海峡の町有情 下関手さぐり日記、国際都市、商業都市、門前町 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

領事館 唐戸の盛衰とともに

「午後であった。太陽が海峡の向う側にまわって、街の上に夕暮れの色が落ちはじめたころ、前田村の方から遠い砲声がひびいた。続いて長府、杉谷、壇之浦、彦島の台場に煙があがって街と海峡の上に不吉な音波をひろげた。街は瞬間沈黙した。人々は酔っぱらった顔を見合わせた。そして、砲声が黒船の来襲を警告する合図であることを理解すると、狂人のようにあわてはじめた。祭礼の騒ぎが、避難の混乱にかわった。人々は仮装をおとし晴れ衣をかえる暇もなかった」(林房雄「青年」より)

元治元年(一八五四)八月四日夕、英米仏蘭の四国連合艦隊十八隻が海峡に到着、翌日から三日間、下関側は必死の防戦につとめたが負け戦だった。このとき、若き日のアーネスト·サトウが通訳官として艦に乗組んでいた。まさか後になってこの親日家が下関に影響を持つようになろうとは、おそらく誰一人として予想だにしなかったであろう。

のちに駐日英国大使となったサトウは明治三十二年、関門両港出入りのイギリス船が四百三十隻にものぼっていると本国に報告、下関には将来領事館ほ置くべきであると進言したのである。のちに駐日英国大使となったサトウはこの報告の中で「関門両市の距離は汽船で約20分。狭い海峡を隔てて相対し、両地とも税関はあるが、一つの港を形づくりしかも両市で合併を促進しようとする機運にある」と、きわめて興味深い意見を述べ、領事館の必要性を説いている。

これがきっかけとなって明治三十四年、赤間町に領事館(仮事務所)が開かれ、西南部町の瓜生商会の二階に移るなどした後、三十九年に唐戸の現在地が市から提供され、赤レンガの洋館が建てられたのである。設計者は日本の初期洋式建築に大きな足跡き残しているアレクサンダー·ネルソン·ハンセルであった。

明治-大正にかけて、下関では他にオーストリア、ハンガリー、ドイツ、ポルトガルの領事務もとられていた。ドイツ領事館は明治四十一年から二年間、城山の市有建物を借り切っていたほど。地方にあって、まさしく国際都市であるが、英国領事館はその国際都市·下関の一つのシンボルでもあった。

第二次大戦に突入してからは領事館事務は事実上停止したが、地上権や建物はそのまま。これが愛国心強き市民の反感をかって、領事館に市民が押しかけるという騒ぎまであった。終戦後、イギリスとの国交も回復したが、領事館は閉鎖状態が続き、昭和二十八年、レンガ造り二階建て320平方メートルの本館と、木造平屋66平方メートルをそっくり市が買収、赤レンガ造りの歴史的建物は市有財産となったのである。

現在、考古館として歴史考古資料が展示されているが、一部内装をしたくらいで、外観はほとんど明治時代に建てた当時のまま。一時は建物の存在が唐戸開発のジャマになると論議を呼んだこともあったが、今では逆にこの由緒ある建物こそ唐戸に欠かせぬものだと、保存の方針が打出されている。

前方の海は埋立てられて国道になるなど、領事館の周辺は激変した。この中にあって、色あせ赤茶けたレンガだけがその移りかわりを静観、歴史の重みを伝えてきた。唐戸の大がかりな再開発が始動しかけているが、おそらく十年がかりの大事業が終わって唐戸が驚くばかりの変貌をとげたとしても、この赤レンガの洋館だけは、今のままの形で静かに在ることだろう。

そこにこの建物の大きな価値を改めて思いしらされる気がするのである。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



下関駅 日本の動き駅頭に

明治三十四年五月二十四日、山陽鉄道が開通、細江埋立地に馬関駅が開業した。当日は近郊から集まった人で駅前は黒山の人だかり。万国旗も張りめぐらされた。市民にとっては初めて目にする「陸蒸気」「来てみやれ山陽鉄道へ、丘の上を船が走る」という唄がはやったほどだった。のちになって馬関小唄に「開けたね開けたね、築港にステンション、新地に招魂場」とうたわれたことも付記しておこう。

