海峡の町有情 下関てさぐり日記より、赤間関から下関 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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赤間関から下関 新時代へのエネルギー

下関…この都市が山口県内だといわれてもピンと来ない人は、全国を歩くと意外に多い。むしろ、九州といったイメージを抱かれているのだ。

しかし、当の下関は、九州経済圏に入っているとの世評に必死に抵抗「独立」を目指している。五十二年十月二十一日オープンしたシーモール下関は、そうした意気込みの先頭を走るものである。

「東、みもすそ川の東なる字杉谷に起こりて、西は伊崎町小門に至り、東西の長さ一里十五町二十間余、南北は最長のところといえども十余町に過ぎず、地形海岸に沿える一帯狭長の一区にして」(馬関土産より)という、まことに狭い地区に下関市は誕生した。

明治二十二年。赤間関市として市制施行。当時は五·三六平方キロの広さ。人口は三万七百二十九人。現在(面積二百二十一平方キロ、人口二十七万人)とは比較にならないが、当時は今の市中心部一帯だけが赤間関市となっていたこともあり、人口密度に関しては、明治二十二年当時は現在の実に五倍という高率であった。

前面には海峡が流れ、背後には小高い山がたち並ぶ。この丘に囲まれた海沿いの細い帯のような市街。とても新時代に対応できるような町の形態ではなかった。そこで出てきたのが下関近代史の象徴ともなった海岸埋立て。

明治二十九年の埋立てで神宮司町、唐戸ができた。田中川の改修で新町が、裏下関の幹線道路完成で本町が、それぞれ明治三十六年までにできた。延々と四キロにわたる町並みだった。

幸い隣接する町村は土地も広く下関との結びつきも強いとして大正十年に生野村(藤ヶ谷、椋野、後田、幡生、武久、大坪)が下関に合併、さらに昭和に入ると港町が、また小瀬戸の締切りで大和町も誕生、彦島町も合併した。

この彦島も埋立てとともに発展、さらに昭和十二年三月に合併なった長府も大規模な埋立てで、城下町としての風情の半面、工業地区の様相もぐっと強めてきたのである。

昭和十五年の第五回国勢調査によると、人口十九万六千人、十八年には二十一万千五百人余りと飛曜的な発展をとげ、西日本有数の大都市となったが、二十年六月二十九日と七月二日の二度の空襲により、下関中心部は壊滅的な打撃を受け、人口は十五万余に激減したのである。

焦土の中から立上り、復興へ、再建へ…。この過程の中には、復興ムード盛上げにと、みなと祭りなども長らく続いたりした。

中継貿易·水産基地を基盤に伸びてきた下関だが、市制八十八年前後を契機として、下関は改めて新時代を迎え、これまでになかった方向に歩き出そうとしている。農林水産業、商業、工業、貿易、さらには観光をも含めた総合都市としての歩みだ。

文化都市づくりに燃えながらも意気込みだけに終わってしまいがちだったその文化面でも、今度こそという新しい息吹きも感じられる。五十二年八月の八十八周年を祝った市民祭は、予想をはるかに超えた下関巿史始まって以来といっても過言ではない賑わいだった。

全市民が下関に期待している。旧来の下関から脱皮し、新時代にふさわしい下関に…。甦れ下関。市民祭の群衆の中で、そのエネルギーの手応えは十分に感じとれたはずである。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



亀屋 初代市長は市民の誇り

わが国に初めて市制が施行された明治二十二年四月一日、県下でただ一つの市として赤間関市は誕生した。市民はシャギリをくり出して祝ったりしたが、このとき初代市長に選ばれたのは伊藤房次郎であった。

伊藤は薬屋、亀屋を家業としていそしんでいた。山口生まれ。文久元年(一八六一)三十歳のとき、西之端で店を開いていた亀屋(伊藤家)に養子として迎えられたのである。下関のリーダーに養子が多いのは何も今に始まった話ではなく、昔からの伝統のようだ。

亀屋の大先代、伊藤左衛門尉盛成は京都蘅府の尉をつとめていたが、承久の乱で官軍に属して敗れ、六年後の一三二七年、長門の目代(地方長官補佐)として京都から下関に左遷されてきた。いったんは武士を捨て、前田村に隠遁していたが、のち下関に移り、慶長年間に薬屋を始めたといわれる。

伊藤家はそんな家柄だが、薬店·亀屋として地歩を築いたのは十五代喜三郎が「致新膏」をつくったころからだといわれている。化膿、アカギレの治療薬だが、とにかくこの亀屋の致新膏はよく効いたようで「関の惣嫁にやりたいものは亀屋の致新膏に竹のへら」と歌われたくらいなのである。

