大津屋
この図は明治時代の錦絵によったものだが、太平洋戦争の末期に、私が軍の徴用で大津屋に行ったときには、設備こそ違うが現在と変りないほどの大工場になっていた。
工場には十四才のときから奉公しているという口喧ましい七十近い老番頭がいて、私がかけた味噌樽のが緩いといって、日給一円八十銭も払っているのにこのろくでなしと怒鳴りつけた。
私はたまりかねて、貴様は十四才からか、俺も十四才から絵を描いて来た。今絵を描いて見せるから、そのとおりに描け、そしたら俺も貴様のように、うまく縄をかけてやると、怒鳴り返したら、それ限り喧ましくいわなくなった。
一円八十銭日給の重労働に堪えるためには、毎朝闇で一ヶ一円の卵三ケを飲んで出かけたので、これでは遠からず我家も破産するわいと思っていると、貧弱な身体の方が先づ破産して作業中に大出血をして意識不明。おかげで徴用免除になった。
だから戦争は……と今更いうより、それだからこそ、平常体は鍛えて置かなければという方が本当だろう。栄養価の多い丸その味噌醤油、食用油をふんだんに食べて……(今井)
瓦斯会社
明治四十三年松永安左衛門、福沢桃介並びに地元有志の手で創設されたが、一時西部合同瓦斯株式会社に姿を変え、大正四年二月十八日再び下関瓦斯として資本金五〇万円で分離独立した。通常このときをもって会社の起りとし、爾来五十年の星霜を経て今日に及んでいる。
設立当初の需用家数は一八七九戸で、そのほとんどがガス灯として使用されていた。
ところで大正三年七月に勃発した欧州大戦下におけるガス事業は炭価暴騰等の影響から全国的に極めて困難な経営状態にあり、電灯会社との合併、あるいは解散する小規模瓦斯会社が続出した。このような中にあって下関瓦斯の大正七年六月における決算では純益金一五、 六〇三円三八銭、 配当年八分を計上した。
なお、この年八月米価大暴騰によって各地で米騒動が起っている。しかし九年頃から炭価の下降がみられるとともに業界は小康をえて、いわば堅実な基礎確立の時代に入った。そして、この頃を境としてガスの用途は明りから熱へと移っていくのである。(岩田)
(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)(彦島のけしきより)
参考
① 現在の大津屋、昭和45年5月に貴船町から移転して来た(参考)
下関市横野町2丁目16−12
② 現在の山口合同ガス
③ 林平四郎(参考)