山陽鉄道の開通に伴って山陽ホテルもオープンしたが、駅やホテルの重要性は、駅裏に発着場があった関釜連絡船ゆえのものだった。大陸への玄関口としての役割である。明治三十六年六月には赤間関市から下関市に改称されたのに伴って駅も「下関駅」に。

この駅が一番賑わったのは戦争が激しくなった昭和十五、六年ごろだった。山陽ホテルに新聞記者詰め所、今でいう記者クラブもあったが、列車でどんな高官がやってくるか…    各記者はし烈な取材合戦をこの駅頭でくり広げた。当時、全国紙のカメラマンとして約二年間ここで仕事をした有光千次さん=下関市吉見が、その取材のすさまじさを話してくれた。

「そりゃひどかった。何しろここに詰める記者は各社でもはえぬき。誰が大陸に行ったか、それだけで大きなニュースとなり、日本の動きがここに張っていればわかるといっても過言ではなかった。記者もお互い牽制し合いまして、その特ダネ合戦たるやひどいものでした」

エピソードも多い。その一つ。「当時電気フラッシュが使われてましたが、特ダネには写真がつきもの。ところがフラッシュをたくと光って気づかれる。それでは特ダネになりません。で、どうしたかというと、ある高官が大陸から帰ったのに気づいたとき、事前に記者が取材だけを終え、写真は列車に乗込み、発車と同時に写すんです。プラットホームの記者はその光に何だ?とあわてるがもう列車は動き出してます。私は列車が徐行している間にホームに飛び降りるというわけです。一度そのタイミングを逃して小郡までそのまま乗って行ったこともありました」今と違って、当時の下関から小郡間は遠かった。

いずれにしても、それほど重要な駅だっただけに文学作品にも数多く登場している。阿川弘之「春の城」井伏鱒二「集金旅行」苗岡久利「色の衣裳」里見弴「満支一見」土村伸「彷徨」と、数えあげればきりがないくらいだ。

昭和十七年十一月十四日、関門トンネル開通と同時に、細江の駅では不便だと駅は竹崎埋立地の現在地に移った。当時町の中心からはずれていた竹崎町付近は、これをきっかけに市の中心部としての活動を開始したのである。

ちなみに、下関駅の乗車人員(降車客除く)の1日平均の数の推移をみると、昭和元年が三千五百人、駅の移った十七年が一万二千六百人。ピークは四十五年の二万八百人で、昨年は一万九千人弱といったところ。人口増、行動範囲の拡がりといった要素を考えるとき、いかに昭和十七年当時の乗降客が多かったか、改めて思い知らされるようである。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



山陽ホテル あこがれの紺の制服

明治末から大正、昭和の初めにかけて、下関が全国に誇れる顔の一つに山陽ホテルがあった。今、細江町の下関警察署斜め前にある広鉄局下関出張所がその名残りをとどめる建物である。

横光利一も未完の作「旅愁」の中でこのホテルをとりあげている。「彼(矢代)は山陽ホテルで休息している間に東京の自宅へ電報を打った。そのついでに千鶴子へも打とうかと暫く茶を飲みながら考えたが、やはりそれだけは思い止まった。関門海峡の両側の灯が、あたりに人の満ち溢れている凄じさで海に迫っていた」

当時の金で五万一千円をかけて明治三十五年、建設された。旧駅前で、いわば駅前豪華ホテルだった。下関に初めて鉄道が開通した翌年で、山陽鉄道が建設(明治三十九年三月に国鉄買収)。ちょうど赤間関から下関市に名称変更、下関が一大飛躍をというムードにあったころだった。