さて、幕末に亀屋の当主となった房次郎は薬屋のもうけを大いに使った。遊びではない。いわゆる世のために、である。当時は幕末の政情が風雲急を告げたときで、米·英·蘭·仏の下関砲撃事件などもあった。房次郎は家業として亀屋ののれんを盛りたてる一方、目を国情に向け、外艦打払い、軍艦購入の費用として、藩に対し多額の献金を行い、新時代の到来に非常に積極的な動きを見せた。

明治新政府のもとで地方行政の基礎が確立すると区長に就任、続いて県会議員、赤間関商法会議所(下関商工会議所の前身)頭取にも選ばれ、政治、経済両面から新しい下関の誕生に力をつくしたのである。このあと初代市長に選ばれ、下関市の草創時代のリーダーとして、郷土のため、市民のためにすべて捧げつくすという姿勢をつらぬき通したのである。

諸条例の制定、なかでも市医規則をつくって地方病や伝染病の予防につとめ、種痘の実施や窮民の医療など今日の保健所の仕事の先がけとなることにまず手をつけた。薬屋市長ならではのことだが、明治二十四年六月に辞職願いを出し、後年はもっぱら社会事業に捧げた。その温かい人柄も加わって、この初代市長、房次郎の名は下関市政の上で忘れることのできない存在として語り伝えられている。

亀屋があったのは西之端町、今の日本火災海上の川向う、村中本店のある辺り。戦災で焼け、亀屋は唐戸赤間本通りに昭和二十六年新築された。現在は房次郎の孫になる第二十三代、克亮さんが経営に当っている。

扱う商品は一変した。致新膏は、店内に明治十九年につくった看板が寂しく掲げられているだけ。「めったに出ませんね。裏の工場で少しずつ作ってはいるのだが」…克亮さんはつぶやくようにこう言った。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



駅弁物語 売上げトップの下関

駅が開業してから昭和十年代まで(というよりやはり関門トンネル開通までか)、山陽線における下関の地位は不動のものだった。肩を並べる駅は県内のどこにもなく、広島なども何するものぞの勢いだった。

「馬関駅」ができると聞いて一組の若夫婦が西細江町に住みつき、ひそかに何やら準備を始めていた。この二人、名前を浜中峯吉、シナと言った。駅開業と同時に二人が何をやったかというに、駅で弁当を売り出したのである。下関の駅弁第一号だ。経営者の姓名の上と下をとって「浜吉弁当」。

浜中夫婦は広島の尾道から下関に住みついた。鉄道が開通、駅弁がいかに売れるものかを広島で目にしていた二人は、下関はこれからだ、ひとつねらってみよう…と準備を進めていたもの。これには関の商人も驚いた。してやられたり、といったところだろう。

たいした同業者の妨害もなく浜吉弁当は順調なスタートを切り、特に関釜連絡船が就航してからというもの、売行きもウナギ登りに増えていったようだ。明治三十九年、鉄道が国有となってからは、浜吉は駅前に鉄道旅館と待合営業も開始、弁当づくりもいよいよ本格化、山陽線中一番うまく、最もよく売れたという。

ここの経営者と、父親が親しかった関係から、近所に住んでいた佐藤治さんはよく弁当づくりを見に行った。「シナさんという奥さんはご飯を詰めるのがうまかった。動作がとても正確で、折箱にひとシャモジ入れると、それがきちっと箱に詰まって決してあとで増減しなかった。父が、あの人がひとシャモジ、ひとシャモジ入れたのをハカリにかけると、みんな目方が同じなんだ、と言ってましたね」…げに熟練とは恐ろしきもの、と子ども心に感心したという。

弁当は二十銭(上で三十銭)だった。大正になって並弁当が三十銭になったが、しばらくこの値段が続いたという。大正十二年、やっと下関も動き出した。入江町の菊池重四郎。これこそ郷土食なりと「鯛めし」を売り出した。

こちらも順調にいったが昭和十六年、駅弘済会と各弁当業者が合併し下関駅弁当株式会社となり、戦中戦後、ずっと駅弁はここで調製され馬関名物「ふくめし」なども登場してきたのである。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



彦島医療 悩みは花柳病と伝染病

彦島も昔は遊廓の多いところだった。福浦に始まったが、大正の中ごろからは江の浦、桜町(今の江の浦五丁目、桟橋通り辺り)にこれが移っていった。新しい色街の誕生である。

