後帰らる」

「七月七日、活動写真師を招き宣伝の為撮影」

「十月二十四日、美祢郡十三か町村長探勝に来らる」

「十一月八日、内務省嘱託三好博士、県庁岩根又重(このかたは、天然記念物考査委員という役目をもった人)、 羽村郡長などを北海画伯石柱渓予備調査の為、同伴入渓せられ、同日自動車にて帰らる」

「十一月三十日、北海画伯は内務属佐々木安五郎氏同伴、自動車にて御来渓、直ちに帰長せらる」

「大正十五年一月二日、北海画伯は内務省嘱託佐藤博士並に同御令息、原技手同伴の上午前十一時自動車にて来られ、昼食の後石柱渓調査の為入渓せられ、一泊の上午前十時駕籠にて(先生と博士)郷の原まで帰られ、それより自動車にて博士は深川へ、先生は帰長せらる」

「一月十九日、二十日両日、県庁岩根又重氏は石柱渓指定要求材料蒐集せらる」

以上のように、丹念に山崎敏一さんが書き残されていて、当時の骨をおられた様子をありありとうかがうことができる。

(ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会)


経費のねん出

石柱渓を国の「天然記念物」として指定を受けようとするためには、地元としてどれだけの準備なり運動が必要かということはよくわかる。当時の豊浦郡長が動かされ、その郡長が直接現地を踏査されていることでもわかる。

というのも、その裏には、こうした面で国を動かすだけの実力をもっておられる北海画伯が、強力に推進されたことも大きな影響を与えている。その北海画伯は、単なる画家ではなく、森林、地質にかけて国際的に名のとおっている人物であるからである。本県でただ1人の天然記念物考査委員の岩根又重さんも、たびたび足を運んでおられる。

ここで、すこし話をもどしてみることにする。さて、石柱渓は天然記念物にも指定される地形だが、なにぶん当時は、探勝するにも道がなく、こうした開発に頭を悩ましたものである。

当時、若干のことは、町も予算に計上したと思うが、すべてを町に負担してもらうわけにもいかず、その経費捻出の一方法として、北海画伯の画会を設けた。画会というのは、絵を買ってもらいその金をもってこれにあてるのである。

このとき一般に配った趣意書があるので、原文のまま紹介してみる。

【石柱渓画会趣意書】

石柱渓は山口県西市町字台にあり、本年四月、高島北海画伯と本郡長羽村利刀氏、実査を受し処北海画伯は其奇景を激賞し石柱渓四十八滝と命名す。

此地は石英斑岩の柱状結晶をなすもの幾万となく群束して直立し、渓流其間を曲折し(省略)奇景名状すべからず。

唯むらくは二、三年前此地を発見せし為め来た探勝の通路なく之を世間に紹介するを得ず、北海画伯は痛く之を遺憾とし、左記の規定に依りて画会を作り、其全収金額を挙て本会に寄附し道路新開の費用に提供せらるべし。

大方の諸士は奮て此義挙を賛助せられ此未知の奇景をして、遍く天下に宣伝するに至らしめんこと懇請の至に御座候 敬白

大正十三年十一月
石柱渓保勝会長 西市町長野上完一
同会理事 山崎敏一
顧問豐浦郡長 羽村利刀

規定
一、寄付画 小画仙半切
一、右揮毫者 高島北海 右画題 石柱渓又普通山水
一、壱枚に対し金五拾円とす 但一人二口以上申込差支なし

このようにして、深勝道の経費捻出の一方法として北海画伯に絵を描いていただき、それを希望者にわけ、その収益金で道をつくったり、橋をかけたりした。それにしても、北海画伯の絵が1枚50円。現在の日展審査員という画家として最高の地位にあるかたの作品が50円だから安いわけである。大正12年ごろは、米1俵が4円から5円だから3俵から4俵分ということになる。

しかし、この地方では当時、画幅などを描いてもらって床の間を飾るといった家もきわめて少なかったのであろう。どの程度売りさばかれたのかわからないが、当地方で若干北海画伯の絵に接することがあるが、そうした企画に賛助されたときのものと思われる。現在だと、日展審査員級の絵といえば、何十万円何百万円。

当時とくらべると、一般のかたの考え方やこうした物の見方もたいへん進んできたといえる。台の山崎さんのお宅に保存されている資料に、たいへん興味のある書面があるので紹介してみよう。

拝啓 旧冬来の寒気強烈の處御清健可被為在欣賀之至りに御座候。小生ハ此寒気ハ非常に身体にさわり大いに閉口致居候。陳者別紙之如き記事防長新聞にも馬関新聞にも出て居候處、如何なる事実に候哉真相承り置度候間何分之御回答奉待候。兎に角懸念の至りに付、野上町長へも今朝問合せ置候次第に御座候。

草々拝具
二月十六日
高島北海
山崎敏一殿

この手紙が、台のお医者さん山崎先生宛にだされている。

(ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会)