モダンな洋館二階建て。落着きがあり、前庭に植えられたヒマラヤ杉が建物にとても良くマッチしていたという。大陸への中継地。休憩、宿泊の場所だっただけに、いつの間にか国際的宿舎となったが、注目すべきはここで働く従業員。何しろ、山陽ホテル従業員になれるのを誇りとしていたくらいだから、器量よしが多く、着物、袴という紺色の制服姿は馬関っ子のあこがれの的となり,随分騒がれたものだった。余談になるが、下関の社長さんクラスのご夫人の中には、当時の従業員だった人も多いとか。

ホテル利用客の大半は関釜連絡船で大陸に足を踏み入れた皇族、高官らだった。戦争の激化とともに賑わったが、全国有力紙の新聞記者もここで張っていれば高官の動きが一目瞭然とばかり、いわゆるやり手記者が集まっていた。

途中、大正十一年七月二十六日、漏電から火が出て焼失、十三年四月に再建(三階建てに)されるまでは日和山中腹の鉄道クラブで仮営業していた。昭和に入って十七年。駅が細江から竹崎の現在地に移転したのに伴って豪華ホテルはその役割を終えこの年の暮れ、広島鉄道管理 管理部があとに入った。二十年七月の戦災で外壁を残し焼けたが、今も外容はそのままだ。

六、七年前に下関出張所の閉鎖案が打出されたとき、地元から猛烈な反対運動が起こり、結局国鉄も出張所を存続させざるを得なくなったことがある。この反対の声も、かつて下関が隆盛 たころのシンボルを消すまいとの市民の心情が背景にあった、と見る人は多い。

冒頭にも紹介したが、数多くの小説、随想の中に登場した山陽ホテルも、最近とみに多くなった韓国作家による関釜連絡船にまつわる作品の中には不思議に出てこないこの人たちにとっては、何のなじみもないホテルだったのだ。豪華さをうたった山陽ホテルの役割とはいったい何だったのか…海峡を行き交う船の汽笛にも似た寂寥感がふっと胸をよぎった。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



彦島町役場 明るみに出た関彦合併史

彦島町役場は今の彦島本村、下関信用金庫本村支店のところにあった。写真にある町役場は明治四十二年に建てられたもので、木造二階建て、面積はざっと三百平方メートル。

彦島はもともとは長府毛利藩主の所領だったが、明治維新後廃藩置県とともに豊浦郡下に。明治十六年赤間関区に編入、同十九年には直轄となったが、赤間関市が市制をしいた明治二十二年には再び豊浦郡管理となり、彦島、六連、竹ノ子島を合わせ彦島村となった。ところが明治三十二年、全島が国防上の重要性在有するとして下関要塞地帯に編入されたりした後、大正に入って十年、彦島町となった。その後、関門地方の工業地帯として発展、また内務省の埋立地完成利用や下関漁港計画の具体化なども手伝って昭和八年三月二十日、下関と彦島は正式に合併した。

早くから「いつかは一緒になるもの」とされていたものの、いったん別れたもの同士、現実には予想以上に難しかったようで、昭和八年刊行の「栄える彦島」によると、合併議案を午前十時に町会へ上程、審議がすべて終り、全員起立して拍手.原案を可決したのは実に午後十一時であったという。関彦合併についてはいろいろな見方があるが、彦島の動きをじっと見続けてきた彦島八幡宮の柴田八十二宮司の「だまされた合併話」はおもしろいだけでなく、なかなか説得力のある合併史論である。

「戦争の激化で、海軍の艦隊も大型化される。その艦隊が日本海へ向うのには関門が一番の近道だ。これを鹿児島まで回っていては大変。ところが関門の水深は10mそこそこ。13mにまでは深くしなきゃならん。そこでしゅんせつが始まったが、海底の泥をどこに捨てるか…。まず、門司の名が出たが、門司は世界の窓口になどと張切っていたころだったからこの話にカンカンになった。天下の窓口に泥を捨てるたぁ何事だ!というわけですよ」

