ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会、雪崖先生、硯湾学舎に学ぶ | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

(ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会)



雪崖先生、硯湾学舎に学ぶ


雪崖先生は、萩の松下村塾で2年間の勉学をさらに、清末の広井良図先生の「硯湾学舎」に学ばれた。広井先生は、はじめは清水藩の儒臣だった。儒臣とは、殿様に学問を教えると同時に、藩士の教育にもあたる人で、ようするに一国の教学のもとじめをする人である。わかりやすく言って、今の文部大臣のような役目である。


良図先生は幼いとき、学者であったおじいさんの良徳から読み書きを習い、それから萩の明倫館の学頭(今の校長先生)山県大華について勉強された。※(山県大華という人は、はじめ筑前博多の大学者亀井報について、さらに佐藤一斎、安積良斉など、当時の一流学者について学ばれた大学者であった)ついで大阪に出て有名な森田節斎、後藤松陰について学ばれ、藩に帰って儒臣となられた。


こののち、京都の蛤御門の戦いで、長州藩が大敗したとき、ちょうど良図先生は、藩の江戸屋敷に滞在しておられたが、捕えられ、2年間江戸屋敷に閉じ込められてしまった。


明治維新の時、許されて帰り、清末県(一時清末藩を清末県といった時代がある)の大参事に命ぜられたが、まもなくこれをやめ、下関の細江に「視湾学舎」という塾を開いて子弟の教育にあたられた。


このあたりではもっとも大きな塾で、ここに学んだ人は前後3000人の多きに達したということである。前にも少しふれたが、年輩の方がたはよくごぞんじの内田重成さん(従三位勲一等、勅選議員となられる)も、この塾で学ばれた。


なお、良図先生は、赤水と号し明治8年に77歳でなくなられた。中村の大福寺は「宝林寺」というが、その山号を良図先生が書いておられ(この書には、良図、硯湾書屋という印鑑がおしてある)同寺にたいせつに保存されている。


ちなみに、今はなくなっておられるが、石町の田辺葬亮さんのお母さんは、この良図先生の娘さんである。


(ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会)



豊華義塾設立の趣意書をくばる


硯湾学舎を終えた雪崖先生は、その足で京都の本願寺の普通教校「大学林」に学び、さらに高等科に進学された。坊さんになるための最後の勉学だったが、途中たまたま脚気を病み、明治8年10月やむなく帰省された。


「私塾設立の義に付御願」


私儀

先年来地方青年の資力に乏しき為め、空しく山間僻地に幽居し居るを目撃して、私かに慨歎致し居候処、今般別表の学科教授を以って、茲に一つの私塾を設立致し度、就いては、神田雪崖を校長兼教員に、秦大道を理事兼教員に、(中略)、特別の御註議を以て御許容 被成 下度 只管奉 懇願 候

明治二十四年三月一日

豐田下村設立者安藤吉右衛門

山口県知事 厚保太郎殿


さて、こうして塾の設立が認められたので、塾生募集の趣意書をくばった。この文章は、よく雪崖先生の快男子ぶりをあらわして、当時の青年諸君の向学心をあおったと思うので、その一部を紹介しよう。


「豊華義塾設立趣意書」

突乎、山陽道の西端に豊華義塾生まれたり。豊華義塾は何の必要ありて此の繁雑多忙の社会に生まれたるや。人は云うらん、虚々として又実々とも。されど、我輩の意図は実に邦家隆運の万一を補なんとするにあるなり。請う、座を閑静の盧に占め、心を平和の境に遊ばせ、遠く古今の盛衰と広く万国の消長とを考えよ。其の国家の盛衰する所以の者はいかん、其の社会消長する所以の者はいかん、「以教育の盛衰消長に関せざるはなきにあらずや。然るに、侍々古今地方の状況を察するに、進んで三府の都会に遊ばんか出ずるに資なく退いて郷関止まらんか。学ぶに校なし、 遂に、為めに幾多惜むべきの青年をし、孤村僻道に呻吟せしむ。まして奮っての通八達の都府に出ずるも、真正、精心的の教育を施し、独歩日本男児を養成するの学舎、零として雨夜数点の爛星に異ならざるにおいておや、是れに於てか多多負笈の学生は多額の資金を散し、貴重の光陰を費して鬱鬱として故山に帰る。夫れ然り、此の群々たる青年のみの不幸に止らずして、実に、地方郡村の不幸は、終に社会の進化をして遅々たらしめ、邦家の元気をして消磨せしむる一国の一大不幸なり。是れ、我輩の夙夜杞憂に堪へざる処にして、茲に処て微力を顧みず、聊か学事の端緒を開き、敢えて自ら其の任に当らんとする所以なり。我輩の微力、能く一定所用の器械を完備し、幾多応科の人数を庸聘し、以て、岸所に鋭爪を施すが如きの感あらしめんとするは、今日実行する能わざる所(器具を備え先生も多くやとっているので、かゆいところまで手の届くようにはできない)、名誉の記号を附し、出ずるに資格のを戴かしめ、以って民衆の歓を装うが如きも亦、素より我輩の企及すること能わざる所。(ただ肩書で人をごまかすこことはいやである)  故に、此等の諸点に意を制せらるるものの士は去って各其欲する所にゆけ。(肩書のみほしい人は、也に行け)是れ、更に我輩の意に介せざる所なり。されとも、器械の不完は之を忍び、名声の記号は之を外にし専ら内部の実学を研究し、以て進んで国家の原動力者となり、退いて心身を適所に安んじ、進一退正義に伏り、以て世に処せんとするの士は来りて我輩の門戸を叩け。我輩は此等正義の士を待ち、此等正義の士を涵養せんとするものなり。(器機は不備でもよい肩書もいらない、ただ実力をつけたいという青年は来なさい、そういう人を私は待っている)今や我輩眼を一転して宇内の状勢に注げば、彼の惨胆たる悲風は颯々我輩の眠りを覚まして己まざるなり。曰く、北里強鷲の軍議会上には日本政略の策顕れたりと。 (目を北方に向けてみよ、はげしい鳥が日本をねらっている日露戦争前夜の状況をいう)

