ふるさと豊北の伝説と昔話、かがり家、ひの家 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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(豊北の伝説と昔話 挿し絵)



かがり家・ひの家


昔は、たいていの家には門名というものがあった。本当の姓の古沢とか伊藤とかは使わずに、「ふるや」とか「しんや」とかの通称を呼んだ。それが門名である。


昔からの古い家柄だから「ふるや」その家からの分家であるから「しんや」、先代から先々代が出雲の方から移って来たから「いずもや」、「えびす家」はその家の持船の名で「えびす丸」ということがその由来であるが、中には随分と変ったものもある。


神玉の二ノ宮さん(神功皇后神社)の社のすぐ下、土井ヶ浜海岸一帯を見下ろす所に「かがり屋」と「ひのや」という二軒があった。今はどちらとも近くの別の宅地へ移転して空屋敷となっているが、それでも、そのまま「かがり屋」「ひのや」で通っている。


その由来は元寇の昔「さあ蒙古が押し寄せて来る」ということで、鎌倉方の侍たちが陣屋を構えて夜も昼も警戒に当たった。夜になると、どんどん大かがり火をたいた。その跡だから「かがり屋」、「ひのや」は火の屋、つまり陣屋ということで、それが「かがり屋」「ひのや」の門名の由来であると祖父から聞いている。


土井ヶ浜周辺にはこの外に、鶴ヶ岡八幡宮、鎌倉の森、鬼の松など元寇の跡が口碑として残っている。


(豊北の伝説と昔話 第二集)



礎石

土井ヶ浜祭場の西側すぐ近くに、碇石と昔から言い伝えられる、一尺四方、長さ四尺くらいの石柱がある。それはその昔、蒙古の軍船の使用した碇であるという。

更にもう一ケ所は、鬼の松のあった忠魂碑の丘の、枯れ松の大木(これは鬼の松ではない)の根方に三個ばかり片寄せてあるが、この方は柱状の玄武岩ではなく、平たい推積岩で、石質は明らかに異る。

つまり近来発掘された〈組合せ石棺〉に使用されてある石と同じで、いつのほどにか混同されて、言い伝えられたものであろう。

(豊北の伝説と昔話 第二集)

(彦島のけしきより)