「そこで下関にとなったが、下関もメンツがある。門司がイヤがるものをなぜ下関が引き受けなきゃならんのかってわけですよ。そこで出てきたのが彦島だった。昔から彦島は下関にいいように利用され続けてきたが、そのときも然り。当時の彦島といったら、ショウガとイモ以外には何もできないところ。貧乏な島でしたね。今、泥の捨て場を引受けると金一封がもらえ、しかも領土も増える、といった調子で、何なく引受けてしまったんです」

「サァー広い埋立地ができた。地名は本村地先埋立用地。大和町なんてしゃれた名がついてますけどね。これがいざできてみると、下関の連中はほしくってたまらない。大和町を彦島からとらにゃ漁港もできん、サーどうするか、というので、出てきたのが合併話」

「彦島も弱いところがあったんです。工場がたくさんできて発展したが、いかんせん工業用水がない。この泣きどころの水を下関はついてきたんです。つまり、合併したら上水道を敷こうと…。工場は合併促進派だし、そこで働く従業員も多いでしょ。そんな家庭は、子どもが会社から金もらってるし、合併に反対できませんと、結局、合併に流れていったんですよ」

ちなみに、大和町の名は、埋立てが大正から昭和にかけて行われたため「大」と「和」をとってくっつけてできたという説がある。合併の二大条件の一つに「上水道の彦島町配給は遅くとも昭和九年度内に施設完成」というのがあり、これは確実に実行された。

もう一つの条件に下関-彦島連絡海底トンネルを漁港付帯工事の水門と一緒に完成させる、というのがあったが、水門のほうは十一年に完成したもののトンネルは技術的に無理であるとして実現しないまま、代わって昭和二十九年五月、関彦橋がお目見えしたのである。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)




長府鳥居前 発展の象徴·大鳥居

長府鳥居前。長府地区の中心部入口、城下町観光の玄関口となるところでもある。古い写真に見える大鳥居のある辺りが、ちょうど現在の国道九号線が走っている所になる。この大鳥居は、交通の障害になるという不粋な声で昭和四十六年、今の忌宮神社南側の石段すぐ下まで移転されてしまった。

かつての参道は、最近では長府中心街になくてはならぬメーン通り。その入口に鳥居が構えていてはトラックも通れない。ゴツン、ゴツンとぶつかる車も出てきた。移転は警察署側の強い要請でもあった。大鳥居があったのは、ちょうど今のカメラ屋の前辺り。

まだ数年前のことなのだが、取材して回っていると「そういえばこの辺りに鳥居があったな...。サテー、何年前になるのか」と、もう忘れ去られつつある。かつては鳥居をくぐればそこは海…。長府町の開発が海岸線から始まったことを考えると、この大鳥居の引っ越し 、長府の町の動きをいかにも象徴しているようでもある。

赤間関としての下関が商業都市として発展してきたのに対し、長府は国衙や守護所所在地としての政治都市的性格と、忌宮神社の門前町としての性格をあわせもつ町として生きてきた。さしずめ、写真にある地区一帯がその中核をなすものだった。

今、大鳥居から国道までの商店街が門前町をなしており、鳥居前のバス停に至る道の両側は店がビッシリ並んでいる。この道と、大鳥居の前で交差し東西に延びる道にも商店はひしめき、土居の内中の町、金屋町とつながって繁華街をかたちづくっている。

その昔、大鳥居の沖合には、神社の飛地境内として神域であり、神功皇后伝説にちなんだ満珠・干珠二つの島が、寄りそうように海峡に浮かんでいるのが手にとるように見えた。

1740年(天保十一年)の忌宮神社1650年忌大祭神輿御幸図には、この島が御座所となった海上御幸のようすが華やかに描かれているが、このもようも写真を見ると、容易に浮かび上ってくる。しかし、海岸埋立て、大鳥居引っ越し後の、まるで海も見えない現在の写真からは、飛地境内への海上御幸は想像することさえ至難である。