江の浦あたりに三菱造船、大阪鉄工といった大手企業が進出、修理の船の出入りが激しくなり、また町そのものも賑やかになるにつれて、福浦がさびれ、江の浦に移っていったのである。主に船乗り相手だったが、彦島の人たちもここで随分と”恩恵"をこうむったものである。

が、江の浦の人は、地元であるがゆえに行きにくく、遊びは下関方面に出かけていったらしい。逆に江の浦色街には、下関や北九州方面から多くの人たちが押しかけてきた。一番多いころで三十軒、四百人近くはいたという。戦時中はかなりの遊廓の女がここから戦地に送り込まれたりしたともいう。

遊廓といえば気になるのが「花柳病」週二回、検梅といって定期的に性病検査が行われていたが、これを受けもっていたのが重本病院や織畠病院など三施設。重本病院は、下関の黒石病院にいた重本儀助が、彦島江の浦、今の三菱の真向いの高台に開いた。工場建設などを契機に彦島が急激に発展、あらゆる施設づくりが急を要したが医療関係は伝染病院以外には備えらしきものがなかった。

当時、町内に開業医院は七つあったが、重本は公衆の利便、体面を考えて大正十年ごろ医院の大増築を行い、内科、小児科、眼科、外科などを設置、各科部長には専門の医学士を配置して診療に当たらせた。さらに入院施設も備え、病院として名実ともに充実させた。病院は高台に二段に分かれ、写真に見える手前の二階建て一階の左側のほうで花柳病検査を行っていた。

今、豊浦郡豊浦町にある医療法人·光の会重本病院はこの流れをくむものだが、重本さんの話では「昭和十七年ごろだったと思いますが、日医療団ができたのでそちらのほうに彦島の病院は渡しました。豊浦町の病院は昭和三年に開業したものですが、彦島を引きはらったあと、こちらを本格的にやるようになりました」という。

また織畠病院のほうも花柳病検査には力を入れていたようで、「彦島大観」によると「彦島東部料理組合の嘱託医として(織畠秀男医師は)敏腕をふるって居るが、花柳病に関しては斯界の大家も及ばぬほどの妙腕があるとさえいわれて居る」と紹介されている。

船の出入りの多い彦島は、伝染病危険地区でもあった。明治二十九年に建てられた隔離病舎は狭くて老朽化、このため大正十一年、彦島長崎地区の六千平方メートルの土地に五百九十平方メートルの広さの病舎を建設した。十棟、病室は三十二。

ちなみに、大正年間の伝染病発生状況をみると、コレラ患者は大正五年三十四人,六年四人、八年三人、九年四人。赤痢も大正五年は三十六人、腸チフスも年間二十六人、二十一人、十八人という患者を数えていた。今から思うと、ゾーッとさせられる数字である。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)


おわりに

下関市は昭和五十二年、市制施行八十八周年 迎えた。この年五月には米寿を祝う盛大な式典も開催された。ちょうどこの頃、明治から大正期の写真誌ばかりが手元に届いた。

「この写真と同じ位置で現代の下関を撮って、その移り変わりを紹介してみてはどうだろう」ということで、ほんの十数回くらいの軽い気持で、五月中旬から「下関88年、手さぐり日記」と題して山口新聞紙上に連載が始まった。

幸い、読者の方々の反響も大きく、結局、十回ちょっとのつもりが、八月末までの長期連載となり、掲載項目も九十近くを数えた。

何しろ、担当記者は戦後生まれで、戦前の下関、とりわけ明治·大正期の下関など知るよしもなく、すべては古老や郷土史家、さらには文献に頼っての連載で、途中「あの部分はおかしい」と、読者の方からご指摘をいただいたこともあった。

一冊の本にまとめるにあたっては、連載記事を初めから再点検し、半数以上は原稿を新しく書き直した。また写真撮影に際しても、昔の写真の位置がどの辺りになるのか、訊いてまわって終日を費したこともたびたびであった。

そうしたなかで、これだけ長く続けられたのは、資料提供をいただいた多くの方々のご協力のたまものであることはいうまでもない。一般読者の方々、下関市役所広報係、下関図書館の皆さん、また取材に快く応じていただいた関係機関、企業、寺社、学校側、出版に際してご協力いただいたアロー印刷に対して厚くお礼申し上げたい。

なかでも郷土史家、佐藤治さんにはひとかたならぬお世話になった。改めて心からお礼申し上げたい。

山口新聞社編集局取材部記者
佐々木 正

(海峡の町有情 下関てさぐり日記より)

(彦島のけしきより)