青山城趾、下関市形山町 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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青山城趾

青山は、もとの名を「形山」「面影山」といった。また山容まことによろしく、富士山のようで、土地の人はこれを「長門富士」「勝山富士」ともいっている。

古いものに、面影山については、今按ずるに生倉(倭名抄伊久俗に伊久羅)という所にあり山の形不二に似たり。遠く見渡すに山姿の美にして愛するに堪えたり、俗に山、形山両様に通していへり。

おもかげとかたちと似たる様子なれど、その義違へり、祐挙家集にいなはよと、とはましものを恋しのび、忘れがたきはおるかげの山 , この歌のごとく、おもかげ山は因幡か、ただし夫木抄の佛山のうちに祐挙をも引用ひたり。しかればおるかげ山もをもかげ山も同じ所にや。

わがせこが、山のさかさとに、我のみ恋し、あはぬ如くも(坂上良女)    承久四年七月忠隆家歌合澄のぼる、面かけ山の月みれば、心も空にうつりぬるかな(藤原為忠)    など書き残されている。

とまれ、春夏のころ濃緑の大塊が連山の端にばんきょし、天空をまするようにしてそびえたつ風景は、実に雄大の一語をもってつきる。青山、標高二百九十メートル、山上は青山城趾と伝えられ、城礎の石垣を今に残している。しかし、近年山上の工事でいまはどうなったか山ろくにあたる形山部落付近には古墳群があり、古土器なども採収され、古代文化研究の面からも注目されている。

また「青山」というは、地下の俗伝によると、むかしこの山の城主が近隣の城主と戦い、意外の大敗で「青菜に塩」のようにしょげかえったというので、形山は、その後「青山」と呼びなすようになったものであるともいっている。さらに「防長古城墟史」によると、青山、勝山村大字形山、山頂平地壱段許、南方に壇ありて石垣残れり。

由来書に、往古青山弾正と申仁居住被仕たると申習候へ共、弾正と申仁の由緒は申伝無御座候ともあって、これよりほかにくわしくはわからない。
青山城と、その上にある勝山城とは城主たちが一族であった。

けれども、戦国に生きる豪族たちの間にはありがちな勢力争いで一族不和、ややもすればともに勢威をきそい、互いに反目し、互いに離反し、両城、あるいは攻めて、また攻められて、互いに一勝一敗、その優劣はにわかに予断を許さなかった。しかし、両城の地形をあんじてみると青山城はその用水を谷の下の方に求め、勝山城はその上にある。田倉の谷は深いが小流である。しかる上流これを押さえれば下流は立ちどころに不利である。

あるとき、勝山城はこの水を押さえた。勢に優劣はなかったが、この用水取押さえは青山城にとって大痛手。そこで、どうにかしてこれを破って水を取らねばどうすることもできない、全力をつくしてこれを破りとろうとするが、その守りは非常に堅く、ついに力およばす、さんざんの敗北となって城は落ちた。城兵はあるいは討死、あるいは傷ついたままで城中を脱し、うらみをのんで郷里に散った。しかし、その多くは深く傷つき、しかる食足らず、身の動きさえ自由でなく、そのため暗にまぎれて出た城を、遠くに去らないうちに、力つきて空しく路傍に屍をさらさねばならなかった。里人たちは、後にこの屍体をその死所にれば葬って墓とし、ねんごろにとむらった。これらの墓は現在、勝山町から、安岡町にわたって各所に残り、いずれも「青山くずれ」の墓といい、これにさわれば青山落城のうらみ消えず、その人にたたりありとして里人たちにおそれ敬われている。石原のある家には、墓にお堂を建て、香花を絶たないで家の祭りとして取りあつかわれているのもある。

また、かって頂上には竹林密生、容易に近より難いが、狩人やそま人たちでわけ登ってこれに近寄るようなことでもあれば一天にわかにかきくもって、一匹の大蛇があらわれ出て大雨ごうごう、大口開いて火を吹き、その勢すさまじく、頂上へ寄せつけようともしなかった。ただし、これは地元で聞いた伝説。考えてみれば、これらはともに敗戦の痛恨極りなかった青山城中の人たちの心を思いやってのことか。

いまはあの頂上には大きな文化施設が築営され、現代文化の象徴のようにみえているとき、このような話もちとおかしいことではあるが、落城の悲話として世に伝えておきたい。

(下関古城趾史話 亀山八幡宮社務所)(彦島のけしきより)

青山城趾(参考)


参考

勝山城跡

(勝山御殿跡より)(彦島のけしきより)