昨年は二十五年に一度という準島への海上御幸があった。十一月一日、工場群をバックにしての神聖なる御幸だったが、あまりの海岸線の開発に神功皇后が悲しまれたのか、雨に見舞われる悪天候下での神輿御幸となってしまった。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



亀山一帯 神宮司町…外浜町

神宮司町。

若い人たちにはほとんどなじみのない町名だが、少なくとも昭和二十七年までは存在していた。仲之町と合併してこの厳かな町名は消えたが、今の亀山八幡宮東側石段下のひと筋と考えてもらったらいいだろう。隣接していた外浜町と神宮司町の間で、亀山八幡はわが町内である、とよく論争のタネになっていたという。

今、亀山八幡の大鳥居前は国道九号が走っているが、昔は鳥居のすぐそばが海で、亀山の浜として明治、大正っ子の絶好の海水浴の場所となっていた。今でもここで泳いだことき懐しむ人は多いはずだ。亀山八幡の竹中所孝宮司もその一人。舳先から飛込んだり、義経の八艘とびならぬ舟底くぐりをやったりして楽しんだという。

このあたりが、古くから山陽道や九州渡航の起点とされたところである。現在大鳥居そばに山陽道の碑が残されているが、この碑文の裏には「明治十一年九月、渡船場新築 山口県」と記されている。一帯の埋立てが行われるまでは、堂々たる唐戸湾があり、新天地通りなど唐戸の盛り場や国道部はすべて湾内で、唐戸桟橋あたりは湾外で海だった。

湾内には百、二百石くらいの小舟がいっぱいに停泊。いざ時化となると他の海岸にいた船はことごとくここに避難、湾内は船で埋まっていたという。しかし、波静かなときは大池のようなもので、特に満月の夜などは風情があって「舟をよぶ外浜の渡に夜ふけて こたふる声は千鳥なりけり」という和歌も伝えられている。

この渡場から出る渡しを利用すると、市内の東方から西へ行くのに赤間町、西之端町を遠まわりするより、昔はかなり近道になると、多くの利用客があった。渡賃は一人五厘だったところから「五厘渡し」と親しまれていたが、明治三十年ごろ、この唐戸湾を埋立てるというとき、五厘渡しの船頭は「生活に困る」と、埋立てに猛反対、市役所へ押しかけて行った。

船頭だけの小人数だったが、マスコミの発達した現代なら、さしずめ「生活権の侵害」などと報道されたりして、ちょっとした市民運動にまで発展しかねないが、まだまだ封建の余勢強い時代のこと、「そんなこと言うとおまえたちのためになるまいよ」なんて言われて、結局そのまま泣き寝入り、唐戸の埋立てがスタートしたのである。昭和になって再度の唐戸埋立てがあり、同八年には唐戸市場がオープンした。その後も埋立ては続き、昭和三十二年に一帯の埋立ては完了した。

亀山八幡宮は戦災で神社、楼内拝殿、回廊、能舞台とすべてを焼失、その後再建されたが、能舞台は焼失したままだった。毛利綱元が周防灘で難風にあった際、波上に亀山の翁が浮かび、その導きのままに舵をとり危難を脱した、その奉賀にと綱元がこの能舞台を建てたのである。それだけに能舞台の復元を望む声は強く、八幡宮でも二、三年内にはぜひ再建したいと計画中である。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



西細江 なつかしの駅前旅館

写真は今の細江交差点あたりの街なみである。下関駅が細江にあったころだ。下関駅(旧)から歩いてくると、山陽ホテルや郵便局を左側に見ながら、写真の建物がちょうど正面に位置していた。白いコンクリートづくりの建物は百十銀行西支店。その向う側はいわば駅前旅館街。手前から、いとう旅館、長洋館などが並び建っていた。

詩人,立原道造の昭和十三年十二月一日の日起の一部をのぞいてみよう。

「下関の駅前旅館。佗しい三階建の旅館だが何かしらいいところがある。たとえば僕が便所を教えられて便所だと思って戸をあけると、こわれた椅子だの何かがくらがりに積んであって、便所は背中のほうにあったことだの、お風呂はいらないというとお風呂は銭湯へ行ってくれといわれたことだの」