(中略)

切に語を寄す。明治有為の活男児よ、皆も我輩の微意を了するあらば、馬を崔鬼の険路に躍らせ、志を洋海の波涛に馳せ、以って勇進不退の猪となりて、大いに脳裡に蓄うる所あれ。 (とくにいいたいことは、明治の青男児よ、私の気持ちを受取って馬を高いけわしいところにかけあがらせ、志をようようたる海のかなたにはせ、猪のようにあとに退かず、おおいに考えよ)豊華の華園は華山の東、豊田川の南朝に眼前茫々、無限の田野を眺むべく、暮に背後蒼々無窮の山水を望むべき。地味豊穣、風光愛すべきの一大活廃地に屹立する者なり。来り来て豊華無尽園の花を折れ実を採れ、我輩は依然として諸子を歓迎せんとするものなり。(なんと豊田郷の美しき自然よ、このつきることのない花園にきて花を折り実を採れ、私は心から諸君を歓迎するものである)


雪崖先生の意気さかんなるさま、この趣意書の一字一句にその面目を語っている。


(ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会)



校舎と先生


さて、塾の設立願いに対して、認可があった。

豐田下村安藤吉右衛門

明治二十四年五月二十九日付願、私塾豐華義塾設立の件認可す。

明治二十四年七月七日

山口果知事 原保太郎


認可は7月だったが、すでに塾は2月から開いていて、殿居の村田新さんと松村栄太郎さんの2人が「負笈(書物を入れたかごを背負って遠い地に遊学をすること) 来学せり。これを豊華義塾生の矯矢(はじめということ) となす」と、雪崖先生の日記に書いてある。


とりあえず校舎を中村の大福寺としたが、本堂の使用は檀家との関係があるので、のち、蓮光寺へと移す。この真宗蓮光寺は、幕末のころに檀家30数戸とともに大福寺から分れたもので、今の中村西公会堂のところにあった。明治の中ごろすぐに無住職の状態となっていて、建物のみ残っていたので、これを校舎にしたのである。


今も、このふきんには蓮光寺当時の墓石が残っている。移ってから約1年ののち、蓮光寺の古い建物が風雪で大破したため、村民のこころざしある方がたの浄財を集めて、同じ森(当時、蓮光寺の周囲には樹木がおい茂っていた)の中に校舎を新築した。そして明治5年2月11日の紀元節(今の建国記念日)のよき日、新築祝いにあわせて開校式を行なっている。


このお祝いに出席をした人びとは60名あまりで、そのうち来賓が5名で、初代の豊田下村長多根祥介さん、二代目豊田奥村(のちの西市町)村長藤田正夫さんをはじめ小学校長の阿武光二さん、それに近くの人びと、塾の先生2人であった。また、中村の上の松井家と下の松井家が、お祝いとして酒一樽(4斗)をふるまわれた。


当日の賄は一人前2銭の約束だったが、料理を請負った人から「足が出たので、1銭増してくれ」という願いがあり、やむなく3銭払ったそうである。参考までに付け加えると、そのころの米の値段は1升7銭7厘9毛、1俵が3円1銭 酒1升が5銭3厘8毛だった。(山口県統計百年史による)


なお、豊華義塾の先生がたは次のとおり。


稗田雪崖塾長兼教授で、倫理、漢文、作文および歴史を担任。

秦大道  英語を担任、この人は楢原の正念寺の住職で、英語がたんのうだった。

神代百合夫  数学を担任。


教授の秦大道さんのことを少しふれてみよう。はじめ大道さんは、高山の浄林寺の石廉派という碩学の坊さんについて学んだ。


余談になるが、この蘭涯さんは、文久年間田部の教念寺から浄林寺へ来られて十四世住職となられた。当時苦しかった寺の財政を整え中興の人といわれたが、また塾も開き、厚狭、大津郡はもちろん遠近を問わず徳風を慕って、多くの門人が集まったということである。


大道さんはここで明治13年から5年間勉強し、ついで山口の開導教校に2年、さらには東京へ出、神田の明治会館で英語を学ばれた。上京した大道さんは、ハイカラな懐中時計が欲しくてもなかなか買えないので、クサリだけ買ってきて帯にぶらさげ、いかにも時計を持っているかのように街をあるかれたそうである。


また、後年家庭で「なんでも、今の若い者は勉強をせん。そんなことでどうなるか。昔豊華義塾ではムシロの上に、「一心不乱に学んだものだ」と、口ぐせのように話されたということである。豊華義塾は、塾とはいいながらきちんとした学科目があった。


(ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会)


(彦島のけしきより)