図説「下関の歴史」、さよなら路面電車 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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さよなら路面電車1

大正15年12月、山陽電軌株式会社によって、市街電車が初めて長府松原ー壇之浦間の5.4kmを走行した。このときの電車は、日本車輌の製作したもので、当時の購入金額は7,000円、40人乗りの電車8輌が購入された。車輌は山陽本線で長府駅まで輸送され、そこからは大型の牛車に乗せて、松原の車庫まで、三日がかりで運ばれたという。

当時、下関ー長府間の交通機関としては、土井、中林のふたつの乗合自動車が走っていた。運賃は40銭から50銭であったが、新説の電車は1区4銭、全線4区16銭という格安の料金で、電車の珍しさとも相まって、多数の乗客を獲得した。

その後の路線の拡張をみると、昭和3年4月に長府松原ー鳥居前間が開通、同年12月には長州鉄道が敷設していた幡生ー東下関駅の路線を買収し、さらに翌4年には東駅ー唐戸間が開通して、幡生ー唐戸間が全通した。(野村忠司)

(図説「下関の歴史」より)


さよなら路面電車2

昭和7年9月には鳥居前ー長府駅前間が開通、その翌年には10月に壇之浦ー唐戸間が連絡され、市街電車としての体裁を整えた。また同13年11月には唐戸ー細江間も開通して、市民の足として電車は重宝され、大いに利用された。

電車から伸びたポールが架線からはずれて立ち往生することもあったが、出発合図のチンチンと鳴る号令から「チンチン電車」の愛称で呼ばれ、市民に親しまれた。

路線は東駅を起点に西細江までの唐戸線、幡生線、長府駅前と西細江までの長関線があり、のちに大和線が加わった。戦後も路線拡張が行われ、西細江ー下関駅間、下関駅ー彦島口間の運行がかいしされ、営業路線の延べキロ数は17.7キロに達した。(野村忠司)

(図説「下関の歴史」より)


さよなら路面電車3

電車利用者数は、昭和19年に1381万7187人の戦前最高数を記録、戦後は同33年に2470万3793人を記録しピークを迎えた。しかし昭和40年代に入ってからは利用者数は減少の一途をたどり、経営状態も次第に悪化していった。モータリゼーションが進行し、低速運行の電車は、利用者が少なくなっていったと考えられる。

山陽電軌では、経営の立て直しをはかるため、昭和44年10月に比較的利用者の少ない唐戸ー長府間、下関駅ー彦島口の路線を廃止、翌年からは、運転手のみのワンマン電車を運行させるなどの方策を取ったが、黒字経営への妙手とはなり得なかった。

そしてついに昭和46年2月6日、路面電車は全面撤退することになり、下関駅前を午後10時40分に出発した東駅行きが最終便となった。こうして、市民の足として長く親しまれた路面電車は、45年間の歴史に幕を閉じたのである。(野村忠司)

(図説「下関の歴史」より)



(彦島のけしきより)


参考

サンデン電車(参考)