「駅前に立っていた円タクの助手のような男にここまで連れられて来てしまったのだ。三階の窓から見ると、前は電車通りで、神谷町で待っていた築地の電車とおなじ車体の電車がとまる。その音が轟々したり、もう十二時近いので店はみなしめているが、人がときどきとおり、灯がまだともっている。久しぶりに町に「かえって」来たような気がする。一週間以上になる。こんな夜更けての町のふんい気なくなってからもう…」

このあと「この佗しさも悪くはないが、もっと宿さがしに冒険してもよかったのかもしれない」といったことを書き、すりきれた畳、古ぼけた柱、建具、まずしい家具の中でだんだん心がなごんでくる、と最後 結んでいる。

この電車通りに面した三階建ての駅前旅館…どうも写真にある長洋館ではないか、というのが多くの人たちの見方だ。百十銀行の手前のほうには「待合所」といった看板提灯も見える。この店の角に、日和山へ上っていく山陽通りがあった。山陽の通りに面して、亀の甲せんべいなど売っていた名産屋もあった。

現在の細江交差点から日和山方面に向う道路は戦後広くなったもので、この道路の西側部分は、かつて名産屋などの並んでいたところ。要通りは旅館の間を通り抜けていた。近くにしよう油屋を営む山中要蔵という実力者がおり「要通り」はこの人の名前からつけられたという。

山陽の通り、要通りと平行して西側に「みつわ通り」もあった。この通りに「ミツワ」という喫茶店もオープン、モダンな下関に色を添えたりしたものである。

百十銀行の建物は、昭和の初めにはカフェに変身した。下関のカフェは、ツルヤが亀山の前につくったのが第一号とされるが、この駅前カフェも下関では早いほうだった。店名は「オリエント」。滝というのか噴水というのか,そんなしゃれたものをつけた池が店内にあり、酔客がどんどんここに戒び込んでは大騒ぎしたものだという。

この一帯は戦災であとかたもなく消失したが、要通りの名だけは残った。山陽の通り、みつわ通り、さらには国道部分に当る山陽の浜といった愛称はいつの間にかなくなってしまった。

国道九号、あるいは市道何号線といった呼称も結構だが、わが町の通りとしての愛着を強くするためにも、それぞれの通り耋称だけはぜひ復活してもらいたいものだ。たとえそれが町内だけのものであっても…

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



山陽の浜 関の郷愁の原点

五十二年七月末、市政八十八年を記念して盛大に催された市民祭。この人混みのなかで、かつての山陽の浜の賑わいを思い出された人たちも多かったはずである。西細江町。小舟相手の舟大工や商家の並ぶ小さな町だった。

明治三十四年、沖を埋立て駅が登場してからというもの、駅から東に延びる山陽通りは大いに繁盛した。今の細江の国道部である。次々に宿屋や店が建ち、船だまりとなっていた海岸べりは終日賑わい、特に日が落ちてからは夜店がズラリと並んだ。

唐戸湾が埋立てられてからはますます小舟がここに集中し、賑わいに拍車をかけた。ガマの油、台湾バナナのたたき、のぞき、射的場、おでん、うどん…
何でもそろっていた。「カチューシャかわいや」とうたう艶歌師、それについて歌本を売る娘。

冷(ひや)こて甘いアイスクリーン(決してクリームではなかった)は子どもたちの人気の的だった。五銭出してミルクセーキを飲むと、子ども仲間では自慢のタネになった。

桃柑子芭蕉の実売る磯街の露店(よみせ)の油煙青海にゆく(下関にて)