北海の心づかい

手紙とあわせて、右の両新聞に掲載された切りぬきが添えられていた。「石柱渓保存、町当局補助申請を等閑に附す」という見出しで、内容は次のようになっている。

「昨年8月23日保存会によって指定された干珠・満珠・青海島・石柱渓・御幸松の内、青海島及び御幸松は内務省に対し管理施設の補助申請をし、干珠満珠も目下その手続き中であるのに、ひとり石柱渓だけは県当局の注意を受けてもその手続きをしないので、折角指定された石柱渓は西市町の宝であり、この管理の責任は同町がおわなければならないのにもかかわらず放任していることは、町当局の怠慢であり、もらえる補助金500円を棒に振らなければならないと、町当局を非難するものがある。」

町当局が石柱渓保存のため、補助申請を等閑に附して(なおざりにする)いることが新聞に掲載されていたが、どういうことだろうか、事実だろうか、真相が知りたいので、なにぶんのご返事をお待ちする、との照会の手紙が、北海画伯から台の山崎敬一さんにだされている。しかし、この件がどういう始末になったかは、わかっていない。

石柱渓が国の指定を受けたのが、大正15年10月20日となっている。翌年の5月5日に北海画伯から山崎敏一さんにあてられた手紙が、保存されている。

西市町で豊浦郡内の町村長の会合があった。そのころの町村は31だった。その時、西市町長の野上完一さんが、石柱渓の保勝会をつくり、それに各町村の加入を勧誘するとの話がもちあがっていたようである。このことに対して北海画伯は意見がちがうので、野上町長あてに書き送ったことを手紙の中に書いておられる。

「保勝会というものは名勝地たるべき場所を政府がなんら指定しない、かまわない場合に、地元の人びとがこれを管理保護するためにもうけるものであります。

長門峡についてもはじめは保勝会をつくって、地元で保護管理していましたが、名勝となったうえは法規上、名勝管理組合をもうけ、地元町村人が保護管理にあたるもので、保勝会を廃止してその事務を管理組合にひき渡しています。

だから、石柱渓も名勝となったので、すみやかに管理組合を西市町民だけで組織する準備こそ急務であります。しかしながらこのことを閑却(なおざりにする)して、無関係な他の町村長を保勝会に勧誘するというのは、筋違いのことであります。

西市町民の人心をまとめて、管理組合を成立させることが困難であれば、このさい、すみやかに名勝天然記念物の指定を解除する方が得策でしょう。その時は、小生(北海画伯)がすぐにその筋へとりつぎいたします。

本来、名勝は国家的永久的なものであります。一町村、一個人、一時的な利害のために拘束されて、大事を誤るべきものではありません。」

右の書類を野上町長に書き送ったので、貴兄(山崎さん)にもそのつもりで、地元、とくに台の人びとの心をまとめ、いっそうのご尽力を切望します。北海画伯は、こうしたやかましい書面をだされ、たいへんな心づかいで心配されていたのである。

この石柱渓が国の天然記念物として指定を受けるまでには、地元の西市町はもちろん、豊浦郡役所、山口県といった行政機関も力をいれているが、陰の人として、台のお医者さん山崎敏一さんの尽力はたいへんなものであった。同家に残されている記録でもよくわかる。

それに加えて、高島北海という地質学や森林・山岳の日本的権威者の積極的な尽力があったことは言うまでもない。北海画伯のことについては、くわしく述べてきたところだが、画家としてもわが国最高の地位にあった人物である。

明治41年第2回文展(文部省美術展覧会)の審査官名簿を見ると、高島北海以下、寺崎広葉、小堀鞆音、荒木十畝、竹内栖鳳、菊地芳文、山元春挙、下村観山、横山大観、川合玉堂とならんでいて、今日からみると、明治・大正の日本絵画史をみているような壮観な画家群で、北海画伯の当時の画壇での位置を示すものといえる。

(ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会)


北海の顕彰碑

くどいようだが、高島北海画伯と石柱渓は深い深い関係にあったわけである。昭51年で石柱渓が開発されて50年になったので「石柱渓を愛する会」(千葉文彦会長)では、北海画伯の顕彰碑を建てることを発起された。

町内外の有志に呼びかけ、多数のかたがたのご援助により完成し、同年11月28日に除幕式が渓の入口顕彰碑前で挙行されたのである。その顕彰碑は自然石を三角型に積みあげたものでアルプスのケルン(山の道しるべ)にちなんで製作されたものである。

というのは、北海画伯が19世紀に欧州のアルプス米国のロッキー山脈を踏査して作品を世に問い、世界最初の山岳画家として名をなした人であったのでこうしためずらしい型の顕彰碑になったのである。

この顕彰碑建設は、北海画伯の女婿、下関市出身で東京在住の河村幸次郎さんの物心両面にわたるご協力があったおかげで、順調に進んだわけである。

現在は、町をあげて石柱渓の保存に力をいれているが、特に千葉文彦氏を会長とする「石柱渓を愛する会」も尽力されており、加えて一般町民の渓に対する積極的な関心を希求する次第である。

(ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会)

(彦島のけしきより)