左: 旧大洋漁業本社、右: 下関駅
参考
山陽本線を誇ぐ大坪跨線橋
この橋は明治23年に九州鉄道がドイッより購入したもので、大正2年には長州鉄道の手に渡り、昭和3年から山陽電気軌道が使用した。車両は昭和34年に製造された800型の805号。下の国鉄幡生機関区には昭和43年から量産された EF66型が見える。(幡生町·昭和43~46年·提供= 栗田勲氏)(下関市の昭和より)
昭和46年2月6日にサンデン路面電車廃止、写真/1971年2月15日下関市が発行した「市報しものせき」のコピー(提供/戸村誠一郎さん、カモンFMのFBより、2018.2.6追加)
さよなら電車(下関市·昭和46年) 、大正15年に登場した路面電車は、市民の足として親しまれていたが、自動車社会の到来で、昭和46年2月に惜しまれつつも全線廃止となった。(下関市所蔵)(保存版「ふるさと下関」より)
電車、長府開発の第一歩
下関市後田町に東駅がある。「南高はどこにあるの?」「そりゃ東駅」といった具合に、最近の使われ方としては、りっぱな地名の通称名である。
東駅、といって何の疑問もなければそれまでだが、若い人たちのなかにはなぜ東駅というのか、ズバリ答えられない人も多くなっているのではなかろうか。
明治末に下関の藤井啓一ら百四十人が集まり、資本金百五十万円で長州鉄道を設立させた。北浦開発を主眼にしたもので、正明市(長門市)にまで延ばされたが、この長州鉄道の下関の起点駅を正しくは東下関駅、俗に東駅と呼び国鉄の下関駅と区別したのである。
長州鉄道は大正十四年に小串から幡生間線路が国鉄に買収され、幡生と東駅の間には、長州鉄道が長野県の伊那電鉄から中古電車三両を買い受けて同六月一日から走らせた。これが下関の電車第一号である。
長州鉄道として、汽車が東駅まで走っていたころは、東駅は北浦地方の玄関口であり、毎日のように魚や野菜を持って市内を行商する人たちなど、かなりの乗降客があって賑わった。
しかし電車になると、こうした人たちはまず幡生で汽車をおり、さらに電車に乗りかえるというめんどうなことはしなくなり、幡生でおりたらそのまま思い思いの道を通って下関市内に出て行った。海水浴シーズンだけは結構賑わったがあとはさっぱり。経営がこれ以上成りたたない…と昭和三年十二月、山陽電軌に身売りする破目となったのである。
一方、山電のほうは長府から下関を電車で結ぶ計画を打出し、会社としては大正十三年七月に、千四百五十万円の資本金で設立。初代社長は山根武亮、専務には林平四郎、常務に中司文治郎の名も見える。山電はまず長府の松原から壇之浦の長関国道五.三九キロに電車線路を敷設した。この線路は昭和に入って長府の町中にも入り、長府駅まで延びていくが、実はこれは画期的なことであった。
国鉄山陽線を利用したことのある人なら気づかれることと思うが、山陽線は長府駅から下関へ向うのに、駅を出て長府の町に入る手前から大きく急カーブ、内陸に向っていく。これは鉄道敷設当時に長府町民が 「町がぶち壊される」と猛反対、結局、長府の端っこにちょっと触れるくらいの鉄道敷設となったいきさつがあった。
大正六年、シカゴ大学の人類学博士、エフ·スタール教授が書いた「山陽行脚」のなかでも、長府は「町は多く士族屋敷である。しっとりと落ちついて居るところは京都に似て、遊覧客を引きつけようとせぬところに高士の風がある」と紹介されており、下関旧市内と違って、長府はこのころから新しいものを拒むという、ある種の誇りにも通じるものを持っていたようだ。
さて長関道の電車だが、開業に際して電車が国鉄長府駅に運ばれてきた。四十人乗り八両。車体番号101から108号まで、長府駅から松原までの車両輸送が大変だった。まだ旧道路しかなかった時代である。この狭い道を二頭びきの牛車がエッチラオッチラと八両の電車を運んだのである。電灯線にひっかかるし、牛車は道いっぱいになって他のものは通行できなくなるため、輸送はもっぱら夜中か未明。土塀が並ぶ中を牛が電車を引っぱって行く…実にユーモラスで、また新時代の幕開けを告げる光景でもあるが、この運搬には、何とまる三日を要したのである。
こうして大正十五年十二月二十五日、長府松原から下関壇之浦に電車が走るようになり、バスに比べて三分の一という低料金も手伝って、下関から長府の人の流れが活発化し長府開発の波が押し寄せてき始めたのである。
(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)
長府駅
昭和7年、長関線の鳥居前~長府駅間が開通し開業した。ホームは屋根付きの立派なものであった。〈長府松小田本町,昭和33年,提供= 森俊彦氏〉(下関市の昭和より)
(彦島のけしきより)