若山牧水が二十四歳(明治四十一年)に処女歌集「海の声」におさめたこの歌は、下関·山陽の浜風景をうたったものとされている。

大正時代も終わりのころには映画館、というより活動館、山陽クラブもできた。何でも十銭という、十銭ストアもこのあとに登場した。まさに関の銀座そのものであった。

昭和に入ると山陽百貨店もオープン、山陽ホテル屋上には今でいうビヤガーデンも店開きし、五色の提灯が海峡の風に揺れた。この浜も昭和十三年の埋立てで電車が通るようになってからは大きな建物が並びだし、夜店も消えていった。しかし、駅からはき出される関釜連絡船旅客がこの歓楽街に落とす金は、まだまだ莫大なるものであった。

が、長びく戦争にこの浜もカーキー色の戦時色一色となり、昭和十七年、駅が竹崎に移ってからというもの、関の名物は完全に消え去り、人々の心の中に郷愁として今日まで伝えられているのである。

戦災で丘側の家は焼け、三十六メートルもある道路が苫に目立つ状態が続いた。この間、銀行や一般事業所がぽつん、ぽつんと建ったが、かつての賑わいをとり戻すものではなかった。二十年代の終わり、船だまり約二万六千平方メートルは跡形もなく埋められてしまったのである。

ひところは横綱千代乃山一行の大相撲巡業、移動動物園などがここで興業、サーカスのジンタのリズムが山陽の浜の賑わいを思い起こさせたりしたこともあった。山陽の浜の思い出を忘れがたい人たちは広大な埋立て地利用に際して公園化を訴え、市もその方向で動いた。

が、どこでどう変わったのか、結局は商店街とも歓楽街ともビジネス街とも区分けのつかぬ、まことに中途半端な町となり現在に至っているのである。ここにあるトラックセンターも数年前から移転話が出ては消えしている。

もし当初予定通りに公園化されていたら…    近所に住み、山陽の浜の栄枯をじっと見つめてきた郷土史家·佐藤治さんは、そう言うときっと口を真一文字に結んだ。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



竹崎町 下関の縮図の町

竹崎町の明治以降の歩みは、まさに下関の縮図である。かつては下関の西のはずれの小さな漁業部落に過ぎなかった。町名の由来も、町の山に海岸特有の暖竹が生い茂っており、この竹のみさきというところからつけられたくらいだからおして知るべしで、町の大半は山だった。わずかな平地もすぐ海岸が迫り、奇岩怪石が連っていた。

それが潮の流れで洲潟ができ、人工的にここを埋立てることをくり返すうち、次第に町の面積を広げ、特に昭和に入ってからは埋立て事業は本格的になった。無数の小山、少ない平地、迫る海そんななかで追われるような埋立て…まさに下関の歩みそのものであった。下関駅が細江から竹崎町の現在地へ昭和十七年十一月に移ってからというもの、竹崎町は下関の中心地として目ざましいほどの発展をとげた。

昭和十五年七月郷土史研究会から発行された「関の町誌」にはこの町の変わりようが、次のように紹介されている。「今回の道路拡張によって町は、まったく原形を失ってしまった。三十年前の人をぽっかり出して見せたら、到底、竹崎を見出し得なかろうと思われる」

ちょううど下関駅移転に際しての町の整備のころで、このときの埋立て、改造でだいたい今の竹崎町の原形ができたと言える。もとの機関車庫や貨物の積みおろし場、航送船の発着場は整理された。専門大店は「サン·ロード」として大増改築されたが、ここはかつて機関車が出入りし、方向転換していた場所だった。大歳神社の小さな丘も削りとられ、神社は線路を越えて東側の現在の小山に移されたのである。十七年十一月十四日の新聞を見ると「竹崎町踏切り、きょう限りで廃止」の記事も見える。

細江に駅のあったころは、サン·ロードそばの国道付近にこの竹崎町踏切があったのである。幡生、桜山を抜けてきた山陽線はここを最後の踏切として細江の旧駅に終わっていた。海側から踏切を越えると、西は邦楽座通り、東は豊前田の花街にと道は分かれていた。踏切の西方には集積場があり、売られていく牛が群がっていた。現在の大洋漁業支社、下関駅あたりも海だった。竹崎地区のメーン道路が今の形態をとるのは、この埋立て、整備によってである。

