桜井八幡宮のおこり
今から千年以上も昔、平安時代の初めころ、奈良に「行教」という偉いお坊さんがありました。
行教は、時の太政大臣、藤原良房から豊前国(大分県)へ旅立つよう命じられました。それは、豊前国の宇佐八幡宮の御神霊を京都に勧請するためでした。勧請というのは、神仏を他の場所にうつしまつることです。豊前国に着いた行教は、二か月もの間、宇佐八幡宮にこもって、一心不乱にお祈りしました。すると、七月十五日の夜半に八幡大菩薩からお告げがありました。そして、神霊を京の都に持ち帰り、石清水の男山に移すことになったのです。
行教は、都へ帰る途中、赤間関(下関市)で一夜をすごしました。その夜の夢の中に、八幡神が現われて、瑞光が四方八方を照らしました。行教は感激してその場にひれ伏しました。そして、早速この地にお宮を建てたということです。これが下関の亀山八幡宮です。行教はさらにこの地で小さな家を建て、お祈りしていると、再びお告げがあり、近くの里人を集めてお寺を建てました。 聖寿山阿弥陀寺といい、現在の赤間神宮だといわれています。
赤間関を出発し、宅賀(小月)に差しかかったときのことです。海上はるかに白い虹が現われました。お告げによって引き寄せられるように北の方を見ると、瑞雲(おめでたい雲)が輝く山がありました。行教は、その山(華山)に向かって豊珠川(木屋川)をさかのぼり、桜井の里(岡枝)の大判河原という所に船を着けました。「船が着いた場所」ということから、「船場」という地名が生まれました。
行教は、お告げどおり、桜井の杜に社を建て、鶴山八幡宮と名付けました。これが現在の桜井八幡宮ということです。(鶴山八幡宮は、現在の桜井八幡宮の場所より三百メー トル込堂側に寄ったところにありました)
(小日本 昔ばなし)(彦島のけしきより)
参考