ふるさと豊北の伝説と昔話、浜出祭 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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(豊北の伝説と昔話 挿し絵)



高瀬の見守り地蔵


田耕の原・部上方面から川中曽・朝生を結ぶ渡しに、高瀬橋がある。浜出祭の行列の徒歩の人は板橋を歩き、馬は川の中を渡っていた。その橋のたもとにじっと橋を見つめ、川を眺め続けているような地蔵さまがおられる。


これには悲しい物語が秘められている。明治十八年四月のこと、浜出祭の前日の十四日は大雨だったそうで、隣村の姉妹が親より一足先に原の親類に祭参りにいく途中でにわかに増水し、妹は足をすくわれて落ちてしまった。それを助けようとした姉も流されてしまって、総出でさがして、漸く変りはてた姉妹を見つけ、家に届けたという。


この騒ぎと、大水で高瀬橋が渡れないので、二日延びて浜出祭ができたと伝えられている。その前の浜出祭にも川流れが出たので、厳島神社の総代さん達や浜出祭の世話人の人々が何とかしなければなるまい、何とか考えようという動議が出たそうである。

それで橋をもっと丈夫にすることと、地蔵さまを安置したらということになったという。


村人は「気の毒だ、可愛想だ!」と川流れの霊を弔い、浜出道中の無事を祈ってここに地蔵様が安置されて百余年、ずっとこの橋や川を見つめ守って下さる高瀬橋見守地蔵さまである。


(豊北の伝説と昔話 第二集)



耳の遠いえびす様


今年は丁度浜出祭の当年で、四月四日に行われる予定だとのことであるが、これまではたいてい四月十五日が定日となっていたようである。それも明治になってからで、古い記録によると、明治以前は十一月十三日ごろに行われていたようであるが、月日は変っても八年目ごとということに変りはない。


それについては、こんな古い語り草がある。男の神様の「えびす様」というお方は、ちょっとばかりお耳の遠いいお方だったそうで、お別れの時に「いつくしまの神様」が「一年たったら会いましょう」とおっしゃったことを、つい七年と聞き間違えられたそうな、それから、このお祭が七年おきとなったげな。


そんなことからこの辺では、昔から今でも耳が遠くて聞き間違えして、とんちんかんな返とうといずれにしても「えびす様」というお方は、女には疎い方だったらしく、デートの約束など上の空で、のんびりと釣りでもしているほうが好きで、一年と七年も聞き違いではなく、わざと勝手つんぼを決め込んでおられたのかもしれない。


浜出祭のプリは、江尻座は島戸浦まで取りに行くが、岡林座、波原座は浦方から持参する。もちろん献上で、代金は支払われないが持参した使者には、飲めるだけ飲ませる習わしで、浦方からも指折りの酒呑童子のような、剛の者を遣わすということは、その者が帰り道の途中で倒れるほど酔いつぶれると、その年の漁が悪いという言い習わしだからである。


それでも古来浜出の年は、漁は「青もの」が大漁との言い習わしがある。「えびす様」という方はいつも、小わきに大きな鯛を抱えて、にこにこしていらっしゃる漁の神様だから、これもえびす様のご神徳というところであろう。


(豊北の伝説と昔話 第二集)



袖もげ坂


町道、波原―神田口線の西沢口バス停のすぐ上に、このごろではすっかり荒れて廃道となり、だれも通らないが、昔はこれが本道で、浜出祭の行列もこの道を通って来た。この坂のことを「袖もげ坂」という。


この上に権現さんがおられて、何でもこの権現さんの由来は、寛政六年(一七九四)田に害虫が大発生して、稲がみんな枯れてしもうたとき、ここの西沢の地下内で、九州の英彦山から勧請したものという。権現さんという神様は、仏がわが国の神様として姿を変えて現れたものという。


近くの波原や、岡林の片瀬という所にもあり、土俗信仰の神様であったようである。その権現さんが、浜出祭に、前を通って行かれる「いつくしまさま」に懸想されてチョイと袖を引っ張られる。それで、花神子の袖がもげるから「袖もげ坂」というとのこと。


また、浜出祭に行く娘さんがこの坂道で転ぶと着物の袖がもげるとも言われた。これもおおかた権現さまが引っ張られるからかも知れない。デートの約束一年を七年と聞き違いしたりするような「えびすさま」と違って「権現さま」のほうはその道にはなかなかご熱心のお方だったようだ。


年ごろの娘さんのある家では、その時々に嫁入り仕度の着物を買いそろえることは今も昔もかわりはないが、昔から浜出の年に買うと虫が付かぬ、という言い習わしがある。


(豊北の伝説と昔話 第二集)


(彦島のけしきより)