周辺がどんどん埋立てられた当初、一帯は果てなく広がる砂漠のようなもので、夏には盆踊りや野天映画も上映されたりしていた。戦後も竹崎沖の埋立ては進み、諸施設が建ち並んだが、ここに念願だった文化の殿堂市民会館が昨年五月に市制八十八周年記念事業として完成、またその隣りで商都·下関の夢よ再び…の悲願から西日本最大規模を誇るシーモール下関もオープンするなど、今、大都市の玄関口としての様相を整えつつあるのは、下関の縮図の町として、いかにも象徴的である。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



阿弥陀寺町 魚屋の町として発展

壇之浦海沿いに家ができた当初、地区が狭いため、家はできても間口は1間半(1.7m)、奥行四、五間(約8m)というのが多かった。そもそもこの家の建設は、明治初年に砲台ができることになって、今の御裳川橋あたりにあった二十戸ばかりの漁師部落が移転に迫られ、壇之浦の海岸を整備、ここに新しく建てようということになったもの。

とにかく家が狭くて困る。そこで、裏の海面に二m足らずほどの掛け出しをしてほしいと県に請願、その許可を得た。これで漁具や洗濯の干場もできたのだが、実は当時でも海面使用料というのがあった。もっとも、年間十銭と、破格の安さではあったのだが…。こうしたいきさつから、壇之浦海側の家は独特の構造をもっており、階下から直接船に乗り込んで海峡の漁に出られるようになっている。家と海峡が完全に共存しているといった感じなのである。

壇之浦が漁師部落として誕生したのに対し、阿弥陀寺町は魚屋の町として発展してきた。魚問屋が軒を並べ、セリ市場もいくつかあった。ここに集まってくる魚は、地元の壇之浦をはじめ伊崎、竹崎、安岡、吉見、遠くは仙崎、そして対岸の田野浦や豊後の姫島などからも盛んに運び込まれたものだという。

阿弥陀寺町でもう一つ特筆すべきは料理屋の多かったことだろう。眺めの良さ、ピチピチした魚が食べられるといった好条件によるもので、春帆楼などは別格としても、傘福、大吉、常六といった魚屋は次々に料理屋兼宿屋業に乗出していったのである。高杉晋作をはじめ、伊藤、山県、井上、桂といった維新の志士たちもここの座敷で杯を傾け、夜ともなれば稲荷町、裏町に遊んだといわれている。

唐戸湾が埋立てられ、遠洋漁業が発達するに従って、町の魚市も次第にさびれたものの、昭和七年に海岸が埋立てられて電車が走るようになってからは、海沿いの料理屋はすべて岸壁に新築し、新開業もあって料理屋は二十軒近くにものぼった。しかし、戦火は町の守り神だった鎮守八幡宮をはじめ、この町をことごとく焼いてしまった。

戦後、岡崎、中島などが十年くらいの間にできたが、かつての繁栄を町全体として取り戻すには戦火のダメージはあまりにも大き過ぎた。だが、往時のこの町の良さだけは今も十分に残されている。

司馬遼太郎は「歴史を紀行する」のなかで、阿弥陀寺町の料亭での感想を次のように紹介している。

…「宿の裏はそのまま壇ノ浦の海になっている。部屋の外にくろぐろとした潮が巻き、底鳴りしつつ走り、その最急のときのすさまじさはながめているだけで、当方の息づかいがあやしくなるほどである。(中略)  手入れ要らずの庭です。と、家つきのおかみさんがいう。庭とは、むろん海峡をさしている。まったくこれほどの庭はないであろう。このせまい水路をきれめなく往来する船々の袅や形を眺めているだけで、いつのまにか日を暮れさせてしまい、下関での心づもりの場所をみる時間を失った」

座敷のてすりにもたれたまま硯海に釣り糸をたれて楽しむ…  こんなふんい気だけは、今もこの町に生き続けている。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)

(彦島のけしきより)