三太屋敷趾、下関市大字冨任 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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三太屋敷趾

下関市安岡町大字梶栗字堀にある「三太屋敷」は、鎌倉時代のころにおける武家館の一例証として、古城趾とともに遺して置きたい郷土研究のための大切な資料である。

梶栗の部落を北に過ぎて、行くこと約三百メートル、小さな野中の道が字平原と字富任の両部落に分かれるところ、畑地の隅に数本の老松がそびえている。このあたりに、巨大な空僚とこれに沿った土塁がある。ここがむかしからこの地方に伝承される「三太屋敷」である。

いまでは、付近の地名もこの空濠にちなんで「堀」といわれている。土地の人から聞いた話によると、この濠も、土塁も、やや完全なすがたのままで近年まで遺されていたというが、その後耕地整理などで徐々に破壊されて水田となり、いまではわずかにその一部が残っているばかりである。

空濠は生い茂ったヤブの中にあり、巾上部三メートル余、底部約二メートル、長さ二十メートル余でカギ型をしこれに沿って大きな土塁がある。また、その西方約三十メートル余に南北に延びた、これに似た空濠がある。これも手前のものと同じであったが、数年前に心ない人たちによって大部分を破壊された。

土塁の上には老松が四、五本そびえ、雑木、竹などが繁茂していて、一見してそれと悟り難いものになっている。しかし、その規模の壮大さから察すれば、相当勢力のあった家族の住居の跡らしく、庶民を威圧するような、たくましい巨館のすがたさえ想像される。

土地の人たちにたずねれば、ここを「三太屋敷」とだけ伝承して、いつの世代にまたどのような人が住居したかについては何一つ知っていない。たまたま、古書をひもとき、ゆくりなくも三太屋敷居住の主を捜しあてることができたと知らせる人があった。

時は、建長四年(一二五二年)鎌倉時代の中期、信濃四郎左衛門行心というもの長門国守護職に補せられ、北条氏の家人三井宮内左衛門資平はその守護代となってはるばる長門国府に下向して来たのであった。(山口文書館所「閥閲録」による)「三太屋敷居住の主」はすなわち三井資平一族であった。

彼は、このとき富任別府といわれたこの地の地頭職に補せられたので、下向してくるやこの地を選んで居館を営み一族を居住させ、おのれは長府にあって長門一国の治世にあたった。

このあたり、富任八幡宮の山ろくにして、梶栗平野の尽くるところ一段高い地形で、攻守ともに利便にかない、武将の居館の地としてまことに相応の地とうかがえる。

関閲録によると、→前略—千時建長四年壬子人王八十九代後深草院久仁御宇八幡太郎義家七代孫当将軍鎌倉治郎太輔賴氏,御時将軍御一族信濃四郎左衛門尉行忠判官入道行一斯時為長州守護然藤家余裳三井宮內左衛門資平為守護代長州豐西郡富任別府居住依有彼所大堀干今鎌倉使節屋敷跡堀—後略とあり、これでこの地を当時の長門守護代三井氏居館のあとであると推断することができるのである。

三井宮内左衛門資平は、建長四年(一二五二年)から弘長二年(一二六二年)まで十年間、その死亡の時にいたるまで守護代職を勤めている。その後も三井氏一族は富任別府のこの「三太屋敷」に居住し、四代資基の時事情あってこの地を去っている。資基は、元徳元年(一三二九年)までに、豊西郡室津郷(いまの豊浦町)に移り、有光名大河内の一部地頭職を拝領している。そして、その年一族のものに領内違乱のことがあって北条探題へ訴訟を起こした。

有光名というはいまいずれの地であるかわからないが、吉見町永田には八百年を越える古文書を伝承し、有光姓を名乗るものが現存し、また、いま三井氏に「厚母国衛領下作職云々」という古文書が伝来している。これらの事情から察するに豊浦町黒井村付近にあったものと惟測されるのである。

三井資基は、南北朝時代に防長における北軍勢力に加担して力を尽した豪族であったもののようで、それについての古文書が多少残存している。はじめ資基は、厚東武実に従って宮方に参じ、後、大内氏の勢力が伸んで来ると次第に北軍勢力となる。

興国元年(一三四〇年)土屋定盛、平子時重、重嗣、鷲津弘貞などとともに石州豊田城を攻めて功あり、足利直義から軍忠状をもらっている。そのほか、資基の時代における三井氏の活動を物語る各種の文献資料が山口図書館、三井本家にいまも残されている。

したがって、これらの資料を基礎として案ずれば、三井氏一族がこの三太屋敷に居住したのは、資平下向の時から資基まで四代約七十年あまりの間であったように考られるのである。また、この地点から更に北東にあたって平原という部落があり、ここにある観察院という寺院の墓地に「三井氏の墓」と伝承する五輪の石塔が六基ある。

これははじめからこのところにあったのではなく、もとその西方茶臼山の西麓(富任上稲荷)(三太屋敷から百米余西の地点、いま大小の石を廻らし小さな五輪石をまつる)に三井氏の墓地と伝えられる地があり、その衰頽と回向の絶えることを憂うる人によってここに遷したものかとも考えられ、筆者は、資基室津に移転のとき、祖先の墓をこのまま他領の地に遺すことを悲しみ、この挙に出たのではあるまいかとするものである。

さらに、梶栗部落に王泉庵という寺院がある、本尊仏は地蔵菩薩で「三井氏持仏」三体の一と伝えられている。他の二体は薬師如来と観世音菩薩であった由で、これらのうち薬師如来は川中村引田にまつってあったが後に勝山町一ノ宮の奥にある万松院に預けられ、同寺の火災で焼失したということである。

三井氏は、これらの伝承をわずかに残して「三太屋敷」を去って室津郷へ引き移ったもののようである。その後の三井氏は、室津に住み周防国佐波郡掘村に移り、態毛郡島田村に転じ、毛利氏にしたがってからは萩の城下に住んでいる。

三井資基から四代の裔資信はその弟貞資を伴って毛利元就に仕え、その子元信は毛利輝元の寵遇を深くして関ケ原戦後命によって毛利藩当職となって藩政に従い、慶長十二年(一六〇七年)から十五年(一六一○年)まで防長二州の検地に従事した。いわれるところの「三井検地」の名を残す功績があり、またその子就信は毛利秀就から熊毛郡島田で五百石の知行を安堵され、子孫長く藩主の側近に侍して、常に枢機に参じていることが見えている。(山口県文化史年表、藩譜録)

三井氏はこのように防長の名族として栄え、子孫多くわかれていずれも繁栄し、その家系の古いこと、その出自の明らかなことを誇っている。「三太屋敷」趾は、学術上にも意義ある資料として、またこの地方史跡の一つとしても長く保存すべきであろうと考える。

〔三井氏略系]
天児屋根命―藤原鎌足—道長」道綱―定能―資平(始称三井氏長門国守護代)|資信―資重―資基―資能―資武—貞資—盛資―益資―範資」資信―元信―就延—就資(以下略) 
重資興資—貞資

(下関古城趾史話 亀山八幡宮社務所)(彦島のけしきより)

三太屋敷跡

下関市富任町7丁目11(旧大字冨任)


参考

① 長門探題の跡(参考)

② 観察院(参考)